「花様年華」

  花様年華 (In the Mood for Love)

 (2001/05/14)


最近のウォン・カーウァイってどうも

 もって回ったものの言い方はやめよう。言いたいことは、僕は近年のウォン・カーウァイ作品をあまり認めていないということだね。その分岐点は「恋する惑星」にあると思っている。

 元々即興性を含む映画作家だったカーウァイだけど、この「恋する惑星」は全編アドリブでいってたまたまうまくいってしまった。僕にとっては、確かにここまではよかった。「恋する惑星」も試みとしてはダイナミックでよかったと思ってるよ。それ以来、カーウァイは即興で映画をバンバンつくり始める。でも即興性を取り込んだ映画をつくるということと、ロクに考えずに思いつきでホイホイ撮って、後で意味ありげに編集するというのは違う。「恋する惑星」以降、カーウァイはどうもスカした道具立てばかりに凝って、構成づくりを真剣にやらなくなったと言いたいんだ。ブエノスアイレスの街とかタンゴの調べとか、ナルシスティックな2大スターとかクリストファー・ドイルの素晴しいカメラとか…やたらカッコつけたアイテムで固めて内容の空疎さをごまかしてる。もちろん異論が数多くあろうことは予想しながらも、あえて発言させていただけば…だが。

 だから、久々の新作「花様年華」にはマギー・チャン&トニー・レオン2大スター共演への期待もあったけど、それ以上に不安も大きかったんだね。

 では今度の作品、一体どうだったのだろう?

 

 

 

 

 

 

 

 

できれば映画見た後で

 

 

 

 

 

 

 

1962年、香港

市内の狭いアパート。

某会社社長秘書のマギー・チャンと夫。

新聞編集者トニー・レオンと妻。

二組の夫婦が隣り合わせに入居する。

それも同じ日に。

マギー・チャンの夫は出張がち。

トニー・レオンの妻も夜勤が多い。

毎夜マギー・チャンは屋台で食べ物を買う。

毎夜トニー・レオンは屋台で食事する。

毎夜屋台に行く途中ですれ違う二人。

二人は決定的に気づいてしまう。

夜、初めて二人きりで語り合う。

ネクタイ、ハンドバッグ…奇妙な符合。

お互いの相手どうしが浮気している。

やりきれぬ思いと寄りそう心。

どちらから誘ったのだろう。

どこから こうなったのだろう。

とにかく「それ」はもう始まっていた。

 

一緒に食事をして、散歩して。

新聞小説を書き始めたトニー・レオン。

仕事のためにホテルに部屋をとる。

マギー・チャンは、しかし訪れてはくれない。

そんなある日、トニー・レオンは病いに伏す。

行きたい行っては駄目行かねば行けばつらい。

そして部屋に二人。小説の執筆を行う楽しい日々。

片やアパートで回りの目を恐れる毎日。

家主はマギー・チャンをとがめる。

亭主の留守中に遊びが過ぎるというのか。

お互いの相手は帰ってくる気配もないのに。

 

小説の内容を参考のため演じてみても、

別れの場面で涙がにじむ、思いが溢れる。

トニー・レオンは知人の誘いで決意する、

新天地シンガポール行きを。

切符がもう一枚取れたら君も来ないか。

切符がもう一枚取れたら私も連れて行って。

語られなかった言葉、聞かれなかった頼み。

ホテルの部屋を引き払うトニー・レオン。

去っていく後ろ姿、後髪引かれる思い。

去り際の心残りをその場に残したまま。

 

1963年、シンガポール

トニー・レオンの部屋に仕事中来客あり。

だが帰宅時には客は部屋から消えていた。

部屋に来ていたのはマギー・チャン。

彼がいないと知るや待たずに帰った。

思い出の品の彼女のスリッパだけ持って。

 

1966年、香港

久々に例のアパートに来たマギー・チャン。

家主に新たに部屋を借りたいとの頼み。

さらに後日、アパートを訪ねたトニー・レオン。

家主は渡米して当時を知る者はいない。

マギー・チャン夫婦の消息を聞くが不明。

夫婦が住んでた部屋は、今はある母子の部屋に。

全ては変わったと悟り、トニー・レオンは去った。

ある母子…マギー・チャンは幼い息子といた。

 

1966年、カンボジア

悠久の時に洗われたアンコールワットの遺跡。

一人たたずむトニー・レオン。

言い伝えにならって遺跡に穿たれた穴を選び、

誰にも打ち明けなかった秘密を封じ込める。

ただ、少年僧だけが見ていた。

ただ、遺跡だけが彼の言葉に耳を傾けた。

遥かな年月、人の営みを見てきた遺跡だけが。

 

 

 お話はこれだけ。もう、これっだけ。後はないと言っていい。

 時代考証はかなり緻密に行われていて、とにかく圧巻。ヘアスプレーで髪をセットし、スラッとチャイナドレスに身を包んだマギー・チャン。ポマードで髪をなで付け、スーツをキメたトニー・レオン。主役二人が何とも魅力的。そしてナット・キング・コールが歌う「キサス・キサス・キサス」をはじめとしたラテンポップスなどが切なく濃厚な時間を彩る。毎度おなじみクリストファー・ドイル(リー・ピンビンと共同)のカメラは、ここんとこのウォン・カーウァイ作品のワンパターン手法である手持ちと広角レンズをやめて三脚に固定。きめ細かくも鮮やかな映像づくりを試みている。

 そして、これは映画そのものを見ていただかないと分からないのだが、とにかくこの映画は余白が多い。説明が極力排され、ある程度自由な解釈が可能だ。また、編集で時間が行きつ戻りつする不思議な効果が作り出されたり、主人公二人が執筆中の小説の登場人物を演じる場面が挿入されたりして、それが一層映画の解釈をオープンで緩やかなものにしている。たぶん、作者は人によってそれぞれ違う解釈が出てくることを狙ったに違いない。

 だが、これは行き当たりばったりでは決してつくることの出来ない映画だ。緻密に計算され積み上げられ取捨選択された末に残ったフィルムでつくり出した映画だ。刈り込んで刈り込んでつくった作品…うまく表現出来ないがある意味で「俳句」のような映画だと言えるだろう。

 だから、実は上記の物語をつづった文章でも説明が多すぎ、具体的すぎるほどなのだ。それに、解釈が間違っていると言う人もいるだろう。極力主観や説明を削ったつもりだが、それでも映画はこれ以上に説明が乏しい。いきおい見方も人それぞれにならざるを得ないのだ。

 そういう訳で、僕もここからは理屈ではなくて自分の主観で説明させていただく。

 余白をたっぷりとって見る人に考える余地を与える映画づくり、かけがえのない時間を描いた物語、むせ返るような濃厚ラテンポップスのノスタルジー…これらがすべて連想させるのは、ウォン・カーウァイの旧作「欲望の翼」だ。実際、ある意味で「花様年華」は、カーウァイが「欲望の翼」の頃の気分に立ち返ろうとしたことを伺わせる作品だ。

 インタビューなどでも偉そうなサングラスなんかかけてフンぞり返ってる「巨匠」カーウァイ(笑)に、反省の色なんざ期待するのは大間違いだ。だがさすがのカーウァイでも、ここんとこの何作かは明らかに手抜きだったと冷や汗かいてたんじゃないか。日本のエエカッコしいな女の子は騙せても、世界中の映画ファンをそういつまでも騙し続けておけないもんねぇ。真相は分からないけれど日本のキムタク連れてきて撮りはじめたSF映画とやらが中断したまんまで、この「花様年華」に入っちゃったというのにも、そのへんの理由が反映しているんじゃないか。もし今後そのSF映画が完成することがあっても、たぶん当初の構想とは微妙に変化しているはずだ。この「花様年華」を通過した後では。

 ただ、カーウァイはあの大好きな「欲望の翼」に戻ってくれた、バンザァイこのまま一歩も変化も進歩もしないでおくれ…と言うほど、僕は偏狭で傲慢で保守的なファンにはなりたくない。何かと言えば、売れる前の誰それはよかった、オスカーとる前の誰それはよかった…と言うのが映画ファンの常道。あと、フィルムが燃えてなくなっちゃったようなサイレント映画ほど傑作と言われたりする(笑)。大体そういうのって、本当にそれがよかったんじゃなくって「そんな前から知ってる俺は偉い」って言いたいだけなんだよね。ホントに映画ファンって何とかなんねえのかな。

 カーウァイはマジで行き詰まってたのかもしれないよね。「恋する惑星」のあと、あんなに“まんま”の「天使の涙」なんかつくっちゃって。しかも「ブエノスアイレス」。シナリオつくんなかった…じゃなくって書けなかったんじゃないか? あの偉そうなサングラスのカーウァイが今さら「書けない」とも言えないよね。2大スターをとにかく雰囲気たっぷりのブエノスアイレスに連れてきて、部屋に閉じ込めて何かやらせればドラマっぽく見えるかも。カメラはクリストファー・ドイルだから、内容空っぽでも何か意味があるように見えてくる。音楽はやっぱり流行りのタンゴでしょ。そうすれば日本の女性雑誌なんかバカだから飛びついてブームにしてくれる。勝手に解釈してくれるし元々ないはずのストーリーもつくってくれるだろう。

 少なくともこの作戦で、あと2〜3作は日本の利口ヅラ女相手に渋谷で商売出来たはずだが、ここでハタと正気に戻ってくれたカーウァイはそれだけでも偉いと褒めてあげよう。ついでにあの偉そうなサングラスやめてくれないか、何か見ていて殴りたくなる(笑)。

 ズバリ「花様年華」は、ウォン・カーウァイが何かを取り戻したいと欲して、「欲望の翼」を振り返って撮った映画であることは明らかだ。カーウァイは偉そうにそうは認めないだろうけど。

 そしてタバコの煙、ヘアスプレイやポマードで固めた髪の輝き、鮮やかな色のチャイナドレス…そうした美しいビジュアルに惚れ惚れさせてくれる映画でもある。見る楽しみに満ちた映画。スタイリッシュにかっこよい映画。それはここ数作で、とりあえず見かけのかっこよさだけ追求してきたカーウァイなりの成果なのかもしれない。僕はその事を決して否定的に見やしないよ。かっこいいって大事な事だからね。しかも、今回はそのかっこよさが上滑りしてない。だから見事なんだ。

 そして「花様年華」は「欲望の翼」を想起させるにも関わらず、「新・欲望の翼」や「欲望の翼2」にはなりえない作品だ。なぜなら、カーウァイその人がもう変ってしまったから。「欲望の翼」に流れる切なさは、若さゆえ、青春ゆえの切なさだ。だからある程度ムキ出しで見えている。でも、「花様年華」での切なさはぐっと冷えて冷めて胸の内奥深くにしまってある。もう大人だからなんだね。

 最後のアンコールワットは、いろいろ解釈可能な場面だ。でも、人智の及ばぬ悠久の時の流れを耐えてきた遺跡に向かって、そっと自分の秘めてきた思いを打ち明けるというラストのトニー・レオンの行為を考えた時、僕にとってこの映画は結ばれぬ恋の切なさを描いた悲恋映画ではないという気になってきたんだよね。だって、遥かな時の流れを超えて多くの人々の生きざまを見つめてきた遺跡に、セコいグチや泣き言なんてわざわざつぶやきゃしないよな。そんな巨大な時間や歴史に比べるべくもないだろうけども、自分なりには大きな意味を持つ「自分史」の1ページを、吹けば飛ぶような歴史上の無名人の一人として語りたいと思うんじゃないか。実際、僕だってそんな秘かに語りたい「自分史」はあるよ。それは心の中でじっと保存して、いつか朽ち果て消えてしまう自分の存在よりも遠く長く生き続けさせたいほど大切なものだ。だからラストのトニー・レオンの気持ちがよく分かる。 まぁ、これは僕の勝手な感想だけど。

 運命的な出会いっていうのは人生にそう何度もない。実は全然ない場合だってあるかもしれない。それは本当に希有なことなんだって僕は思う。そしてそれが世俗的現実的な意味で最後まで成就するかどうかってことは、また別の問題だ。ハッピーエンドとはよく言うけれど、人生の価値はそれがすべてというわけでもないだろう。限りなく「永遠」に近い何者かにだけ、そっと打ち明けたい思いがあることこそが重要なんだ。

 それは自分の存在などとるに足らぬほど、大切な思いなのだから。

 

 

 

 

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