「トラフィック」

  Traffic

 (2001/05/14)


空気から違う国境の街

 今から10年以上前のこと、海外駐在になった友人を頼って何週間かロサンゼルスに遊びに行ったことがある。ユニバーサル・スタジオ、ディズニーランド、ハリウッド…あらかた名所を見尽くしたあげく、連れていくところがなくなった友人は、僕をドライブに連れだしてハイウェイを一気に南下した。国境を越え、メキシコに行こうというのだ。そこがかの有名なティファナの街だった。

 アメリカからメキシコ入りは、陸路で国境越えなんてしたことのない日本人の僕には意外なほどスンナリいって、拍子抜けというのが正直な感想。あっと言う間にゴミゴミしたティファナの街に入る。

 この街に住んでいる人たちには申し訳ないが、いきなり風景が煤けてゴミゴミして建物もどことなく汚れが入ってて、空気すら一変した感じがした。車から降りて歩き出すと、現地のメキシコ人たちが何かモノを持って殺到してくる。土産物を買えと言うのだ。モノを持っている奴はまだいい。手ぶらの奴はただ金をくれと言ってくる。まだ小学校に行くか行かないかのガキが鼻たらしながらゾロゾロついてくる。中には弦が三本ぐらいしか張ってないガタガタのギターをボロンボロンとかき鳴らし、哀れっぽい声で「親の因果が子に報い〜」的に歌をうたってるガキもいて辟易。アメリカに何年か住んで、ここティファナにも何度か来たことのある友人は平気な顔をして無視していたが、場慣れしていない僕はかなりマイッタよ。

 売ってる品物というのがたいていは蚊取り線香を入れるブタの焼き物みたいなシロモノで、魅力ないことおびただしい。そんなもん売りつけられても困るんだよな。これ読んでいる中でメキシコ大好きな人、メキシコ人の人いたらごめんなさい。でも、ありゃホントにまいったぜ。

 何か太陽の光そのものからして違うみたいなんだよな。匂いも違う。ホントにここは別世界って感じなんだよ。

 あと、片言の日本語で話しかけてくるのもいて閉口する。当時は中曽根政権下だったせいか、日本人と見ると「ナカソネサン、ナカソネサン」って言ってくる連中がウジャウジャ。俺は中曽根キライなんだよ(笑)。今は「モリサン」なんだろうか? それじゃ「俺をバカ呼ばわりするな」とみんな怒るよ(笑)。それとも早くも「コイズミサン」になってるだろうか? もっとも中曽根って海外じゃあ名が売れていたから、あとの日本の首相じゃあ名前おぼえられてないかもね。

 それはさておき、カップルだったら「シンコンサン」、女だったら「カワイイ、カワイイ」…いやぁ、彼らよく分かってるよ。俺よっぽど奴らに「ブス」って教えてやろうかと思ったぜ。

 モノを売りつけようとする奴も、あっさり引き下がる奴もいればしつこい奴もいる。変な置物を手に持って、「50ドル、50ドル、50ドル…」(ここでの「ドル」は英語の「dollar」の発音ではなく、あくまでカタカナ言葉の「ドル」なんだよ)と食い下がってくる。それでも無視してると「40ドル、40ドル」「30ドル、30ドル」と、どんどん値を下げる。一人オークションやってる感じ(笑)。しまいにゃ「20ドル、20ドル」と半値以下まで落とす。それ、一体原価いくらなんだ? それでも欲しくはないから無視してやり過ごしていると、向こうは立ち止まってあきらめたかと思いきや、往来の真ん中で俺たちの背に向かって「15ドルゥゥゥゥ〜〜〜〜!!」と恨みがましい絶叫。やめてくれぇぇぇぇぇ〜〜〜〜〜(笑)。

 まぁそういう値引きはよくある話だけど、こっちの人々の切実な飢えみたいなものは、ウブな鎖国日本人にはかなりヘビーに感じた。やっぱり俺は国際人にはほど遠い。昔は秋葉原電気街で値切るのだって何だか罪悪感感じてたもんな。でも今は生活防衛が先に立ってるからこっちも情け容赦ないけどね(笑)。日本人には強気に出る内弁慶なこの俺。

 でもそんなティファナ訪問の最後に、さすがの僕も愕然とする現実を目の当たりにしたんだよね。国境近辺で記念撮影していると、メキシコ側から人がタッタカ走って行っては、国境の柵をよじ登ってるんだよ。僕らがチーズなんてやってる背後で、さりげなく人がどんどん柵越えてる(笑)。その場で捕まってる奴もいる。信じられる?

 また、メキシコからアメリカ入りする時には、行きとうってかわってやたら時間がかかるんだよ。それにチェックも心なしか厳しく感じた。国境越えて走り出す車から見ると、ハイウェイの途中で停められてる車もたくさんあった。あれ、たぶん越境者が隠れてる車なんだろうな。彼らあんなにアメリカに行きたがってるんだね。それは何より、メキシコの貧しい現実からそれだけ切実に脱出したいという彼らの気持ちの現れなんだろう。そう気づいた時、「15ドルゥゥゥゥ〜〜〜〜!!」にウンザリしていた自分が「奢れる大国」の側に立っていたことをイヤというほど感じたよ。

 本当にツラい立場にいる人間は手段を選ばない。そして善悪を問わない。そして、この映画「トラフィック」はそんな国境の街ティファナから始まるのだ。

 

麻薬をめぐる二カ国にまたがった人間模様

 メキシコの国境の街ティファナ郊外にて、地元警察のベニチオ・デル・トロ刑事と相棒のジェイコブ・ヴァルガス刑事は、じっと何かを待ち伏せしている。やがてやってくる一台のトラック。デル・トロ刑事とヴァルガス刑事はこのトラックを呼び止めて積み荷を確認すると、出てくる出てくるコカインがワンサカ。ところが彼らがトラックを押収して現場を去ろうとしたちょうどその時、今度は重装備の軍隊の連中がやってくる。これは俺たちの管轄だとか何とか言って、有無を言わさず押収したブツと逮捕した運び屋を連れていく軍隊の連中。呆気にとられるデル・トロたち。あいつら一体何なんだ。

 やがて街に戻ったデル・トロ刑事は、モノモノしい雰囲気の連中に問答無用で連れていかれ、辺鄙な場所に居を構える例の軍人たちと再会する。ここのリーダーはトーマス・ミリアン将軍。麻薬取り締まりの密命を帯びて、秘かに過激に密売組織の摘発を行っているとか。この将軍はデル・トロを見込んで、取り締まりへの協力を依頼する。仕事始めは密売組織の仕事を行った殺し屋クリフトン・コリンズ・ジュニアを捕まえて連れてくること。 デル・トロは相棒のヴァルガス刑事も引き込んで、ちょっとサイコでアブない奴と恐れられているコリンズ・ジュニアをしょっぴいてきた。

 ここのやり方は一種独特だ。最初は陰惨なやり方で手下の兵士たちがコリンズ・ジュニアをいたぶりつくす。その後でミリアン将軍が登場。ひどい目に遭わせたなぁと優しく扱って、情に訴えたところで雇い人を吐けと迫る。これにはさすがにコリンズ・ジュニアも自白せざるを得なくなる。

 そのやり口に少々ビビりながらも、麻薬摘発のためになるんだから…と自らを言い聞かせるデル・トロではあったのだが…。

 一方、こちらはアメリカ、ワシントンDC。麻薬摘発でやり手と目されているマイケル・ダグラス判事は、その手腕を買われての大抜擢で自民党総裁ならぬ政府の麻薬対策本部長に就任することになった。お偉いさんアルバート・フィニーに会いに行くと、「大いに期待するぞ」とか言いながらもここ永田町…いやワシントンでの振るまい方についていろいろありがたい教えをいただくことになる。前任者の本部長であるジェームズ・ブローリンに挨拶に行けば、今度は「頑張ります」と意気上がるダグラスに冷水を浴びせるような話をする。自分のアシスタントに聞けば、ブローリンは独断専行でいろいろやろうとしすぎたのが仇だったとのこと。要はどいつもこいつも「やりすぎるな」としか言わないのだ。ダグラスの新本部長就任を祝うパーティーでも、どいつもこいつも「麻薬撲滅にはこうすべきだ」と持論を言ってくるが、どれもこれも言いっぱなしの勝手な意見ばかり。不毛な時間が過ぎるばかり。

 そんなダグラスも家に帰れば立派なお父さん。家はもちろんいいとこの家で嫁さんエイミー・アーヴィングもご立派な働く女性兼主婦。娘エリカ・クリステンセンもいい学校に行って成績優秀。一見何も問題ない素晴らしいご家庭に見えるのだが、親ってのが子供の世界を何にもご存じないのは世の常。クリステンセン嬢、優等生なれど実は親の目を盗んでボーイフレンドとアレにコレにふけりまくり。ま、こりゃ当り前か。男は誰だって恋人の親父の顔はマトモに見れない。口じゃ言えないことも多くやってるしね(笑)。だが、そんなとこでとどまってるならまだ可愛げもある。このクリステンセンってコ、事もあろうにコカイン・パーティーで麻薬に溺れきってるんだから今時のガキは怖い。シンナー遊びが懐かしいぜ(笑)。

 そんな頃、同じアメリカでもサンディエゴでは、ドン・チードル刑事と相棒のルイス・ガスマン刑事が麻薬売人ミゲル・フェラーをおとり捜査でしょっぴいたところ。なかなか口を割らないフェラーだが、それというのも口を割ったら生きてはいけない世界だから。それを何とか「万全に保護するから」とか言ってしゃべらせて、こいつの上にいる麻薬組織の大ボスのスティーブン・バウアーをパクる。このバウアー、例のティファナの組織とつながる大物だったわけだが、その妊娠中の嫁さんキャサリン・ゼタ=ジョーンズは、ダンナがそんなヤバい仕事とは知らず大ショック。その後、チードル&ガスマン両刑事は一応重要な関係者ということで彼女に張り込みしているものの、どう見ても彼女はシロだと思ってはいた。

 そう、確かに彼女はシロだった。だがダンナは取引相手に未払い金が残っていて、組織の人間がゼタ=ジョーンズに接近してきては「払わねばタダではおかない」と脅しに脅す。ダンナも裁判でフェラーが証言すれば刑務所送りだ。ダンナの友人デニス・クエイドはゼタ=ジョーンズに親しく相談に乗るものの、どうすることも出来ないと言うばかりだ。さぁ、進退きわまったゼタ=ジョーンズ。

 それからどうした?

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 

 

 ティファナ警察のデル・トロ刑事は、ある日トーマス・ミリアン将軍の頼みでサルマ・ハエックという女をある男の元に送り届けることになった。しかしその男とは、死んだと伝えられていたある麻薬組織の大ボスで、彼女はその愛人。将軍はティファナ・ルートの麻薬組織を叩きはし たが、実はもう一方の組織とツルんでいたのだ。その事実に愕然としながらも今更後には退けないと見て見ぬふりをするデル・トロ。でも相棒のヴァルガス刑事はそうじゃなかった。この情報を売れば金になると、ノコノコとよせばいいのにアメリカくんだりまで出向いて行ったのだ。デル・トロがそれに気づいた時には万事休す。案の定、将軍一派の者に捕まって、砂漠で始末されることになる。その場でヴァルガス刑事は泣きながらデル・トロは潔白であると訴えて、デル・トロには「恋人には公務で勇敢に死んだと言ってくれ」と言い残して殺された。こんなヤバい話にヴァルガスを引きずり込んだデル・トロには苦い思いが残る。相棒の死への責任と、結局のところ麻薬組織の片棒を担ぎながら黙っていた自分への不甲斐なさと。

 麻薬対策本部長のダグラスは、ついに娘の非行を知った。妻アーヴィングとのギスギスした関係も露わになっていったが、実は家庭の隙間風は元々吹いていたはず。それを知ってて見ぬ振りしていたダグラスなのだが、自分の責任とは思っていない。仕事仕事で家庭を顧みずに妻には「家庭は退屈だ」と暴言吐きながら、不出来な娘にも業を煮やして麻薬療養のリハビリ施設に放り込む。だが娘クリステンセンはそこから脱走して、麻薬の売人たちがウヨウヨの貧民街に潜り込み、カラダを売りながらの麻薬三昧に耽るんだね。

 最初は娘の非行にキレて麻薬撲滅に執念燃やしたダグラス、メキシコ側と組んで徹底的にやろうとトーマス・ミリアン将軍に声をかけたり、地元で手足となって働く人間をと水面下でデル・トロ刑事と接触したり張り切ってはいたものの、娘が行方不明になるに至ってはそんな高みの見物はもう許されない。自ら公務をうっちゃって例の貧民街をシラミつぶしに娘を捜し回る日々が続く。

 さてにっちもさっちもいかなくなったゼタ=ジョーンズも、もうきれい事を言ってるわけにいかなくなった。何とツテを頼って独力で殺し屋クリフトン・コリンズ・ジュニアを雇い、裁判の証人となるミゲル・フェラーを消そうと企む。こうなりゃ毒を食らわば皿まで。単身ティファナに乗り込んで麻薬組織と渡りをつけて、自分で今後の商売の段取りつけた。覚悟を決めた女は怖いよ。

 そんな事とは露知らずにゼタ=ジョーンズを「いい奥さん」と思いこんでるチードル刑事とガスマン刑事、裁判までフェラーをガッチリとガードしてるつもりだったが、ある日野外で殺し屋コリンズ・ジュニアに襲われてビビる。その殺し屋は先に裏切った報いで別の組織の人間に消されたから大事な証人フェラーは助かったものの、ガスマン刑事は車に仕掛けられていた爆弾であの世行き。しかも結局フェラーも毒入り食事で消されて裁判はパー。大ボスのバウアーが無罪放免とはチードル刑事憤懣やるかたないではないか。

 この物語の主人公たちに、人生の転機を決断する時がやってきた…。

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからは絶対に映画の後で!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

個人の戦いにこそ価値を見いだすソダーバーグの主張

 この作品はご存じの通り今年のアカデミー賞で、「エリン・ブロコビッチ」とのダブル・ノミネーションで話題をまいたスティーブン・ソダーバーグの新作。結果、こっちで受賞したのもご存じのことだろうね。ざっと書いただけでもこれだけの人物が右往左往する大人間模様。緻密なスティーブン・ギャガンの脚本とこれだけのドラマを見事さばいたソダーバーグの演出は、ある意味でロバート・アルトマンの「ナッシュビル」以来の快挙と言える。映像的にはザラザラと荒れた画質(16ミリ撮影か?)で黄色いフィルターをかけたティファナ場面、青く冷え冷えした画調のアメリカでのマイケル・ダグラスを中心とした場面、鮮やかなカラーで軟調のフィルターをかけたとおぼしきサンディエゴ場面の3種類の映像が交互に登場。くっきり映像で識別できる構成に、最初はまたまたソダーバーグが映像のスタイリストを気取ってのやり過ぎ手法かと勘ぐってはみたが、ずっと見ているうちに入り組んだ構成を観客に理解させるための必要不可欠な手段だったと合点がいった。それにティファナに関して言うと、ホントにあんなふうに見えるよあの土地は。

 それに三脚立てて撮ったシークエンスがたぶん一つもない。すべて手持ちの映像で、「エリン・ブロコビッチ」と同じ手法だね。リアルな迫真性を狙ってこれも見事に成功してる。

 そしてこの作品の主要登場人物の数には驚かされるが、そこに配役された豪華な俳優たちにも驚くよね。マイケル・ダグラス、ベニチオ・デル・トロあたりを筆頭に出てくる出てくる。例えばかつてのスピルバーグ夫人で、「ふたりだけの微笑」「コンペティション」などで爽やかな青春スターぶりを見せていたエイミー・アーヴィングが、すっかり女の年輪をその容貌に刻み込みながら久々に銀幕登場を果たしているあたりの泣かせる通好みキャスティングもチラホラ。同じような例を挙げれば「スカー・フェイス」あたりで上げ潮になり、いよいよ主演作「誘惑」でスターダム入りが期待されながらも同作の不振でめっきり出番がなくなったスティーブン・バウアー(涙)とか枚挙に暇がない。驚いたことにはメキシコの将軍役に懐かしのトーマス・ミリアンまで担ぎ出してくるんだから凝ってます。

 ソダーバーグって「セックスと嘘とビデオテープ」で出てきた時には、うまいけどちょっとピリピリとした神経症的な映画づくりをする人で、スタイリッシュな映像が売りって感じがした。続く「KAFKA/迷宮の悪夢」もその延長線上のイメージだったしね。ところが「アウト・オブ・サイト」ではスタイリッシュな映像はそのままなれど、意外にしたたかなストーリーテラーの片鱗を見せて「ややっ?」と目を見張らされたんだよね。この人って思ったよりスケール大きい映画作家なのかもと思わされた。

 「エリン・ブロコビッチ」では大スターのジュリア・ロバーツに気持ちよさそうに演じさせて、ハリウッドの王道にいっちゃったからまたまたビックリ。弱者が巨大な存在と戦って社会の不正を正すなんてアメリカ映画の十八番中の十八番じゃないか。でもちょっと気になったのは、全編手持ち映像で押し通して映像の凝り性ぶりをチラつかせたことかな。やっぱりただのハリウッドのウェルメイドな映画作家にはとどまらないぞという意志をどこか感じさせた。

 そこでこの新作だ。「エリン〜」はひょっとしてこの映画のための実験だったんじゃなかったかと今では思ってる。手持ち映像もそうだが、「エリン〜」もこれも、テーマとしては共通するものを持っているからだ。

 映画の終盤、マイケル・ダグラスは麻薬対策本部長としてホワイトハウスで就任記者会見を開く。だがダグラスは、ペーパーに書かれた形ばっかりで意味のない文句を、口にするのが苦痛になってくるんだね。こんなの本当じゃない!

 デル・トロ刑事も最後は自分の命を省みず、将軍をワナにかける証言をする。麻薬組織の争いや企みに巻き込まれて命を失ったヴァルガス刑事を思った時、どうしてわが身の保身など考えられるだろうか。そこには不本意にも招いてしまった同僚の死への憤りもあるが、それで目覚めた自らの「正しきを行いたい」気持ちもあったはずだ。

 だから「エリン〜」もこれも、社会の不正への個人個人の戦いということでは一貫してる。最初は警察なり政府なりという一員として戦っていた主人公たちが、最後にはそんなものとっぱらって個人として戦わなければならなくなる。そしてそこにこそソダーバーグは意味があると思っている。それは確かにひ弱でかすかな力にしかならないだろう。劇中で証人のミゲル・フェラーはドン・チードル刑事につぶやく。おまえのやってることは無駄だ。そして無駄と分かってやっているのはもっと悪い。…だが、本当にそうなんだろうか?

 実はこの作品、手持ちカメラのブン回しなどでリアルでザラついた感触を出してはいるが、後述する物語の結末の付け方なんか見ると意外に辛口ではない。まるで往年のフランク・キャプラ作品とまでは言わないまでも、アメリカ映画伝統の良質の理想主義みたいな部分がかい間見えてくるのだ。素朴、実直とも言えるような理想を求める視点こそが、あの一見斜に構えてそうなソダーバーグの意外な本音じゃないかと思えてくる。このへん意地悪く見れば“甘い”ということになっちゃうんだろうか。でも、僕はだからこそこの作品は素晴らしいと思えるんだよ。

 ダグラスは最後、娘クリステンセンを再び施設に送りながらも、今度は自分と妻も一緒になって励まそうと施設入りする。高いところから下々を見下ろすようにではなく、一番身近なところから麻薬と戦うことを決意したのだ。

 そう言えばデル・トロ刑事が最初アメリカ側に協力すると言った時、「見返りは金か?」と訊かれて答えたのは意外な言葉だった。「公園に照明をつけて欲しい」…夜でも公園が明るければそこで子供たちは野球や遊びが出来て、非行に走ることもないだろうから。

 この映画の本当のラストは、その照明に照らされた公園のグラウンドで、地元の人間たちと少年野球を楽しそうに見ているデル・トロの姿だ。僕はそれを見ていて、黒澤明の「生きる」で、命を賭けて小さい公園をつくった志村喬を思いだした。世の中を少しはマシにしていくのは社会だとか政治だとか、そんな人任せのものじゃない。身近で小さなところから始めなければ、何も始まらない。デル・トロが自らを賭けて手に入れたものがこのささやかな照明だったというオチは、ソダーバーグのこの思いが本物だということを伝えてる。

 グラウンドを照らす照明の淡い光こそ、人間の行く手をかすかなりとも灯す希望なのだから。

 

 

 

 

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