「王は踊る」

  Le Roi Danse ロング・バージョン

 (2001/08/27)


 

手早く結論知りたい人はこちら

 

 

「愛」ゆえに、人はどこまで愚かになれるのか?

 しかし僕のフトコロもかなりお寒いけど、世間の景気もえらく悪くなったもんだよねぇ。

 あの天下のソニーですら赤字と言うではないか。アイボやプレステはどうなったんだと言いたいが、ああいったデカい会社はそれなりにいろいろと物入りなんだろう。金回りが良さそうな芸能人が、実は出費が多すぎてピーピーいってるみたいに、傍で見てたら分からない苦しさあるのかもしれない。家族的な経営で知られた松下電器ですら、もう経営方針を改めると言っているんだ。その苦しさたるや想像にあまりある。まぁこの時点で、日本的な経営の終身雇用やら、先に出てきた家族的…といった会社のスタイルは終わりを告げるんだろう。それでいいんだと言う向きも多いだろうしね。

 何かと言えば社員旅行だ会社の運動会だ…なんて、僕も昔からすごく苦手でねぇ。休みの日くらい放っておいてくれと言いたくもなる。友だちつくりに会社行ってるんじゃねえんだよと毒づきもした。昔の僕の親父くらいの年代の人たちには、友だちから遊びから会社がすべてってなっちゃったおかげで、定年後には何もなくなっちゃって放心状態なんて人が少なくない。その点オバサンはいろいろ自分なりの楽しみやらネットワークづくりしてるから、そんなオッサンたちをまるでダメ人間扱いするんだね。それでなくても相手を自分より下とみなした時の女って、情け容赦なく残酷で惨い。もっともそれは女に限らず、そこに至るまでのオッサンたちもそうか。人間って奴は俺も含めて、てめえが相手と同じように扱われたら果たしてどう感じるかという発想がまるっきりないからね。おっと脱線が過ぎた。

 だからこれを機に、そういう日本的なシステムが全部なくなってスッキリしていいじゃないかと人は言う。変なしがらみもなくなる。実力本位。不要な者は去れ。欧米並みになっていいとか何とか。大体、資本主義は競争原理で成り立っているんだって…なるほどねぇ。でも、それってホントにいいことなのかね?

 だって一時期やたらと、日本的経営がもてはやされたことがあったんだぜ。アッサン自動車なる日本企業がアメリカの田舎町に進出した際のてんやわんやを楽しく描いた作品、ロン・ハワード監督の日本未公開作「ガン・ホー」をビデオかテレビでご覧になったことがあるだろうか? 当初はここに出てくるように、日本企業が欧米進出した際にあちこちの国で摩擦が起きた。だが、この映画の中で最終的にアメリカ人が悟るように、いつの間にか世界のさまざまな国で、日本流の良いところを吸収しようということを言い始めた。現に家族ぐるみ町ぐるみで会社と一体となってイベントに参加させたりすることで、信頼を勝ちえた海外進出企業もあったはずだ。会社で旅行だ運動会だということがいいとも好きだとも全く思いはしない。正直言って僕はイヤだが、そのファミリー的な気風が日本企業のいいところとされた時期も確かにあったんだ。それがここへ来て、すべて手の平返したように否定されちゃうって何だかおかしくはないか?

 それに実力本位が欧米では本来あるべき姿…とは言うけれど、欧米流儀が常にどこの国でも正しいのだろうか? かつてのベトナムでもそうだったかい(笑)? そもそもその「実力」って誰がいかなるモノサシで決めるんだ? 正当な評価って下されるものなのか。また、評価を受けることを社員みんなが狙ったあげく、当座のウケが得やすいことばかり実行されることにならないか? 長期的な展望やら地味な仕事が軽視されることになったら、果たしてそれはプラスなのか? そんなところまで見通しがきく上司や中間管理職や経営者なんているか? 考えてみろよ、そんなリーダーがいたら今の日本はこんな状態になってやしないだろう。

 第一、実力本位だ不要な奴は去れだとかって言っている連中の中で、どれだけの奴らが真に「有能」で「必要」な人間なんだ。みんな人ごとだと思ってるんじゃないか? 人間の替えなんていくらでも利く。それに「無能」だ「不要」だと決める側の経営者に、それを決めるほど「有能」で「必要」な人間なんているのか? どいつもこいつも思い上がってねえかテメエら。

 経営コンサルタントのカッチョいい言葉を真に受けてはいけない。奴らそうしてかき回すのが仕事で、それで企業がつぶれようが人が切り捨てられようがテメエが儲かりゃ関係ない。大体コンサルタントだとかプロデューサーだとかライターだとか、カタカナ肩書きの奴には俺も含めてロクな奴ぁいないからね。海外のエコノミストやらジャーナリストや企業人にしても、どうせテメエらが絶対正しいと思い込んでこちらを見下している輩に決まってる。こんな恥を知らない奴らのフンぞり返った言い草に、振り回されてる日本の企業人が情けないよ俺は。

 そういやちょっと前に大手企業の社長室に元社員が立てこもって自殺したって事件があったっけ。この社員は堅実で真面目な性格の男だったんだが、不況であっさりリストラされたらしい。そんな自分への仕打ちと、かつては家族的な雰囲気で社員を大事にした社風が失われたことへの抗議の意味で事を起こしたという。怒りゆえではない、愛社精神ゆえにやったらしいんだね。僕なんか何もそこまで忠義立てするこたぁないと思うんだが、この人にとっては会社が全てだったのかねぇ。って言うか、それは文字通り「愛」なのか

 社長室で言わば憤死したこの元社員の葬儀には、彼と同年配の元同僚たちが集まり、何とこの会社の社歌をみんなで歌って出棺に立ち合ったとか。ここまで来ると正直言って同情通り越して気味が悪いが、その「愛」の深さには余人の想像も至らないところがあるのかもね。「愛」ゆえに、自分の全てを捧げても悔いはない。でもねぇ、そこまで思ったところで会社なんて冷たいもんだと思うんだけどねぇ、どう考えたって。

 それが分からないほど、人は愚かになるもんなのか、「愛」ゆえに…。

 

ルイルイ命の音楽屋リュリ

 時は17世紀。フランス国王になったルイ14世はまだガキだから、政治の実権は母親のアンヌことコレット・エマニュエルと宰相マザランことセルジュ・フイヤールに仕切られていた。王様とはいえ何もできない。仕方なく毎日を道楽の音楽とダンスに興ずるしかなかった。そんなルイ14世のお気に入りがイタリアからやって来たリュリことボリス・テラル。当時は芸術家と言えば権力者のパトロンの庇護の下で働くのが常だったので、音楽家で舞踊家のリュリ=テラルとしては最高の地位に上りつめたわけ。自らのプロデュースで歌と踊りに興ずるルイを見つめながら、このリュリ=テラルはルイのかわゆさにクラクラ。こいつにどこまでもついていこうと決心する。もちろんルイは彼の音楽にウットリしながら踊りに打ち込むのに熱心。「我こそは太陽王のルイ14世なるぞ」と、せめて舞台の上だけでは自己陶酔出来るんだもんね。こうしてプロデューサーのリュリ=テラルとルイの、まるでかつての小室哲哉と朋ちゃんみたいな蜜月の関係が始まったわけ。ただし小室と朋ちゃんと違って、偉いのはプロデューサーの方じゃなかった。これが後々リュリ=テラルの命取りとなるのだが、この時のリュリにはそんなことまで気が回らなかったんだね。

 やがてルイは大きくなってブノワ・マジメルとなる。いいかげん政治にタッチ出来ずにいることにウンザリした彼は、宰相マザラン=フイヤールが死ぬとチャンスとばかりに、実権を自分が握って母親アンヌ=エマニュエルといとこのコンティ公ことイドヴィグ・ステファンを政治の場から閉め出した。そしてルイが政略結婚でマリ=テレーズと結婚したのを機に、リュリ=テラルも結婚を命じられる。何とその相手マドレーヌ=セシール・ボワとは、皇太后アンヌ付きの音楽プロデューサーであるカンベール=ヨハン・レイゼンの恋人だったから大変。

 それに元々男が好きなリュリ=テラルは、ルイちゃんしか見えない状態。だから妻となったマドレーヌ=ボワのことも心から愛することは出来ない。これがまたカンベール=レイゼンには許し難いことだった。ところがルイのご寵愛を一心に集めるリュリ=テラルは鼻息荒く、カンベール=レイゼンをバカにした振る舞い。それでなくとも小室リュリ=テラルを面白く思ってなかったカンベール=レイゼンは、何かと彼を敵視していくんだね。

 政治を握ったルイ=マジメルはやりたい放題。沼地の原っぱにヴェルサイユ宮殿ブッ建てるとか派手な計画ブチ上げる。印旛沼に城みたいなラブホつくるのとは訳が違うんだっつ〜の。だから言わんこっちゃない、調子に乗ってその沼地にハマって体調を崩す。リュリ=テラルの勢いも全てルイしだいとなれば、彼にもしもの事があったら彼の地位なんて木っ端微塵だ。産気づいた嫁さんマドレーヌ=ボワも放ったらかして、バイオリン片手に王宮に急ぐリュリ=テラル。ルイが病に伏せる部屋の外で寝ずの看病ならぬ心を込めてのぶっ通しマラソン演奏を続けた。そんな努力の甲斐あって全快したルイ=マジメルのリュリ=テラルへのご寵愛は、以前より一層増すばかりとなったわけ。

 その後はまさに飛ぶ鳥落とす勢い。作家モリエールことチェッキー・カリョと組んでの作品はことごとく大ヒット。カラオケでも選曲率ナンバーワン。朋ちゃんルイ=マジメルとのコンビネーションもバッチリで、怖いものなしだ。ルイ=マジメルは男色ギライだから、そこんとこは悟られないように我慢した。それもこれもルイの自分へのご寵愛があれば耐えられるリュリ=テラルではあった。

 そんなある時、教会の連中を巻き込んでいろいろうるさい長老派をギャフンと言わせたいルイ=マジメルは、モリエール=カリョにこの連中をバカにした芝居をつくってくれと頼む。乗り気のモリエール=カリョにさすがのリュリ=テラルはそれはマズいんでねえの?と止めたけど、芸術家は圧力を恐れてはならんと鼻息荒いモリエールはもう止まらない。長老派コケにしまくり芝居を堂々上演しちまった。だが案の定、ルイ=マジメルは長老派の力をナメていた。巻き返しのパワーが上回って芝居が上演禁止になったモリエール=カリョはビビるが後の祭り。リュリ=テラルも今更ながらに自分たちの立つ土台の不安定さに気づかされるのであった。

 しかもルイ=マジメルも寄る年波には勝てない。元々所詮は旦那芸の踊りだから、そろそろ無理もあったわけ。音楽と踊りに以前ほど熱心でなくなったルイ=マジメルの態度に、リュリ=テラルは焦りを感じてくるんだね。あんなにヒットを飛ばしたのに、権力に媚びて沖縄サミットのテーマソングまでつくったのに、どうして最近つれないの? 寂しさツラさについつい以前の男色趣味がカマ首もたげるリュリ=テラル。だが、そこで自分を憎んでいるカンベール=レイゼンの陰謀にハマり、ルイに自分の男色趣味を責められてしまうリュリ=テラル。でも、僕は君の友達だよねっ、ねっ、ねっ?と必死ですがるリュリ=テラルだが、俺にダチなんかいねえとルイ=マジメルにますますつれなくされる自分が悲しい。

 やがて母親アンヌ=エマニュエルが死んで、権力を確固たるものにするルイ=マジメル。だが、彼のリュリ=テラルへの感情は以前と少しづつ違ってきていた。ルイと愛人モンテスパン夫人とのベッドインのBGM演奏までやらされるリュリ=テラルは、ツラさ哀しさからどんどんキレ始める。これが小室と朋ちゃんなら、捨てられるのも朋ちゃんならキレるのも朋ちゃん。あげくの果てに乗馬服着せられ、元気で〜すとアピールしても目がどよ〜んとウツロってな構図になろうものを。リュリ=テラルの場合はプロデューサーと言っても名ばかり。捨てられるのもキレるのも自分の方と悟らずにはいられない。

 折角落ち目のリュリ=テラルを盛り立てるために、フランス製オペラを上演しようとモリエール=カリョが持ちかけてきても、オペラなんてイタリアのダサ〜い文化はダメだなどと暴言吐くリュリ=テラル。自分がイタリア生まれだなんてこと、まるでなかった事にしてるいい加減野郎ぶり。ところが一足お先にフランス・オペラを上演したのが宿敵カンベール=レイゼンではないか。焦ってその舞台を覗きに来たら、嫁さんマドレーヌ=ボワの姪ッコで、ずっと俺にゾッコンてな風情だったジュリーことクレール・ケームが歌ってる。何じゃこりゃ〜! こんな俺の天敵と組んでオペラに出るなんて、裏切りやがってタダじゃ済まねえぞ鈴木あみめぇぇぇぇ〜!

 これで完全にキレきったリュリ=テラルは、何と前言取り消し態度一変してフランス・オペラの独占上演権をくれとルイ=マジメルにかけあう。ビックリしたのはモリエール=カリョ。俺を出し抜いて俺抜きでオペラなんて、リュリ、テラル、小室、てめえ一体どういう根性してるんだ?

 ところがもう誰も信じられなくなってたリュリ=テラルは、オペラから閉め出すだけではなくて過去の合作作品からもモリエール=カリョの名前を削っていた。このあんまりな仕打ちに、長年の盟友モリエール=カリョはリュリ=テラルの元から永久に去った。やがて単独で芝居を上演するモリエール=カリョは、その舞台の上で寂しく死んだ。だが焦りに目がくらんだリュリ=テラルには、そんな旧友の思いをもう汲み取ることなど出来なくなっていたんだね。

 それにしてもただの音楽屋であるリュリ=テラルが、有能な作家を欠いたまま芝居であるオペラをつくろうなんて、あまりにも無謀だ。監督をクビにして自分で作品をコントロールした結果、見ちゃおれない「ウォータームーン」をつくっちゃったシャブ中の長渕にしても、よせばいいのに監督して「稲村ジェーン」つくっちゃった桑田にしても、とにかくこうしたミュージシャンの暴挙が有史以来うまくいったためしはない。さすがの思い上がり小室ですら監督はやってない。音楽だけでハリウッドに乗り込んだ「スピード2」ですら大失敗の彼なら、そのへん痛いほど分かってるんだね。そういやハリウッドと言えば、チャゲアスだって「ストリートファイター」という痛い失策があったっけ(笑)。ところがリュリ=テラルはもうキレまくってるから、シャブ中の長渕と同じで訳わかんなくなってたんだね。

 憧れのルイ=マジメルを前に自作オペラの発表会。リュリ=テラルはこれでルイちゃんの気持ちをグッと自分に引き戻したい一心で、ルイは最高、ルイはイカしてる、ルイが一番、ルイが大将…と、まるで懐かしアイドル太川陽介の往年のヒット曲「ルイルイ」みたいにレッツゴーヤング真っ青な勢いのルイ一点張りでオペラを埋め尽くした。だけどねぇ、北朝鮮の歓び組じゃあるまいし、あまり権力者にコビコビしすぎてもオペラが面白くなるわけじゃない。何てことだ、あのヒットメイカーでもこんな誤算をするものか。折角の失地挽回の自信満々自作オペラが、ドッチラケのお披露目となっちまったんだね。

 どうしてなの? 僕のどこがいけなかったの〜? ルイルイ!

 

「愛」ゆえに目がくらんだわけじゃない

 この映画、あの大評判の「カストラート」のジェラール・コルビオの最新作なんだね。実は「カストラート」見ていない僕は(最近こういうの多くてツラい)デカイこと言えないけど、前作の題材考えたらいかにものテーマだ。今回も豪華絢爛、そのあまりの豪華ぶりに当時のフランス王室取り巻くバカバカしさまで浮き彫りにしての堂々たる大作だ。

 そしてここで取りあげられるリュリという人物の複雑怪奇さ。こんな男がいたんだね。この当時の芸術家としては仕方なかったものの、権力のカサの下で野心まんまん、王のご寵愛をいいことにデカい態度でやりたい放題。あげく盟友モリエールまでコケにするその自己中心ぶりには恐れ入る。だけど抹殺したはずのモリエールの名が後世に伝えられながら、今日びリュリなんて誰も知らないあたりが野心家の末路をうかがわせて哀しいねぇ。

 しかも単なる野心家成り上がりだったらまだ救われたものを、そのモチベーションの最大の部分が実は王への心底からの愛だったとは皮肉ではないか。その愛を音楽と踊りに託していた彼は、やはりある意味で芸術家の心だけはずっと持ち続けていたのに違いない。 愛こそは芸術の原動力だからね。

 でもどうせいずれはヤバくなるに決まってるのに、何でまたそこまで入れ込んだのか…と思いたくもなる。スクリーンで目撃している僕らはもちろん、傍で見ていた当時の連中だってこの男のアホさ加減はミエミエだったはず。分かってないのはこいつだけ。それに気付かぬほど人間って愚かなものなのか。

 いや…そうではない。そんな自分のアホさ加減は分かっていたに違いない。でも、それでもいいと思っていたのではないか。そして、それはリュリとルイ14世との関係だけに限ったことではないだろう…僕にはそう思える。

 そう。かく言う自分も、ともすれば愛する者に全てを捧げたいと願ったことがある。人生も何もかも…全てを委ねていいと思ったことが。自分の持っている金も時間も労力も、すべて相手のために注いでいい。自分の習慣も好きなこともポリシーさえも、自分を曲げて相手に合わせていい…勢い余った時にはそこまで思い詰めた時さえある。

 周囲の人間たちからは、僕はいささか常軌を逸した愚か者と見えたかもしれない。愛に目がくらんだ道化者と。頭がのぼせて何も分からなくなっていたんだと。傍から冷たく見てみれば、相手がどこまで自分のことを思ってくれるか分かりはしないのに…。確かに人生を損得勘定、「足し算」「引き算」で考えればそう見えるよね。

 でもね、僕は決して何も分からなくなっていたんじゃあない。目がくらんで何も見えなくなっていたわけでもない。実は自分がやっていることの底抜けさ加減は、自分でもよく分かっていたんだ。それでも良かった。それだけじゃない。相手の僕に対する気持ちさえ、実はどうでもよかったんだ。俺にはそんな事より何より、ずっとずっと大事なものが確かにあった。それは損得では絶対に計算出来ないものなんだ。

 なぜなら、きっとそれが「愛する」ということなのだから。

 

 

 

 

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