「ショコラ」

  Chocolat

 (2001/05/14)


「食」は人間の根元的欲求

 しかしゴールデンウィークともなると、みんないろいろお出かけしちゃうものなんだねぇ。僕は4月末の連休に出かけただけで、この5月の4日間は東京にずっといた。まぁ、やることも溜まってたしね。

 だけど、やっぱり旅行に出かけた人は多かった。だって、こんなとんでもない人まで日本にバカンスに来るくらいだもの…何と北朝鮮トップ金正日の長男(笑)!

 しっかしこれくらいのVIPともなれば、何も偽造パスポートで来なくてもいいのに…と思うのは素人の浅はかさで、実際は国交のない北朝鮮の人の場合、そうホイホイ来れないんだろうね。理由は何と子供を東京ディズニーランドに連れてきたかったとのことだが、これほどの大物にスパイ活動やらせる訳もないだろうから、おそらくこれ本当のことなんだろう。でも、ディズニーランドねぇ。他の国民が食うや食わずで木の根っこ食ってる時にディズニーランド…。でも、まだユニバーサル・スタジオ・ジャパンって言わなかっただけよかった。俺がまだ見る前に見られたら、いくら俺だって立場ないぜ(涙)。

 そしてあの態度! とても不法入国して捕まった奴ってツラじゃない。偉そうにフンぞり返って何様だおめえは!…と言っちゃあ国際問題になっちゃうから、ここは穏やかに「何様でございますの?」(笑)。まぁ、あんなに独裁で権力集中させてる国のトップの長男ということで、今まで誰からも文句一つ言われず言いたい放題やりたい放題だったんだろう。そういやプロ野球選手の落合んとこのガキにも似たツラ構え。何となく底に流れてるものの共通性感じちゃうよねぇ。この世の中バカにし切った顔つき見てると、 こう言っちゃあなんだが三田佳子の次男だってまだ少しは可愛げあったな…とフト思ったりして(笑)。そして首がなくなるほどパンパンに太ってたるみきったあの顔、あの体つき。繰り返すようでそのスジの方には申し訳ないが、他の国民が食うや食わずで木の根っこ食ってる時に…一体何をどうやったらこんなに太れるの? こいつがかなりの美食家でなくて、かつ暴飲暴食もしていないと言うならば、こいつの体にはダッチワイフみたいに空気でも定期的に吹き込んでいるとでも思わなければツジツマが合わない。北朝鮮だって食い物はあるとこにはある。それも飛び切りの贅沢さで、全部こういう連中が独り占めして食い散らかしてるんだろう。そりゃ世の中ナメ切るわな。

 何から何までガッチガチに統制し切った全体主義国家…だからこそ一方にこれまた極端にたるみきった淀みが出来るのか。「食う」という人間のみならず生き物全般にわたって根源的な欲求に関わることだけに、このへんの矛盾にはもう憤りというよりすごい興味をおぼえてしまうよね。

 と言うのも、実は去年の暮れから僕はとんでもない病気になっちゃってね…なんて言うと性病か何かみたいに思われちゃうけど、残念ながら別にそんな「いい思い」してるわけじゃないんで悪しからず(笑)。病名はズバリ言わないけど(実はまだ医師の診断中でハッキリ分かっていないんだけど)、まぁとにかく食べ物の制限とかを強いられる病気だと言えばお分かりになるだろうか。そんなに暴飲暴食大酒飲みしていた訳でもないから、最初は「なぜ俺が?」とえらく理不尽な気がしたけれど、まぁなってしまったものは仕方がない。本と首っぴきで食事制限シッカリ始めましたよ。食べる量も激減させた。

 こういうこと始めると、やり出すまでは全然やる気ないしブーたれてばっかりの俺だけど、今度何でもかんでも徹底させちゃうから自分でも恐ろしい。そんなに頑なにならなくていいんじゃないの?と言われても、あれもダメこれもダメと、まぁ断固として食べないわけだよね。そして数ヵ月が経過した。

 おかげさまで症状はほとんど出なくなった。そして何より劇的にヤセた! ズボンがどれもこれもまるっきりブカブカになった。ベルトの穴も足りなくなった。いや〜こんなに変るもんかねぇ。これならもっと早くから減量やってりゃよかったよ。ともかく10キロ近くは確実に減ったはず。

 でもねぇ、時にはやるせない気分にもなるよ。大好きだったアレだとかよく食べていたコレだとか美味しかったソレだとか、みんなみんなもう一生食べられないのかと思うとため息が出る。実際、どんなモノより「食べる」って事は大きい位置を占めてるものだって思わないか?

 そんな僕の心を見透かしたような映画がやってきた。その名をご存じ「ショコラ」と言う。

 

因習に囚われた町にやってきた母娘

 ちょいと昔のフランスの片田舎、ランスクネの町。町の人たちは昔から教会を中心に厳格な教えと規律を守って暮らしてきた。その厳格さを体現するのが、代々町長を続けてきたアルフレッド・モリーナ伯爵。今も断食の時期とかを忠実に守ってる真っ最中。実はその頑なさゆえに嫁さんに逃げられて寂しい思いをしているが、そんな事を公言出来るはずもなく嫁さんイタリア長期旅行中ということになっている。みんなもそこらへんの事情知ってはいるが、黙っているのがしきたりなのだ。

 そんな折りもおり、北風に乗って妙な母娘が町に流れてきた。それが母ジュリエット・ビノシュと娘ヴィクトワール・ティヴィソル。まずビノシュは町の空き家の店舗を借りに、持ち主の婆さんジュディ・デンチのところに話をつけに行く。このデンチ婆さんやたらに偏屈で愛想なしで、どうも町の鼻つまみ者みたい。だがビノシュは別に気にもせず、店を借りる話がついた。さて、何の店を開く気か。

 やがて小汚い店を磨きにみがくビノシュの姿に、早速町長のモリーナ伯爵がやってくる。聞けばここチョコレートの店だとか。モリーナはビノシュに教会へ来るよう言うが、ビノシュがこれをやんわり断るのでカチン。おまけに間の悪いことに断食の時期にチョコの店とは。モリーナ伯爵何とも面白くない。

 やがてビノシュのチョコの店が開店すると何人かの人が店を遠巻きにし始めるが、伯爵の手前堂々と店に立ち寄ろうとはしない。それでも、たまたま店に入り込んだ一人のオバハン。めっきり老け込んじゃってアッチのほうもご無沙汰とクラ〜い顔。そんなオバハンにビノシュはあるチョコをお勧めする。でも今じゃダンナがあたしを女扱いしなくなっちゃったから…と諦め顔のオバハンだったが、家に帰ってこのチョコをダンナに食べさせたらア〜ラ不思議。こりゃまさかバイアグラチョコか? それなら俺も一つ欲しい。いや、一つと言わず100個だ(笑)!

 そんなこんなでポツポツと何人かの人々と接触するうちに、ビノシュにも町の様子がぼんやりとながらつかめてきた。

 子犬を連れた初老の紳士ジョン・ウッドは、老いた未亡人レスリー・キャロンに夢中だが、その思いを打ち明けようとはしない。彼女いまだに亡き夫の喪が明けないからだが、実は夫が亡くなったのは何十年も前のことだった。偏屈婆さんデンチは教会に行かず好き勝手にやっているため町では浮きまくり。この町にゃボンドもマネペニーもいないからね(笑)。それゆえ偏屈さに磨きもかかろうというものだが、実は厳格で潔癖性の娘キャリー=アン・モスと疎遠になり、孫のオーレリアン・ペアレント=ケーニングとも会わせてもらえず秘かに寂しい思いを抱いていた。神経症扱いされている女レナ・オリンは、実は暴力亭主のピーター・ストーメアに抑えつけられ、絶望の日々を送る気の毒な女だった。ビノシュはそんな町の一人ひとりに優しく近づき、「チョコでもチョコっと食べてみない(笑)?」とさりげなくオヤジギャグかませながら親しくなっていく。いくら田舎町でもかなりお寒いギャグはともかく、あとはチョコの絶妙な味がみんなの頑なな心を少しづつ溶かしていく

 教会にも行かないくせに町の人々の心をとらえていくビノシュのチョコの店。「いちげんさん」のお客さんたちが、そのうちチョコ欲しさにチョコチョコやって来るようになってきたのは、何もダジャレ聞きたさにってわけじゃない。ダジャレも店の存在も苦々しく思ったモリーナ伯爵は、まだ若い神父ヒュー・オコナーをガッチリと抑えつけて、教会の説教でチョコの誘惑の罪を躍起になって説くけれどチョコっとばかりのゴタクじゃあまり効果はない(しつこい)。やがてデンチ婆さんは孫と感動的な再会を果たし、レナ・オリンは暴力亭主の元から逃げ出す勇気を得て、ビノシュの店に住み込んで働きだした。

 そんなある日、町のそばを流れる川に見知らぬ船が停泊した。自由人のジプシーたちの集団だ。いい加減で胡散臭いよそ者の襲来だと煽るモリーナ伯爵のおかげで、町の店に入ろうとしてもボイコットばかりくらうジプシーたち。だが、ビノシュ一人だけはそんなジプシーに暖かく接し、そのリーダー格のジョニー・デップと親しくなっていく。むろん、そんな彼女をモリーナ伯爵が面白く思うわけがない。

 やがて糖尿病の病いを持つデンチは、おとなしく療養所に行く代わりに自分の誕生日を盛大に祝ってくれとビノシュに頼む。チョコを橋渡しに親しくなった町の人たちにデップも加えてのパーティーは、招待客をジプシーの船に招いてのダンス・パーティーへとなだれ込む。しかし、そんな様子を苦虫かみつぶしてモリーナ伯爵と女房に逃げられたストーメアが見ていた。キレたストーメアは船に火をつけ、パーティーは散々な幕切れになってしまった。しかも帰宅したデンチはそこでこときれた。

 デップたちは町を去った。町の人たちはまたビノシュ母娘に門を閉ざした。今度こそここに根を下ろそうとしたビノシュだったが、万策尽きて疲れ切ったあげく、再び町を離れようと決意する。結局、私がどんなに頑張ってもチョコっとも変わりはしないんだわ…って、こんな失意の時までギャグ言ってる場合かよ。

 しかし、本当に何も変わらなかったのだろうか?

 

「何でもあり」の大切さ

 この映画、従来のアメリカ映画ならば、人々を制圧する体制と自由を希求する個人との戦い…な〜んてワンパターンな物語に収斂されていくところ。でも、これはそんなつまらないお話にはなっていかないんだよ。

 そしてこの豪華な配役! 実は主演のジュリエット・ビノシュは、僕が苦手な女優だったんだよね。何だか大根っぽいくせに何であんなに偉そうなツラしてるんだと、どうにもあの高い評価が納得出来なかった。あの「おかめ」顔もいただけなかったし(笑)。でも、この映画ではしなやかなキャラクターがすごく良かったんじゃないかな? 彼女の個性に初めてハマった役柄という気がした。よく考えてみるとかつての感じ悪さも、本来は素朴で鈍くさかった彼女が頭でっかちのレオス・カラックスにつき合わされて、無理に背伸びして理屈っぽい役作りをしてしまったからだったのかも。「ツバル」のドニ・ラヴァンといい、みんなネクラなカラックスと切れると伸び伸び良くなるねぇ(笑)。たぶんこの映画で彼女を初めていいと感じる人も多いと思うよ。さりげない登場ぶりのジョニー・デップも好感持てるし、他にもジュディ・デンチやレナ・オリンまで。何とキャリー=アン・モスまでSFでもないのに出演してる(笑)!

 舞台がヨーロッパだというだけでなく、上記のように出演者もビノシュをはじめとしてヨーロッパ勢が大半を占めており、映画の雰囲気自体にアメリカ映画らしからぬヨーロッパ・テイストが漂っている。それもそのはず。この作品はあのラッセ・ハルストレムの新作なんだよね。

 ハルストレムは「ギルバート・グレイプ」や「サイダーハウス・ルール」と、スッカリここんとこアメリカ映画界に根を下ろして活躍しているのは凄いね。しかも、その自らの持ち味は全く変わっていないのがまた凄い。安易にハリウッド化なんてしないんだよ(ただし、僕はクソ屁理屈振り回すシネフィルなんかじゃないから、ハリウッド映画も大好きだけどね)。

 だから、ここでもつまらない体制対個人の戦いなんて描き方なんかしない。諸悪の根元であるはずの教会も、悪役になりがちな伯爵でさえも、ここでは悪と断じられていない。ビノシュだって過激に勇ましく戦ったりしない。微笑みを武器にいつもオープンに人々と接するんだよ。そしてもう一つ武器がある。それはチョコレートだ。

 チョコレートの甘さ苦み、その芳醇な味が人々の心を虜にする。映画は味が描けないのに、ここではその味わいが伝わってくるほど。微笑ましくユーモラスに嬉しく楽しく人々を解きほぐしていくから、そんな自由への戦いなんてつまらない展開になんかなるわけないんだよね。ハルストレムはさすがに大人だ。

 それに、ここでは敵は教会や因習なんて「体制」じゃないんだよ。人々が自分の心につくる頑なさ、不寛容、厳格さこそが敵なんだ。あえて敵を挙げるなら…だけどね。そして、それは決して押しつけられたものとも言えない。実は人は進んで自分の心に「枠」をつくっている。

 神父は本当はエルヴィスの「ハウンドドッグ」も歌いたいはずなのに、そんな気なんかないふりをする。みんなを抑えつけている伯爵も、実は妻に逃げられ苦しい本当の気持ちを抑えつけている。何十年も経っているのに夫の喪に服している未亡人も、彼女への思いを隠している紳士も、それを良かれと受け入れている。亭主の暴力に甘んじている弱い妻も自分をどこか偽っている点では同じだが、実はそんな「強い夫」づらをし続けるのが良いことだと思いこんでいる亭主のほうも、同じ心の囚われ人なのではないか。何もかも子供でさえも厳格にコントロールしなくてはならないと思いこんでいる母親もそうだろう。だが、自由を満喫するとうぞぶく偏屈な婆さんも、その偏屈さヘソ曲がりをことさらに装っている点では大同小異だ。

 重要なのは、みんなの心にチョコで軽やかな風を吹き込むジュリエット・ビノシュ扮するヒロイン自体、そんな頑なさと無縁ではないことだ。北風に吹かれて旅から旅。それが自らの定めと旅がらす生活を続けていたが、実は娘がそんな暮らしを重荷に感じていることには目をつぶる。そして、心の底では自分も定着したいというもう一つの望みも黙殺する。確かに旅から旅の自由人に見えて、その心の中は決して自由とは言えないのだ。人は知らず知らずに自分に枠をつくっている。そして自分から自分を不幸にしている。そこには、人の生き方や考え方はこうと決められない、善し悪しは決められないと語ったハルストレムの前作「サイダーハウス・ルール」と実は同じテーマが流れているのだ。

 「サイダーハウス・ルール」と言えば、僕はこの映画の感想文を書いたときに、その話の前振りとして禁煙を解いた時の自分の経験を語ったよね。かつてつき合った女性が、ちょっと楽になってみたら…と言ってくれた時のことを。そのおかげで、僕はその時ちょっぴりだけ心が自由になった。だけど今にして思い起こしてみると、そう言っていた彼女自身決してそうした「枠」から完全に自由だったわけじゃなかった。こだわらない、囚われない事がモットーだった彼女ですら、どこかで自分はかくあるべき、こうでなきゃダメだという「枠」に囚われていたように今は思う。或いは「枠に囚われないこと」という「枠」を自分にはめていたのかもしれないよね。人間ってなかなか本当に自由になるのは難しい。

 でも、人間は生き物だ。生き物ってのはじっと硬直させておくだけじゃ腐ったりしなびちゃったりするんだよね。だから、人生も世の中も、人間自体も「何でもあり」なもののはずだ。ハルストレムはこの映画でも、その「何でもあり」の大切さを伝えたいんだろう

 だから、そんな映画自体が「自由への戦い」なんて硬直したものになっちゃ台無しだよ。今回の映画あんまり語り口が平易なもんだから、かえって一部の向きから批判されてしまうかもしれない。確かに同じハルストレム作品でも「サイダーハウス・ルール」などと比べると、今回は結構甘さもあるんだけど話がチョコだけに甘いの当たり前か(笑)。この人の作品いつもおとぎ話的な作りではあるが、今回はモロにそれだもんね。でも、ブッチャケて言ってしまえば「固く考えずにラクにいこうよ」ってのが本作のテーマだけに、あえてそうしたツメの甘さを語り口の面でも残したのかもしれない。そこまであえて考えての“甘さ”だとしたら、ハルストレムさすがの老練と言わざるを得ないな。実は僕も、どっちかと言えば「サイダーハウス・ルール」よりもこっちが好きだしね。

 だから僕も試したよ。本当はいけないんだけど、この映画見た後でチョコを買ってみた。試しに口に入れてみた。そりゃ良いことではないよ。でも今日ぐらいはいいだろう。少しくらいはいいだろう。自分が自分に囚われたって仕方ないじゃないか。

 いつだって、自分は自分の王様なのだから。

 

 

 

 

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