「点子ちゃんとアントン」

  Punktchen und Anton ロング・バージョン

 (2001/08/27)


 

手早く結論知りたい人はこちら

 

ネット映画館の秘密 

 いささか手前味噌的で気が退けるんだけど、最近うちのゲストブックや特集に、間借り人ヤマなる人物の名前を見かけることが多いんじゃないかな。この方のホームページ「間借り人の映画日誌」は読んで面白い映画感想文の宝庫で、当然のごとくうちのサイトもリンクさせてもらっている。だが、以前はこの人と縁が出来るとは思ってもみなかったんだね。

 この人のサイト自体の存在は知っていたし中味も読んでて感心もしていた。でも、うちは何せオチャラケ感想文やオヤジギャグで固めた感想文だからね。とてもじゃないけど、キチッとした明晰な日本語で感想文を書くこの人とうちのサイトが関わりを持つことになるとは思えなかったんだよね。で、僕はヤマさんのサイトの一傍観者に過ぎなかった。

 ところがある時、僕はこのヤマさんと奇妙な縁を感じることになる。それは、こちらもおなじみ大倉里司氏のサイト「マダム・DEEPのシネマサロン」の「毒書日記」なるコンテンツを覗いたから。その2000年11月28日付けの内容には、高知にお住まいのヤマさんがたまたま上京したため、臨時オフ会が開かれたことが書いてあった。そのオフ会の模様のなかで、図らずもうちのサイトのことが話題にのぼっていたのだ。

 

(以下、「ヤ」=ヤマ氏、「大」=大倉氏)

「映画館主・F様のDAY-FOR-NIGHTは、ホントにネット映画館なんだよね。あれは、CM代わりの前置きがあって、ニュース映画があって、本編が始まると必ず最後迄書くでしょう」

「気が付かなかった!目からウロコ!(驚愕)」

 

 実は、ここまで明快に「ネット映画館」を実践しようと思っていたわけではなかったものの、確かにそれ的なことは考えてやっていたんだよ。で、それに最初に気づいたのがこのヤマさんだったわけ。このヤマさんの指摘以来、僕の中でもこのコンセプトは揺るぎないものになって、「アタック・ナンバーハーフ」の感想文の中では本当に予告編を上映しちゃってる(笑)。それくらいこの指摘は嬉しかったし、かつまた図星なものだったんだね。

 もう今さらそんなものは秘密でもシェフのレシピでもないから、今回はここでこのサイトのコンセプトを全部バラしちゃうよ。なぜ大概の場合、感想文の前にイントロが付いている のかと言えば、いきなり映画の感想文が始まるんじゃ何だか本当に「映画の感想文」みたいだからだよ(笑)。僕のは同じタイトルが付いてはいるけど、例えば「A.I.」のストーリー書いてもそれはスピルバーグの「A.I.」そのものじゃない。僕がそこから連想して書いた別のものなんだね。だから厳密には感想文と言うより妄想映画みたいなものだ。そこには厳密には僕の目を通して見た別の映画がある。でも確かに僕にはこう見えた…だから他のみなさんのように、批評なんてものじゃあないんだよ。

 それに「ネット映画館」だったら、やっぱり場内が暗くなってスクリーンが明るくなって…映画の世界に入り込む時間が欲しいじゃないか。その意味でイントロが付いているというヤマさんの指摘は正しかったんだよね。

 だが、その時にヤマさんが指摘したこと以外の意味も、実はあのイントロには隠されていたんだ。それは何か?

 それはエーリヒ・ケストナーの影響だったんだね。

 ケストナーの児童文学の本って凄く真面目で真摯なんだけど、ユーモアに溢れてる。そして個人的な身につまされる痛みの記憶が確実に織り込まれてる。それで僕は大好きだったんだ。

 構成上も面白くて、いつも奇妙な前書きやら後書きがくっついていて、彼の代表作の一つ「飛ぶ教室」など本題の話が始まるまで3つくらい前書きがあるんだよ。そして、それがどれも面白い。一体ここからどうやって本題に入っていくんだろう?と思っていると、いつのまにか僕らはケストナーのお話の世界に引き込まれているんだね。その巧みさにはすごく惹かれた。しかも後になってみると、その余計だと思ってた前書き後書きがちゃんと本筋のテーマを理解する助けになっている。これは本当に見事だよ。僕は知らず知らずのうちに、そんなケストナーの手口を自分なりにマネしようとしてたんだね。

 そんな僕が、ケストナー原作「点子ちゃんとアントン」の映画の感想文を書く。それは一つのでっかい輪がグルリと回って元に戻ったみたいなもんなんだよね。このイントロ、僕はコワゴワではあるけど、ケストナーに見てもらいたい気もするな。彼だったらちょっとは気に入ってくれるだろうか?

 

ツッパリ仲間の心意気 

 今日もお天気。点子ちゃん(エレア・ガイスラー)とアントン(マックス・フェルダー)は、女の子と男の子というお互いの違いはあるが、それでも大の仲良しだ。二人の違いはもう一つあって、それはあまりデカい声では言いたくないが貧富の差。でも金持ちの点子もそれを鼻にかけるわけでなし、もっと偉いのはアントンがそれを卑屈に感じてないことだった。それを子供の無邪気さで片付けたくはないな。こいつらはそんな事とは無縁なところでお互いに親しみを感じてる。自分の回りにくっついてる余計な事ではなく、あくまでてめえ勝負ってとこがガキのくせにいい根性。だから点子とアントンの仲も、よい子のための本や何かとは違って、ここではあえてマブダチと呼ばせてもらうぜ。そういや二人とも何となくいいツラ構えじゃねえか。よっしゃ、そうくりゃここはひとつ自由にやらせてもらうぜ、ケストナーの旦那。

 そんな点子の毎日の面倒を見ているのは、おフランスから来た家庭教師のロランス(シルヴィー・テステュー)。点子と仲良くやってる友達みたいな存在ながら、近所のアイスクリーム屋で働くスケコマシ男についフラフラする尻の軽さといいかげんさがタマに傷。

 そのアイスクリーム屋では、あのアントンが夜遅くまで働いていた。子供が夜まで働いちゃダメなんて言うなかれ。実はここの店には彼のママ(メーレト・ベッカー)がずっと働いていたものの、最近病気になって店に出られなくなったわけ。そのまま休んでいたら店をクビになっちまう。だから代わりに自分を働かせてと、アントン無理やり頼み込んだのだ。あぁ、どこか暖かいところで休暇させることが出来れば、おっかさんも具合が良くなるのに。でも、そのためにはお金がいる。

 点子はそんなアントンを何とかしてあげたいと思っているが、悲しいかな子供の身では何ともならない。でも彼女の家で連日空虚なパーティーが開かれ、そこで大金はたいたキャビアなんぞ振る舞われているのを見れば、こんなの何かおかしいと思わずにはいられない。ただ点子の家庭教師だというだけで、このキャビアを大口開けて食らってる尻軽ロランスなんか見てるとなおさら。食ったキャビアは全部エッチのエネルギーで消えていくなんて、なんて空しいの(笑)!  でもアレって気持ちいいからねぇ点子ちゃん。

 そんな彼女は豊かな家庭に暮らしているものの、パパ(アウグスト・ツィルナー)は高名な心臓外科医で多忙の身。ママ(ユリアーネ・ケーラー)は発展途上国の援助だかボランティアだか何かで外国に始終飛び回って、家に居着きやしない。てめえのガキほったらかして人のガキの世話焼きに行ってるんだから何考えてるんだか。ママは困っている人を助けるために頑張っているのよって言われてもねぇ。今日も今日とて、遠いアフリカかどこかからエアメールで届くビデオレターでしかママとは会えない。あたいは「2001年宇宙の旅」のディスカバリー号の宇宙飛行士かい。キューブリックつながりでいけば、人間の子供だからっておっかさんと一緒にいられるってわけじゃないって「A.I.」オスメントにも言いたいよ。

 そんな点子が何とか明るくいられるのも、家政婦のでぶのベルタ(グードルーン・オクラス)と尻軽ロランスのおかげかも。彼女はこの二人の使用人にこよなく愛されている。 たまには家の中でラジカセがんがん鳴らして、三人で踊りまくるのが最高のストレス解消法だ。今日のBGMはダリダの懐かしいナンバー「甘い囁き」。若い人はご存じないかもしれないが、この曲は女性歌手ダリダが「パロ〜レパロレパロ〜レ〜」と歌うと、何とあのアラン・ドロンが横でブツブツ「ダ〜バン…」とかつぶやくというところがミソ。何だかかつてglobeのマーク・パンサーが曲の合間に横で関係なくゴチャゴチャとホザいてたのに似てるなんて思う点子は、やっぱり現代っ子なんだねぇ。

 さて、学校では連日の激務がたたってか、アントンが授業中に居眠りこいて先生に叱られた。まだ皮もムケてないくせにいっぱしの悪ぶったクソガキ二人組が点子にからんだ時、彼女を助けてブチのめしたことでもアントンは叱られた。こういうクソガキはちょっと泣かしてやらねえと分からねえんだよ。ついでに皮もムンズとひんムイてやれ(笑)。でも、イマドキは被害者より加害者の人権守るのがナウだ。先生は日教組と文部科学省と教育委員会とPTAと偽善マスコミとヒステリーの橋田寿賀子ドラマ好きババア軍団と右から左からの集中砲火が怖いのか、逆にアントンにヤキ入れようとする。ったく先コーは何にも分かってねえんだよなぁ。

 そこにこの先コーときたひにゃ、オフクロに手紙書くぞなんてアントンを脅しやがるから点子は怒った。アントンに黙って先コーに会いに行き、アントンの事情をブチまけて先コーをどやした。おらおら、アントンがママの代わりに働いているなんて知ったら、アントンのママはショック受けちゃうじゃねえかよ。どうしてそれが分からねえんだよ先コーよぉ! 

 この点子の脅しガン飛ばしに屈したか、彼女の言い分に耳を傾けた先生はこうも尋ねた。アントンはどうして事情を打ち明けようとはしないんだい?

 アントンにはツッパリの意地があるから。

 例え貧しくても心は錦ってチータも泣かせる心意気。だからヤセ我慢でも奴は頑張るんだね。これぞ男だ。先生もこの点子の訴えに、今回は目をつぶってくれると約束してくれた。あぁ、涙のビー・バップ小学校。

 そんなアントンはママからパパはもう死んだと聞かされていた。ところがお金に困ったママが、パパらしき人物に電話でお金の工面を頼んでいるのを聞きつけてしまう。パパは生きてたのか?…そしてお金のことで泣きを入れるほど、うちは困っているのか。

 その頃、点子ちゃんの家には待ちに待ったママが帰ってきた。ここぞとばかりに甘えたい点子ではあったが、ママはやれパーティーだボランティアだとつれない。この花田憲子なみの勝手し放題にはパパも正直言ってシブい顔だが、自分も親方業に追われて家をほったらかしだから何も言えないのだ。これで若貴みたいにオカシクならない点子は偉いよな。それどころかダチのよしみでママ主催のパーティーにアントンを招待した点子。アントンも今日は硬派に学ラン着こなし、髪もリーゼントにビシッとキメた。だが、ママはタニマチ相手に夢中で点子の友達なんか見向きもしない失礼さかげん。

 そんな折りもおり、パーティーの途中でトイレを探すアントンは、ひょんな事から点子のママの値うち物のライターが転がっているのを見つけてしまった。

 これ一個売り飛ばせば、ママを暖かい海辺で静養させてあげられる…。

 気がついたらライターをポケットに突っ込み「ごっつぁんです!」。一目散に点子の家から逃げ出したアントンであった。

 だが、やっぱり盗みは気がとがめる。胃が痛む。ナメた根性でアメフトに挑戦する若みたいにハンパなことやっちゃったなと後悔の日々。そんなある日、アントンのママが盗んだライターを見つけてしまった。

 病いをおして点子ちゃんの家まで出かけるアントンのママ。ライターを返し頭を下げるアントンのママに対して、点子のママは徹頭徹尾冷たく高圧的に偉そうに出たから橋田寿賀子ドラマ爆発。育ちの悪いガキだとか母親失格だとか言いたい放題言いまくって、アントンのママを追い出した。これを見ていた点子はさすがに血管浮き出してマジギレ。

 ざけんじゃね〜よ、な〜にが困ってる人を助けるだよこの偽善ババア。その困ってる人に一体おめえは何やったか分かってんのかよ? だいたい母親失格なんておめえに言われたくねえよ、このピン子ヅラが!

 一方、アントンのママが帰宅してみるとアントンがいない。盗みをはたらいたことを悔やむとともに、暮らし向きが苦しくなってきたことをパパに訴えようと、アントンはコッソリ家出しちゃってたんだね。つらい思いを胸に秘め、街をさすらうオールディーズなロンリーボーイ。ラァ〜ンナウェ〜イとぉ〜ても好きさぁ〜ラァ〜ンナウェ〜ッヘェ〜イ。さぁ大変!アイクリーム屋の人たちやロランス、もちろん点子も一緒になって探し回る。

 そのアントンはと言うと、働いていたアイスクリーム屋の車を無免許運転してパパの家へと一目散。BGMは暴走族御用達、パパパ・パパパパ・パパパパパ〜ンと高らかに鳴らす「ゴッドファーザー愛のテーマ」だ。しかしそうそう逃げ切れるもんじゃない。ついにはマッポに無免と暴走行為でとっ捕まった。あぁ、路上でウンコ座りしてフテるアントン男一匹。そこにやってきたアントンのママ。目と目が合えば何も言うことはない。かあちゃんごめんな、グレちまって俺。男だろ泣くのはおよし、ツッパリの意地はどうした。ガッチリ抱き合う母子を前に、駆けつけた点子も他の人たちも入る余地なんかなかったのさ。 くっ、思わずあたいも泣けてくらぁ。

 それにしてもここまでとは…とマブダチの窮状に頭痛める点子。何とかしてやりてえものの、エンコーやるわけにゃ〜いかねえ。そいつはあたいの流儀じゃない。でも何とか金は稼げないか。そうだ、あたいにゃ毎週土日のクラブ通いで鍛えた、パラパラの芸があったんだ!

 夜中、両親がパーティーだ何だと出歩き、ロランスも軽〜い尻を浮かせて出かけた後のわが家からソッと抜け出した点子。駅の地下街に陣取っては、ペロッとヘソ出し尻のワレメ出しのキワドい服装でパラパラ踊りまくる。これが新橋の居酒屋帰りでホロ酔い機嫌の助平なサラリーマンオヤジどもに大いにウケた。ねーちゃん色っぺえじゃねえかと酔った勢いで抱きついたりケツさわったりからんだりするオヤジ連中には、ここぞとばかりにニラみきかせてカツアゲ。家や会社にバラされてもいいのかよぉ、リストラされたり女房に三行半叩きつけられるぜえ。ひ、ひぃ〜お助けぇ〜(涙)。たちまちお金がどんどんたまるからやめらんない。度胸もねえくせに人並みに助平根性出すんじゃねえよ、このクソオヤジが。

 だがある夜のこと、こうした登場人物全員の立場を一変させる出来事が次々起こった。それは一体何か? そして点子ちゃんとママは仲直り出来るか? アントンはママを病気療養させることが出来るのか…?

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから

 

 

 

 

 

 

 

 

カロリーヌ・リンクの卓抜した映画づくり

 開巻まもなくのオープニング・クレジットは、点子ちゃんとアントンがスローモーションで大空に舞い上がる印象的なショットで始まる。二人は遊園地のトランポリンで遊んでいるのだが、このショットを見た瞬間に鳥肌が立ったね。自由にのびのびと青空狭しと飛び跳ねている二人の子供たち。いい映画には、ファースト・ショットを見ただけで傑作と確信出来るものが少なくない。真っ暗な背景にクレジットが入るだけながら、そこに流れる切ないほどの美しいメロディに画面にクギづけにされた、ジョン・ヒューストンの遺作「ザ・デッド」もそうだった。あるいはガウンを羽織ったままリングの上でファイティング・ポーズをとるボクサーのスロー映像に、「カヴァレリア・ルスティカーナ」間奏曲が流れる「レイジング・ブル」もそうだった。「点子ちゃんとアントン」はそうした作品群と同じく、一瞬にして見る者に傑作を予感させる鮮やかなオープニングからスタートする。

 この映画、「ビヨンド・サイレンス」で監督デビューした女性監督カロリーヌ・リンクの新作なんだよね。この「ビヨンド・サイレンス」、ドイツ本国でもバカ当たりしたらしい。題材は一見して超マジメで、ろうあの両親の間に生まれた娘が音楽に喜びを見い出していく話。だがそれでは、こう言っては何だがただの地味な良心作止まり。この映画のちょっと違うとこは、そうした登場人物をデリケートに描くことはもちろんのことだが、きれい事に終始せず結構痛いところ突いてくるあたり。リアリズムで押していくような映画ではないのだけれど、ろうあの両親を絵に描いたようなステレオ・タイプの人物には描かないんだね。でも、そこには終始暖かい視線があるから、突っ放したような冷たさはないのだ。それに加えてヒロインがクラリネットを演奏している場面での、まるでロック・ミュージックを演奏しているかのようなノリの良さ。何より身体が先に動いてしまいそうな躍動感が、映画の中にはずんでいるところが違うんだね。それは生命力ともダイナミックさとも言える、映画に一番大事な要素だよ。そんな点、このリンク監督はスケールもあれば馬力もある。「ビヨンド・サイレンス」一本見る限りでも、ちっちゃくチマッとまとまったような映画は撮らない監督なんだね。

 それにしても前作でアメリカはオスカーの外国語映画賞にもノミネートされたこの新鋭リンクが、次回作に何とケストナーの少年文学にしてドイツの国民的文学である「点子ちゃんとアントン」の映画化を選んだのには、正直言ってちょっと驚いた。まぁ、この国の大先輩では「U・ボート」の後で「ネバー・エンディング・ストーリー」を撮ったヴォルフガング・ペーターゼンがいるくらいだからね(笑)。それから比べればそんなに落差も大したことはない。 でも、世界的な読者を抱えているという点では「ハリー・ポッター」の映画化なんかよりもヤバいかもしれないこの作品。それに勇猛果敢に取り組んだあたり、この監督の意欲を感じてしまうんだね。それにこの人がつくる以上、単に良心的な児童文学の映画化にとどまるはずもないのだ。

 いつもは原作と比べてどうのとヤボな話は抜きで語るけれど、今回に限ってはちょいと両者の比較を試みたいんだね。そこを見れば、このリンクという人の映画に対する考え方がより鮮明に浮かんでくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画を見て原作を読もう

と思った人はここまで

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まず、原作と映画を見比べた時、登場人物にあまり変動がないのは嬉しいね。ざっと見渡すといなくなったのは犬のピーフケくらい。原作には点子ちゃんの愛犬として登場するピーフケだが、これはちょっとした味付けとして出てくるだけでお話に直接からんではこないから削除したんだろう。あとは、設定やキャラクターが変化してはいても、原作の登場人物に相当するキャラクターは大体網羅されてる。

 大きな変化は女性の登場人物の性格設定だ。まずは点子ちゃんのママ。パパ・ポッゲ氏(原作では外科医ではなく「支配人」とされている)の高収入をいいことに、浪費家で遊びほうけてる困ったご婦人というのが原作の役回り。だがこの映画版でのママは働く女性であり、家を空けて飛び回っているのも発展途上国への援助活動で忙しいという設定だ。また点子ちゃんの家庭教師については、原作がとても男好きのしないようなオールドミスのアンダハト女史というキャラクターなのに対し、映画版では遊び好きで男好きなのが玉にキズではあるが、楽しく愛すべきフランス女のロランスという設定。まぁ原作では一刀両断、まるで弁護の余地もないほど責められてしまう両女性キャラクターを、そこまでしょうもない人物にはしなかったあたり女性監督リンクらしい変更と言えよう。

 実際、原作では点子ちゃんのママは夫から厳しく叱責されて、グウの音も出ずに一方的に降参することになっている。妻は家庭を疎かにするなというわけだが、これではいくら何でも現代の観客にはついていけないだろう。また家庭教師についても、原作ではせっかく出来た婚約者にイヤとは言えず悪事に荷担することになっているが、映画版では軽率なところを知らない間に恋人(アイスクリーム屋に働くスケコマシ男)につけ込まれるかたちになっていて、彼女は悪事とは無関係の善人。前作「ビヨンド・サイレンス」のヒロインであるシルヴィー・テステューを、このロランス役に持ってきてるのもそのためだ。基本的には点子ちゃんの理解者として描かれているわけで、この変更のおかげで点子と家政婦のベルタ、家庭教師のロランスが仲良しという設定になり、お話にイヤミがなくなった。付随して3人で楽しく歌って踊るミュージカル的な趣向が生まれたわけだから、楽しさも広がる一石二鳥の変更となったわけだ。だからリンクは、ただただ女性としてフェミニズム的な主張を振り回してやみくもに変えたわけではない。それではケストナー・ファンも納得がいかないだろう。むしろ現代の映画として通用させるためのリニューアルを施したあたりが好感持てるのだ。

 だが、女性キャラクターが一方的に責められる不自然さは払拭されたものの、彼女たちに向けるリンクの視線は決して甘くはない。特に点子ちゃんのママについては自分の子供は放っておきながら発展途上国の子供のためと飛び回ることの愚、善行を施していると称して派手なことばかり熱心になることの愚をえぐり出し、ある意味では原作以上に糾弾している。これは先進国が好んで行っている発展途上国への援助だとかボランティア活動だとかにつきまとう、欺瞞やら偽善性をも断罪する厳しい描写なのだ。このあたりのバランス感覚こそがリンクの信頼出来るところなんだね。

 だからこそ、男たちに向ける視線の厳しさも納得出来る。点子ちゃんのパパは原作ではただの寛大な紳士だったものが、映画版では仕事仕事と家庭を疎かにしたことで妻の愚かな行動を呼んでしまった身勝手さを指摘される。妻だけの問題ではないとリンクは言っているのだ。また、アントンのママについても原作では夫に死なれた未亡人という設定だったものが、映画版では夫(あるいは恋人)に逃げられた女性として描かれる。アントンの父親は、親であることから逃げる卑怯で自分勝手な男として設定されるのだ。

 つまり、ここでは現在世界的に問題になりつつある家庭崩壊と、無責任で自分勝手な人々と、そこで割をくうはめになっている子供たちの状況を描く寓話として「点子ちゃんとアントン」が焼き直されていると言える。また冷戦がアメリカ一人勝ちの結果で終わり、貧富の格差が拡大して拝金主義が蔓延した世界の現実をも反映していると言えるだろう。でも「点子ちゃんとアントン」を今の時代に映画化する必然性があるとしたら、こういう視点がどうしても必要なはずだ。映画は誕生以来常に時代性を伴い、どこかアップトゥデートでジャーナリスティックなものであり続けた。そういった意味でリンクの映画作家としての姿勢は、まさに映画の王道なのだと言える。

 原作にはないエピソードとして注目されるのは、原作ではトコトン「よい子」アントンに、映画版では盗みをさせるところだろう。少年探偵エーミールに代表されるケストナーの分身キャラであるアントンだけに、原作では盗みをさせるなど思いもよらなかっただろう。だがこれだけ貧富の差が全編の一つの核ともなり、かつアントンがそこで悩み苦しむとなれば、盗みの一つもなければ現代の映画としてはリアリティがない。だから、これは原作の冒涜ではなく発展なのだ。「猿の惑星」のティム・バートン流に言えばそれこそ「リ・イマジネーション」と言ってもいい。しかも、それを単にリアリティを増すだけの趣向として使い捨てにしないところがリンクの偉いところ。原作では忙しさと困窮からアントンが母親の誕生日を忘れ、それで母子仲がギクシャクしてアントンが家出することになっている。母親を大切にしたケストナーにはリアリティがあった設定なのかもしれないが、これはいくら何でも現代の観客にはついていけない。そこでリンクはこのアントンの盗みを家出の直接動機に持ってきたわけ。まさに巧みとしか言えない脚色の妙だ。

 しかし、リンクは原作を変えて一方的に自分のものにしたわけではない。母を親を求める子供の気持ち、そして不正は正されるべきという願いは、まさしく原作者ケストナーが最初から打ち出していたもの。いろいろ部分的に変えてはいても、それはお話が現代のアクチュアルな物語として通用するための工夫でしかない。ケストナーその人のスピリットはこの映画の中に脈々として生きているのだ。しかもケストナー作品を愛する人々への目配せのように、ちょっとしたお遊びも忘れてはいない。家政婦ベルタが映画館に「エーミールと探偵たち」の映画を見に行く…なんて楽屋落ちは序の口。嬉しかったのは本筋のお話が幕を閉じた後、ちょっとしたエピローグが付くことだ。悪ガキどもは自業自得の報いを受けて…最後にはこの映画の大テーマである貧富の問題をさりげなくかつ明快にビジュアルで見せる。この感想文の冒頭でも触れたように、ケストナー作品の多くはいくつもの前書きと後書きが付いていて、そこに結構重要なメッセージが込められていることが多い。そのスタイルをあくまで映画のオリジナルとして創作したところが憎いではないか。ケストナー作品を知る人なら、思わずニヤリとしてしまう趣向だ。リンクという人、僕はかなりのケストナー・フリークと見たが、実のところどうなんだろう。

 しかもリンクは単にテーマの明確な提示とリアリティだけを狙っているわけではない。アントンの家出ではアイスクリーム屋の車の大暴走と警察のヘリコプターのチェイスという、映画的な見せ場をつくり出す。点子が家政婦や家庭教師と自宅で歌い踊るシーンは、お金を集めるためのストリート・パフォーマンスというミュージカル的な楽しさへと膨らまされる。このミュージカル・シーンに加えて、アントンのママが昔アクロバットをやってたという設定でちょっと実演するあたり、パフォーマンス・シーンが素晴らしかった「ビヨンド・サイレンス」の監督らしい趣向だ。生きいきとしてダイナミックで見る喜びにあふれた映画づくり。カロリーヌ・リンクの素晴らしいところは、前述してきた真面目なテーマを打ち出すにしても、決して面白く楽しい映画の魅力を放棄していないところだ。彼女の映画はどこから切っても、ハリウッドに負けない「娯楽映画」の味がする。だからこそ素晴らしいのだ。

 そして何より人を見る目の温かさ。終盤になって点子ちゃんのママがさんざっぱら自分の愚かさに気づかされ、点子に許しを請うくだりにそれが鮮明に現れている。プールサイドで遊ぶ点子に話しかけるママは、しかしまだ心から全てを悟ってはいない。点子ちゃんはそんなママをプールに突き落とし、アントンのママに謝るように訴える。ここまでなら良く出来た子供が愚かな大人を懲らしめるというよくあるパターン。意地悪く見れば子供に媚びたようなとってつけた趣向と言えなくもない。だがわれらがリンクはそこからが違う。点子ちゃんはママの浸かるプールに自ら飛び込んで謝罪を頼むのだ。決して人を見下して断罪しようとはしない、そこがリンクの真骨頂だ。そして二人でびしょ濡れになりながら水の中で抱き合ううち、点子ちゃんはママに自分の寂しさを素直に訴える。人物の視線の位置は、この作品のとても重要なポイントなのだ。

 先に述べたエピローグは別にすると、この映画の本筋の物語はまさに感動的としか言いようのない、夢のようなエピソードで幕を閉じる。点子ちゃんのパパの粋な計らいで、アントンとママも連れて点子ちゃん一家が海辺のバカンスに出かける。あれほどアントンが願った、暖かい土地でママに休暇を過ごさせる夢が叶ったのだ。海で楽しそうに水遊びする点子ちゃんのパパとアントン、親しげに語り合う点子ちゃんのママとアントンのママ…そしてあたし。好きな人たちがみんな仲良く幸せそうにここにいる。まるで満月の全く欠けたところがない様子みたいに、何もかもが満ち足りたその時。こっちへおいでと呼ばれても、点子ちゃんはもう何も言えないんだね。ただ、こうつぶやくだけで…。

 「胸がいっぱいで…」

 目を閉じて砂浜に仰向けに寝っ転がる点子ちゃんの上には、冒頭のシーンで点子ちゃんとアントンが自由にのびのび飛び跳ねていた、あの青空が遙かに広がっているはずだ。

 現実に疲れてしまった時に、僕はつい投げやりになってしまいたくなる時がある。愛している人親しい人のことを、つい悪く思いたくなる時がある。どうせうまくなんかいきっこない、人の世なんてそんなものという手垢のついた言葉を吐き捨てながら。でもそれじゃあいけないんだよな。人生も世の中もそれじゃちっとも良くなんかなりっこない。せめて自分は信じなくてはいけないんだ、愛する人とともに満たされた幸せをかみしめる日が来ることを。

 点子ちゃん、その時が来たら僕も何も言えないんだろうか、胸がいっぱいで。

 

 

 

 

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