「マレーナ」

  Malena

 (2001/07/02)


みんながみんな一方を向く時

 これ書いてる今日、日曜日は、東京都議会選挙だったんだよね。投票率は良かったんだろうか悪かったんだろうか。どっちかはまだ分からないけど、どっちでもいいやって気がしてる。今回くらい僕がシラけちゃった選挙もないからね。行くのよそうかと思っちゃったんだよ。でも渋々行ったけど。何だかシラジラしくってさ。

 元々は総理になったあの人って党内基盤が脆弱で、味方であるはずの周囲四方八方が敵だらけって感じだったはずだよね。実際言ってることを考えるとそうなるのは当たり前。それでみんな一生懸命応援したくなったんだろうね。他の奴らよりはマシみたいだろうし。気持ちは分かるよ。ところが選挙が近くなってきた頃、いろんな候補者のポスター貼り出されてみると、どいつもこいつもこの新総理と握手なんかしちゃって、こりゃ一体どういう訳なんだと頭が痛くなった。みんな諸手を挙げてこの人の人気に便乗だ。恥も外聞もないのか。ないんだろうな、こいつらには。

 確かに支持率80パーセントは魅力だろう。みんな誉めてる認めてるっていうのは良いことなんだろうが、僕は天の邪鬼なせいか素直にうなずけないんだよ。あの人がいい悪いってことはさておき、みんなで無条件に大賛成ってとこが引っかかるのだ。何かの本が大ベストセラーになる。何かの歌が大ヒットする。何かの映画がメガトン級に大当たりする。それは分かるんだ。でも物事の方針決めていくとか人を引っ張っていくとか、こういった類のことであまりに圧倒的に支持を集める、あまりにワンサイドに意見が傾くっていうのは、どうも僕には居心地が悪い。本や曲や映画なら、好きとか趣味とか流行とかってことがあるからいいんだけど、こういったことには正義とか正論とかいったお題目がどこかチラつく。誰が何を支持するってハッキリ分かっているのはいいんだよ。それは意見だし主張だから。だけど得体の知れない巨大な大衆という単位で物事が一方的に動く時には、何だか不安になってくるんだよね。 さりとて巨泉に出てこられても困るんだけどさ(笑)。

 僕は子供の頃にひどいイジメにあったってことは言ったよね。それを今の今までいつまでも被害者意識でグチグチ言う気はないんだけど、こういう時には何となく思い出す。それは集団の人間の浅ましさや愚かさ怖さってやつだ。病弱で運動が出来なかった僕を、ほんの一人のイジメッ子がいたぶるってことはよくある話だ。そして僕はクラス中から孤立無援にされた。それもよくある話だろう。僕にだって問題があったかもしれないし。でも問題はその後だ。

 このイジメッ子が転校してすぐに、クラスの連中の態度が豹変した。なぜか僕に暖かくなった。優しくなった。後ろめたさもあったのかもしれない。だが、その手の平を返したような変わり身の早さには、僕は正直言って憤りを感じたよ。悪いのは全部例のイジメッ子のせいにして、僕の前で口汚くののしる。一緒になってついこの前まで僕をいたぶっていたのにも関わらずだ。僕は心底人間というものはアテにならないと思い知ったね。

 この国でも昔戦争があった。それまで軍国主義で何でもかんでもやって来た人々が、敗戦になって一夜にして民主主義を唱えたという話は、僕にはよく分かる。それを平気で出来るのが人間の集団というやつだ。

 だから、僕は大衆とか庶民とか人民とか、政党だって市民団体だって、暴力集団も取り締まる連中も、いわゆる人間の集団というやつを信じたことがない。署名運動もまっぴらごめん。だって集団には責任がない。みんな誰かのせいだったって言えば、自分は口を拭えるんだから。

 だれか一人でいい。自分も悪かったと言う奴はいないのか。間違ったことなら誰でもする。それは仕方がない。だが問題はその後ではないのか。「自分」が悪かったという言葉が人の口から出ないうちは、僕は人間なんて信用する気はないね。

 

シチリアの田舎町、アレの事で頭が一杯の少年が

 1940年、ムソリーニ率いるファシスト政権下のイタリア、シチリアの片田舎の町。イタリア参戦で沸き立つ人々を後目に、ジュゼッペ・スルファーロ少年は父親に自転車買ってもらって意気揚々。これで学校の友達に仲間に入れてもらえると大喜びで、連中がたむろする海沿いの場所にやって来た。だが、彼らは今それどころじゃない。何をそんなに色めき立っているのかと不思議がるスルファーロ少年だが、すぐにその謎は解けた。彼らは今、目の前の家から一人の女が出てくるのを、今を遅しと待ちかまえているのだった。

 出てきたのは目も覚めるような美女マレーナ=モニカ・ベルッチ。

 一目見てスルファーロ少年も魅せられた。ついでに体の一部も敏感に反応した。みんなは彼女の一挙手一投足に目を奪われた。もちろんスルファーロもこの日から、彼女の虜となった

 彼女のことが気になり、彼女の立ち回り先をウロチョロ追い回すようになってみると、町の男たちも彼女に目を奪われていることが分かった。何とか一度お相手したいと思っている点では、さっきのガキどもと大差ない。でも誰も手を出せない。彼女は人妻だ。出征した夫のいない銃後の家を、ラテン語教師の老いた父親ピエトロ・ノタリアーニとともに守る身。みんなはそれでもムチムチなボディで圧倒的なお色気の彼女が、夫なしで暮らせる訳がないと勝手に考えている。きっとどこかに男がいるに決まってる。人気絶頂のアイドルにフーゾク経験があったとか暴走族だったとかAV経験があったとかいう話と同じ。それは彼女を何とかしたいと願う男どもと、そんな男どもの様子に苛立て彼女に嫉妬する女たちの、てめえ勝手な歪んだ願望に過ぎない。だが、なぜかそんな噂話は妙なリアリティを持って町中を駆けめぐるのだった。

 マレーナ=ベルッチにゾッコンのスルファーロ少年は、彼女がそんなこと…と大いに憤るが、そんな少年自身噂話を一笑に付せることが出来ない。彼女の後を追い回したあげく、ある家に忍び込むように入っていく彼女を見て、噂は本当だったかと一瞬目の前は真っ暗。だが壁をよじ登って確かめてみるとそこは彼女の父親の家。思わず胸をなで下ろすスルファーロ少年ではあった。

 ところが彼女の人生は暗転する。出征した夫が戦死したというのだ。そんな彼女の悲しみを知ってか知らずか、町の連中と言えば男たちはこれで彼女とヤレると喜ぶし、女たちは彼女の愛人話に熱中する。何てデリカシーのない奴らと憤るスルファーロ少年にして、夜になれば一人ベッドで妄想たくましくしながらナニに励む。どこが違うんだよおめえは。

 だが町の連中の心ない投書で、娘マレーナ=ベルッチが町の男たちと寝まくってると言われた父親ノタリアーニは、怒って彼女を勘当した。

 ある夜、彼女の家の壁に張り付いて、壁の穴から中を覗き込むスルファーロ少年。すると若くてハンサムな軍人とマレーナ=ベルッチがいい感じ。一人身の寂しさに耐え兼ねたかマレーナ=ベルッチ。やっぱり心がグラついたか。だがそのハンサム軍人が帰るところに、歯医者のおっさんピッポ・プロヴィデンティがやってきた。この歯医者もなぜか彼女の家を訪問しようとしたところ。ここで両者つかみ合いの大ゲンカとなり、ついでに歯医者の女房も登場しててんやわんや。何と大事になって裁判が開かれることになった。

 困り果てたマレーナ=ベルッチは、これまたブ男の弁護士ジルベルト・イドーネの元へ相談に行く。裁判ではこのイドーネ弁護士の熱弁の甲斐あってマレーナ=ベルッチお咎めなしとはなったものの、町での彼女の評判はガタ落ち。しかも裁判の中で例のハンサム弁護士からのメッセージが披露されたが、この男はマレーナ=ベルッチとは単なる遊びと割り切っていたなどと供述。これには心ひそかに彼に想いを寄せていたであろうマレーナ=ベルッチも深く傷ついたのであった。

 不運はこれでは終わらない。今日び弁護士と言えば、医者や教師と同じく「悪徳」と付かない奴を探すのが難しい。これは今も昔も同じだったらしく、このブ男イドーネ弁護士も例外ではなかった。凶悪犯罪者を精神病と偽ったり少年だからと主張して助けたり、理屈こね回して裁判をムリヤリ長引かせたりはしないものの、人間のクズである点は大して変わりがない。カレーナ=ベルッチが裁判費用が捻出できないことをいいことに、彼女を強引に犯して自分の愛人にしたんだね。こんなブ男のくせに…などと言ったら、これ書いてる俺の立場がないし、そんな俺と付き合った女がかわいそうだから、それだけはやめて(涙)。

 やがて時が移り、マレーナ=ベルッチの父親ノタリアーニは空襲で死んだ。食いつめた彼女は、食料や物資を手に入れる代わりに男の相手をするようになった。戦況思わしくなくなった町にはドイツ軍が進駐してくるが、その頃にはマレーナ=ベルッチはこいつらを相手にする正真正銘の商売女になっていた。そんな一部始終をじっとスルファーロは見つめていたが、ガキの身に何が出来る訳でもない。せいぜい彼女のパンツを盗んでせっせとコいてるのが関の山だ。

 やがて映画「パール・ハーバー」が全米サマー・シーズン映画戦線ナンバー・ワンを勝ち誇るように戦争は連合軍の勝利で終わり、アメリカ軍がこの片田舎の町にも進駐してきたが、町の連中はすっかりビバ・アメリカで大歓迎って、どいつもこいつも根っから陽気で調子いいイタリアーノ。だが、どいつもこいつも陽気で…って訳にはいかなかった。ババアだのオバンだのブスだのヒスだの性格ブスだのといった揃いも揃ってゲスな町中のクソゲロ女ども(あ〜こういう差別語を堂々と書くとスッキリするぅ〜、君もブワ〜ッと言ってみないか?)が調子に乗ったあげく、とんでもないことをやり出したのだ…。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

トルナトーレの胡散臭さ全開

 日本で、そしてアメリカやら世界の映画マーケットでも今や信頼のブランドになったみたいな、ジュゼッペ・トルナトーレの新作がこれ。今回もアメリカはミラマックスの資本が注入されてるみたいで、それだけでも周囲の期待の大きさが伺われるよね。お話としては小ぢんまりとした小品のはずなのに、何だかシネマスコープのフレームがどっしりとした絵づくりだし、そこに大勢の町の人たちに扮したエキストラ、空一杯に広がる爆撃機の編隊など、なぜか大作感がムンムンに漂う映画になってるところがトルナトーレ印かも。

 それに語り口がとっても良くて心地よい。これって悪い意味に受け取る人もいるかもしれないけど、僕は一応褒め言葉として言ってるからね。第一いい語り口で語るってすごく大変なテクニックなんだよ。

 だが、それと映画そのものの出来とはまた別の問題なんだよね。

 「ニュー・シネマ・パラダイス」初めて見た時、うまいなぁ…って思ったよ。お利口な映画ファンなら「自分は最初から好きじゃなかった」と言うところ(実際大抵の映画ファンの奴らはそう言ってる。じゃあ泣いてたのはだ〜れ?)だろうが、僕はここでウソついても仕方ないからね。大いに楽しんだと白状しよう。だけど何だか無理やり泣かされちゃって、ズルいやズルいやって気がしたことも確かなんだよねぇ。この胡散臭さがトルナトーレには常に付きまとう。

 トルナトーレ映画の主人公と、トルナトーレ自身のスタンスには常に共通するものがある。それは徹底的な自己正当化なんだね。例えば一例を挙げると、“映画って素晴しい、僕たち映画ファンって素晴しいよな?な?な?”と暑苦しく迫ってくる「ニュー・シネマ・パラダイス」、“僕って純粋で壊れやすいから内にこもって外の世界になんか出られないもんね、ね?ね?”と開き直る「海の上のピアニスト」。どちらもこんな主人公たちを“ボクちゃんって純粋でナイーブでしょ?”と甘やかすとともに、“こんな優しい主人公や純な映画がつくれるなんて、なんて心の美しいオレ”って感じで一人でよがってるような気持ちの悪いトルナトーレの本音が透けて見えるのが興ざめなんだよね。

 今回だって同じだ。そりゃあ男の心には「思い出の女」が存在するだろう。それに良からぬ妄想も抱くだろう。何も出来ず悶々とするだけで、いざという時に守ることも出来ないだろう。だけどその事を全面的に自分から肯定したあげく、“男ってこういうもんさっ”と明るく断言されてもねぇ。ましてその後に“なっ?みんな”と馴れ馴れしく肩でもポ〜ンと叩いてくるみたいな共感の押し付け。何かと言うとやたらにマスターベーションのシーンに持ち込んだりするあたり、男同士の連帯や共感の目配せをしてきてるみたい。まるで、大して親しくもない奴がダチみたいな態度で肩を抱いてきたみたいで、気持ち悪くて振りほどきたくなる。何だか“男はみんなそうなんだから、俺は正しい”みたいな安易な納得に持ち込もうとしてるみたいな感じがしちゃうんだよね。

 今回の作品の場合、ヒロインがまるで紙に描いた絵みたいに薄っぺらで実体が空っぽと言っても、これはあくまで男の目を通して、追憶の中で都合良く美化されたヒロイン像という前提だから、まずはこれでいいのかもしれない。不幸のつるべ打ちでただ流されるがままのヒロインという展開も、橋田寿賀子(そういや、この人も徹底的に自己肯定的な人だった!)ドラマ並みのあざとさだが、好きキライはともかく先の理由と同じに抽象化や図式化を狙ったものだから、これもこれで仮に良しとする。まぁハッキリ言ってこのあたりは女が見たらイヤなんじゃないかとは思うが、そもそもこれは男の目から見た世界なのだと割り切ってこの際切り捨てたとしよう。

 だが、ドラマの沸騰点とでも言うべきところまで来て、トルナトーレはどうにも符に落ちない演出を施す。アメリカ軍がやって来た日、ドイツ軍と寝た女マレーナ=ベルッチは、てめえの事を棚に上げた町の女たちに凄惨なリンチをくらう。それを男どもは我関せずで、まるっきりの傍観者を決め込んで見ているだけ。髪を切られ、服を裂かれ、ボコボコに殴る蹴るの暴行を受けた彼女は、一人寂しく町を去って行く。

 この描写の激烈さは、橋田ドラマの真骨頂でイヤになるほどエグい描き方だ。しかし、それも彼女の悲劇性を強調するがあまりのことだったんだろう。それはまだいい。

 だが主人公の少年は、マレーナ=ベルッチがリンチを受けている時、微動だにしないで完全に第三者の顔をして見つめていた。気の毒だとは思っていても、ツラいという顔つきではない。何もこのガキにみんなを止めろと言っているんじゃないんだ。そんな事は出来ないだろう。せめて事が終わった後、誰もいなくなってからハンカチで血を拭ってやったら…。静かに「ごめんなさい」と言ってくれたら…。いや、それも望まない。わずかながらでも前に出ようとさえしてくれたら…。だがこのクソガキは、見ていられないと目をつぶることさえしない。後悔の表情もせず、ボーッと突っ立ってる。自分を責めてもいない。

 子供だから仕方がない…はこうなりゃ通用しない。それは少年が苦しみ悩んでいた場合に、観客が彼に言ってやる言葉だろう。こいつ自分から「ボクちゃん子供だも〜ん」と逃げて、てめえの腰抜けを正当化してしまってる。ならば手加減してやる必要はない(笑)。長ズボンを履き、彼女とヤルことばかり考えて、イッチョマエに大人扱いされたがってたこいつが、肝心要なところで都合悪くなると自分を子供扱いするところが薄汚ねえんだよ。ここぞという時に、急にボクちゃん子供だぁ? それが、彼女を愛してるだぁ? ナメるんじゃねえこのクソガキャア!

 助けろとは言わない。助けられない自分のもどかしさを、悔やんだり恥じたり責めたりする気持ちが欲しかった。

 その後、マレーナ=ベルッチの夫ガエタノ・アロニカが奇蹟的に生還して町に帰ってくるが、町のみんなは本当のことが言えない。言えないどころか、この夫アロニカを嘲りいたぶるアリサマだ。だがそんな彼の姿を見ていながら、主人公の少年はただ彼の後をタラタラつけ回すだけ。あげく最後にようやく事の次第を手紙にしたためて、アロニカと顔を会わせずに全てを知らせたが、やったことと言えばたったのこれだけ。自分は町の他の人間とは違って彼女の理解者だと言いたいのだろうが、ただの傍観者に過ぎないこいつのどこが違うんだ。あげく、夫アロニカに渡した手紙にも最後にさりげなく名前なんぞ入れて、自分のことを良く思われたいという気だけはミエミエというイヤラシさ。

 本当のラストでマレーナ=ベルッチに「お幸せに」と声かけるだけですべて正当化出来るのか。こいつが少しは自分を責めているのなら理解してやれなくもないが、「これで思い出に別れを告げて大人になったのさっ」とか調子のいい事しか言わないこのガキには、全く共感する余地などないのだ。

 ただねぇ、映画そのものは相変わらずトルナトーレ映画お得意の素晴しい語り口で、確かに甘酸っぱい思い出とかほろ苦い追憶を感じさせる記号に満ちているんだよ。そこに、あのエンニオ・モリコーネの必殺のメロディが甘く覆いかぶさってくる。また、主人公の少年がマレーナ=ベルッチを相手役に映画の一場面を演じるかのような、映画ファンの喉元くすぐるコビまくりシーンも連発する。見ている間はいい気分になるし、見終わった後も悪くないんだよ。だから、この映画が気に入った人も数多くいると思うんだよね。当然そうだろう。終盤にはマレーナ=ベルッチを連れた亭主が町に戻ってきて、町の連中が唖然呆然となっているのを横目に大通りを堂々歩いていくという素晴しい場面もあって、ここはグッと盛り上がる。だから決して悪くはないんだよねぇ、ちょっと見た限りはね。

 確かにヒロイン像があまりに流されすぎで、自分に対する意地みたいなものが感じられないのは正直言って少々イライラさせられる。フェミニストたちはそこを突いてくるだろうけど、僕はあえてそこを指摘はしない。もっと傷が深いのは別のところだ。

 町の人間たちはムソリーニ政権下ではファシズム万歳、アメリカが進駐してからは民主主義万歳。それと同じように徹頭徹尾勝手な妄想でヒロインを追い詰めておきながら、最後に自分たちが正義だとばかりにヒロインを制裁する。だがよっぽど彼女を淫売呼ばわりする連中のほうが、てめえのポリシーなどまったくない、誰とでも寝るような淫売同然の薄汚ねえ輩なのだ。それはスクリーンのこっち側でかわいそうねと傍観する我々も同じで、大衆とは本来皆すべて腐れ淫売なのだという主張を我々のノド元に突きつけるなら、それは全くごもっともだ。俺もそう思ってるぜ。

 だが主人公の少年は、そいつらと一線引いていると自分のことを思っているみたいだけど、実はこいつだって何ら変らないんだよ。いや、変に自己正当化しているだけ、こっちの方が罪は重いかもしれない。 どうして自分はダメな奴だったと、すまないことをしたと一言言えないのか。

 女を見つめる時に、男は結局てめえ勝手にしか見つめられない…それは確かに本当のことだろう。だが、それを苦々しく悔やみながら言うならまだしも、あっけらかんと“男ってこういうもんさっ”と自己肯定出来てしまう、しかもそれがさも素晴しい事のように開き直って恥じないトルナトーレの視点はいかがなものか? それって、この少年の調子良さとピッタリ重なる。だが、自分が悪かった至らなかったということすら認めず、自分の卑怯を全面肯定するような輩が、果たして「男らしい」と言えるのかい?

 今回の映画、トルナトーレは「世界の女性に捧げる」なんてヌカしているそうな。この男はおめでたいのか偽善者なのか。妙に映画テクニックだけは持っているからタチが悪いが、ともかく全く自分に対する反省というものが徹頭徹尾欠けた男なのだろう。正直言って男としては、実は「それが男というもの」だと痛いほど分かっているだけに、僕は平気で肯定したくはない。“なっ?みんな”なんて言われたって、うなづきたくはないよ。寄るなあっちへ行け、暑苦しいんだよおまえは。

 トルナトーレ、俺は男として、おまえとツルんだ覚えはないからな。

 

 

 

 

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