「リトル・ダンサー」

  Billy Elliot

 (2001/02/12)


自分の内に秘めた衝動には勝てない

 小学生の頃、僕は絵が好きだった。そのうち母親が近所に画家が住んでいることを知り、その画家が毎週自宅に子供たちを集めて開いていた「絵の塾」に通うことになったんだよ。

 それまでただ好きで夢中に描いていた絵だったんだけど、画家の先生の指導を得て他の子供たちと一緒に絵を描くようになってから、どうも自分は絵を描くのがうまいらしいと気がついた。それまでは漠然と漫画家にでもなりたいと思ってはいたが、そのための勉強など特にはしていなかった。第一、漫画家になりたいなどと言っても相手にされなかったろうしね。で、その延長で絵も好きだったけど、だからと言って何が何でもやりたいわけでもなかった。そういう事を言えるのは、すごく才能のある特殊な子だけなんだろう。家柄だっていいに違いない。上品で知的な家庭とかね。うちはとてもじゃないが、そんな家庭じゃない。だから、とりあえず…って気分で、親公認で好きなこと=絵を描くことを続けていったんだ。

 でも、何となくこれも小学校まで…という雰囲気が、親との暗黙の了解の中であったんだね。中学になったら勉強しなくちゃね。好きでも絵を職業にしたいなんて、夢にも思わなかったんだよ。こんなもので食えるわけがない。

 そのうち絵より漫画より好きなもの…映画と出会ってしまったこともあり、絵は小学校卒業とともにプッツリやめてしまった。今となってはちょっと惜しい気もするけど、僕はとにかく普通の子のようになりたかったんだ。小学生時代の大半を「変わった子」としてイジメぬかれただけに、もう人とは違った習い事をする変わった子と思われるのはたくさんだった。普通の子と同じように勉強して進学して、たぶん就職して…。

 大学4年の就職活動の時、僕は何になりたいかハッキリした希望は何もなかった。まぁ、ただサラリーマンになればいいやと思っていた。映画は大好きでよく見ていたし、自分でも8ミリ映画をつくっていたけど、それがモノになるなんて思ってもいなかった。実際ひどいシロモノだったし、あれは遊びだから楽しいんだよ。僕の撮影現場には厳しさがまるでなかった。それも大学生活を送っている間だけ。就職したら普通の人になって、普通に勤めて結婚して家庭を持って…それが自分のやりたい事かどうか分からなかったけど、そもそも世の中厳しいんだから自分のやりたい事なんかできっこないし、やる奴はバカなんだと言う親の言うことが正しく思えた。日本の映画産業の状況見てると別に映画の仕事に就きたいとも思えなかったし(もちろん映画の仕事に就くだけの能力なんてなかったよ)。

 だが、せめて何かモノづくりに携わることが出来たら…と思わなくもなかったが、それだって特殊な能力を持ってそういう運を持った、恵まれた環境の奴がなるもんだと思ってた。俺は平凡でいい。子供の頃から平凡で普通の奴になりたかったじゃないか。何とかかんとか普通の人間になれそうなんだ。バカな事はやらないに限る。俺は何が何でも普通の奴になるんだ。

 でも、普通になろうとすればするほど、平凡に振る舞おうとすればするほど、僕は周囲からはみ出していった。「妖怪人間ベム」ってアニメ知ってるかい? 普通の人間社会に溶け込みたいと願っているのに、どうしてもとけ込めずはじき出される悲しい妖怪人間たちの物語。僕は時折、自分を彼ら妖怪人間のように感じていた。でも、溶け込まなくては。平凡で目立たない人間になって、マトモに生きていかなくては。

 そんな僕の思惑は、5年も経たずに破綻した。自分を完全に殺せると思っていた、僕の考えは甘かったよ。やっぱり僕も、自分の内に秘めた衝動には勝てなかったんだよな。

 この「リトル・ダンサー」主人公の少年みたいに。

 

反対されても抑えきれないバレエへの思い

 1984年、イギリスの貧しい炭坑の町に、その少年ビリー・エリオット=ジェイミー・ベルは暮らしていた。折からサッチャー政権の厳しい経済政策の弊害か、この町の炭坑では長い間労働争議が続いていて、警官と労働者たちがにらみ合いっぱなし。時にそれが小競り合いになることもしばしばだった。ベル少年の家は父親ゲアリー・ルイスと兄ジェイミー・トラヴェンが炭坑夫だが、バリバリの労組員だからずっと仕事がない。おまけに母が最近亡くなって、それでなくても暗い家の中はさらにトゲトゲしく荒んでいた。そんな中、ボケが進んできたバアチャンの面倒を見なければならないベル少年は、そのやり場のない気持ちを外に発散できずにいた。おまけに父親ルイスは優秀なボクサーだったので、ベル少年もボクシングをやらされてはいたものの、どうもこっちの才能はからっきしないらしく、それも彼の憂鬱のタネだった。でも優秀なボクサーの息子ならボクシングがうまくならなくちゃ。炭坑夫の息子だったら、男らしく振る舞わなくては。

 そんなある日、バレエ教室をやる場所がなくなって、ボクシングの練習場の一角をそれに当てることになった。例によって居残り練習を命じられたベル少年は、練習場のカギをバレエの先生ジュリー・ウォルターズに渡すつもりが、ひょんな事からやりたくもないバレエ教室に無理やり参加させられるハメになった。やりたくもない?…さぁ、どうだったのだろう。ジュリー・ウォルターズ先生に強引に誘われるまま、ベル少年はボクシング教室をサボり、いつの間にかバレエ教室に深入りするハメになったのだ。

 ウォルターズ先生も何を思ったか、この飛び入り生徒のベルくんにえらく熱を入れて教えた。おらっ、もっと足をまっすぐ伸ばしてっ。イテテッ。そらっ、何してるだらしないぞっ。イタタッ、先生それ足は足でも僕の中足ですよってこいつら何やってるんだか(笑)。

 だけどベルくんも何だか気乗りしなかったボクシングと違って、なぜかこっちの練習は身が入る。気がつくと家でもいつの間にか秘かに練習してる。でも、こんな事してるとは親父のルイスにしか言えない。だって、バレエなんて男のするもんじゃないからね。この事を打ち明けられるのは、親友のスチュアート・ウェルズだけ。何となく日常に違和感を持っているような彼は、ベルくんのバレエ練習の話を聞いてもとがめたりしなかった。それどころか妙に親しみを増したみたいなのが不思議。チュチュを着けるのかなんて妙なことまで聞いてくる。でも、バレエったってチュチュは女の子の着けるもんだろ?

 ところがある日、そんなバレエ練習しているところをルイス親父に見つかってしまった。案の定怒られた怒られた。まるで「遠い空の向こうに」の炭坑親父とロケット息子状態だよ。バカ野郎、ロケットはまだそそり立っててぶっとくてピュッと飛んで男らしいぞ。それをおまえはバレエなんて女々しいものに凝りやがって。何が「そ〜れ」だ「日本チャチャチャ」だ…って父ちゃんそりゃバレーボールだよったって、親父まるっきり聞く耳なんか持ってない。何でダメなんだと聞いてみても、親父もそれに答える言葉がない。とにかくどうしてもダメなんだ! ベル少年、親父に殴られそうになったところを間一髪で逃げ出した。だけど、これでバレエ教室には行けなくなってしまったのは言うまでもない。

 それでも一旦バレエの味をしめてしまった気持ちは止まらない。一人空しく踊るベルくんだったが、いても立ってもいられウォルターズ先生の家に押しかけた。その熱意をくんでか、先生はレッスン料は受け取らずに個人レッスンしてやると申し出た。先生もこの子に、優秀なバレエダンサーの資質を見出していたのだ。

 先生はベルくんにオーディションを受けさせようと申し出た。オーディションって沖縄アクターズスクールでも行くの? あそこ出身のSPEEDは、リードボーカルの島袋がタチの悪い男とデキて解散。そういや島袋って引退して男と沖縄で土産物屋やるって言ってたのに、何でソロCD出して全国ツアーなんかやってるんだい? 安室だってダンナとうまくいってないみたいだしね。何言ってるのバカね、沖縄じゃなくってロンドンの有名なロイヤル・バレエ学校のオーディションよ。そこで受かれば奨学金だって出る。小さな町のしがないバレエ教師に甘んじている先生の、それは小さな希望の灯でもあったのだ。

 でも、それは見果てぬ夢なのか。状況が悪くなるにつれて労働組合の活動も過激になってきて、兄貴のトラヴェンが警察に捕まった。その身柄を引き取りに行ったおかげで、オーディションはフイになった。ウォルターズはたまらずベル少年の家にドナりこむが、言って聞くような男たちではない。もはや万事窮す。ベル少年も諦めた。

 そんな冬のある夜のこと、誰もいない練習場で親友ウェルズと共に遊んでいたベル少年は、自らを慰めるように踊る姿を親父ルイスに目撃されてしまった。見つかった! ええぃままよ。もういいや、どうせ怒られるなら思いっきり踊りまくってやれ。さぁ、ベル少年もうヤケクソのケツまくりで、一心不乱に自らの肉体フル稼働で踊りまくる。右へ左へ飛ぶ跳ねる踊る。練習場狭しと動きまくる。あんまり激しくて強烈で、衝動に突き動かされているようなベル少年の姿に、頑固なルイス親父も思わず圧倒された。こいつは理屈抜きだ!こんなに踊り見て熱くなったのは、温泉街場末のストリップ小屋でナマイタショー見た時以来だぜ。ただアッチの場合、理屈じゃくて別のもん抜いたけどな(笑)。ベル少年の踊りのあまりの熱さに、頑固な親父の心の殻も砕け散った。俺はなんてバカだったんだ。こいつを止めようったって無理だ。

 たまらずその場を立ち去った親父ルイスは、その足でウォルターズ宅に押しかけた。あいつをロイヤル・バレエ学校に行かせることは出来るのか?いくらかかるんだ? いくら頑固は頑固でも、納得して思い立って、動き出したらこのルイス親父は行動が早い。そしてその胸の内には秘めたるものが…。

 毎朝スト破りの労働者を乗せたバスが炭鉱へと入っていく時、警官隊には護られてはいるものの、バスは組合員労働者たちの激しい妨害と罵倒にさらされるのが恒例となっていた。当然、ベル少年の兄貴トラヴェンも張り切って罵声を飛ばして暴れていたが、バスの車内に目をやって愕然となった。…ウソだろ?親父がいる!?

 炭鉱に入ろうとする親父ルイスにトラヴェン思わずつかみかかった。なぜ?なぜ?なんでスト破りなんか? 苦渋の表情を見せる親父ルイスは、うめくように言葉を吐き出した。

 俺もおまえももう終わりだ。でもあいつには未来があるんだぞ!

 この瞬間、みんなの中で何かが変わった。最初はベル少年の心の中にひそかに起きた小さなきらめきが、今や友人や周囲の人々や父親を…いや一家全員を大きく変えようとしていたのだった。

 

「良心作」のイメージを一切捨てて見るべき

 この映画見た直後は久々に興奮したねぇ。とにかく、主役の男の子を演じるジェイミー・ベルって子には脱帽! いい子でも反抗的な子でもない、暗い子でもことさら快活でもない。では平凡なのかと言えば、これはこれで十分個性的。すっごく生きてる実感があって、誰もが自分を思わず重ね合せてしまう共感の持てる奴。そして何よりダンスの素晴しい躍動感! この子の存在そのものが奇跡みたい。最初に画面に登場した時からクギづけにさせられる。こりゃ10年に一度、20年に一度か知らないが、少なくともこの映画にとっては大変な逸材だよ。

 監督のスティーブン・ダルドリーって、実は映画はこれが初めての人なんだってね。それまでは演劇の人だった。だから、この作品がバレエを題材にしているにもかかわらず、何かお上品で澄ましてアカデミックな映画にはならずに、パワフルで若々しい活力をみなぎらせているのが意外だった。それとも舞台の人だったからこそ、逆にこうした活気溢れたものを映画では渇望したのだろうか。

 とにかくこの映画の見る前の印象と言ったら、劇中でベル少年がジュリー・ウォルターズ先生に「白鳥の湖」の物語を教えられて「うへっ、つまんなそ〜」とホザいたみたいに、何とも見る気が失せそうな雰囲気だった。炭鉱町の貧しい少年がなぜかバレエに目覚めて、逆境はね返してバレエダンサーをめざす…って聞けば、良心作で感動作で…何だか面白くなさそうで、思わずやっぱり「ギャラクシー・クエスト」にしようかな…となってしまいそう。でも、それは全くの間違いだ。

 まずこの映画、良心作だというイメージを頭から一切捨て去っていただきたい。

 僕がこの映画見ようと決心したのは、予告編で少年が飛んだり跳ねたりする姿に、あの今は亡きマーク・ボラン率いるT・レックスの曲が、ガンガンノリノリで流れていたから。こりゃタダもんじゃねえと感じた。で、実際見てみても、全編にわたってあのノリは生きている。うまくいえないけど、それはロック・ミュージックが持っているようなドライブ感とノリなのだ。決してこれは「ごリッパ」な映画なんかじゃない。

 冒頭、ベル少年が飛んだり跳ねたりするショットに音楽が重ねられているオープニング・クレジットの場面から、その躍動感はハッキリ出てる。ここで観客に強烈に焼き付けられるのは、この少年の内なる衝動としての体を動かす歓び、音楽に身をゆだねる歓び、心を解き放つ歓び…だ。そして、この肉体衝動への賛歌みたいなものが、この映画全編を貫いていく

 一転して少年の実際の暮らしは、貧しく厳しいものだった。ボケが進んで手がかかるばかりの祖母、まだ若くして亡くなった母親…。それ以来気持ちが荒んだか、長期ストで仕事もなく苦渋の表情に終始する父親、そして組合活動に熱を入れるあまりギスギスして苛立つ兄…。町全体も長期ストによって活気がなくなり、労働者たちの心は荒み、あたりには警官隊がウロウロして騒然とした雰囲気が漂っている。少年の周囲は草木も生えない不毛地帯みたいになっているんだね。でも、少年の心の中には自由な精神と可能性が生きている。それを一気に引き出してくれたのが、少年にとってはバレエだったというわけ。それは、少年の無味乾燥で味気ない現実をブチ壊してくれるからね。だが、彼がバレエをやりたいと言いだすことは、別の意味でいろいろな現実の手かせ足かせをブチ壊すことを意味していた。

 少年のバレエ宣言は、あらゆる既成の凝り固まったものをあぶり出すんだよ。優秀なボクサーの息子は当然ボクサーをめざさねばならない…という親父の身勝手な思い込み、炭鉱労働者の息子は強く男らしくならねばならない、バレエなんて男のやるもんじゃない…という決めつけ。でも、そんなものはまだまだ序の口だ。なぜなら彼らはもっといろいろなものに縛られているのだから。

 サッチャーの経済政策は弱者を一方的に切り捨てたものとの定評がある。そういう一人よがりの発想は、それ自体が柔軟性に欠けた硬直した考え方だろう。だが、労働組合の全く打開策を持たない妥協なき長期ストも、ある意味で硬直した考え方と言えるだろう。そして、労働者たちも一人ひとり立場が違えば考え方も違う。スト破りやむなしとする労働者だって出るかもしれない。それを一方的に裏切り者と無慈悲にかたずける組合の過激分子の言い分は、やはり独善と言われて仕方ないだろう。そして、反抗する炭鉱労働者たちを高圧的に、圧倒的な人海戦術の暴力で抑えつけようとする警官隊のやり方はさらに暴挙だ。

 バレエの先生の失業中の亭主は、事情をよく分かりもしないのに一方的に炭鉱労働者を批判する。炭鉱労働者の一家は、バレエの先生が何を言っても中産階級の戯言と聞く耳を持たない。主人公の少年の親友には女装を好む同性愛傾向があったのに、この保守的な炭鉱町ではそれを露わにすることもかなわない。

 こうあるべきだ、こうでなくてはいけない、こうでないことは許されない…みんなみんな既成概念やら決まり事や形骸化したタテマエやら、主義主張、イデオロギー、なんとかイズムに縛られている。いや、自ら進んでその虜になる。それに喜びさえ見い出そうとする。 そして「これが普通だ」「これが規範だ」「これが正しい」と決められたところで安住する。でも、人間が生ものであり、一人ひとりが別ものである限り、どうしてもそこからハミ出してくるものがあるのが本当ではないか。その時手垢のついた既存の考え方は、どれもこれも実は中味が空疎なシロモノでしかないんだね。それらすべてを、少年のただ「踊りたい!」の一念、理屈じゃないホンネが徐々に破壊していく。いや、雪解けのように静かに溶かしていくと言ったほうが適切かもしれない。本人にはそんな気がないんだけどね。

 それと言うのも、その「ホンネ」が彼の肉体の内部から理屈抜きで沸き上がってくる衝動みたいなものだからなんだろうね。思わずじっとしていられなくなる、体を揺すって動かしたくなる…それって、ロック・スピリットそのものじゃないか! この映画がどこかグングンと観客をノセていくロックのノリみたいなものを持っているのは、まさにここだ。理屈じゃないんだ。理屈は時に必要なものだけど、注意して使わないとえてして理屈のための理屈、中味が空洞化した理屈を生み出すことも多い。それは今までここでさんざ並べてきた、あのウンザリする既成概念やら主義主張しか引きずり出してこない。この映画がT・レックスのロック・ミュージックに彩られている理由はこれだ。ロックミュージックが本来持っていた原初の衝動みたいなものと、共通するものを持っているからなんだね。

 そして、それはパフォーミング・アートが共通して持っている美点だ。本来が舞台の人であるダルドリー監督は当然それを知っていたはず。だから熱気あふれるこの映画の疾走感や高揚感の表現は、演劇出身にしては見事…ではなく、むしろ演劇出身だからこそ見事であり、必然性があると言えるのかもしれない。またアカデミックなロイヤル・バレエ学校に代表される世界と、炭鉱労働者の住む世界の両極端をまたに駆けた発想も、イギリス人ならでは…とここは指摘しておくべきかも。

 だけどねぇ、実は自分の内面に沸き上がってくる衝動なんてものは、演芸や芸術だけに限ったことではないんだよね。それって分かりにくいけど、誰にでもあることだろ? だからここでは、人間が自分の内面に宿る声に耳を傾けた時、物事はもっと分かりやすく身のあるものになるのではないか…という一つのマジメな提言として考えるべきじゃないかな。

 少年の「踊りたい」衝動に家族たちみんなが真正面から向き合ったとき、初めてバラバラだった家族には大きな進むべき目標が出来た。その日を境に妙にみんなが生きいきしてくるあたりも嬉しいじゃないか。人間には生きる目的が必要なんだよね。

 だがこの映画、決して少年がロイヤル・バレエ学校に入学してハッピーというだけのサクセス・ストーリーじゃない。少年が入学を決めた一方で、彼の素質を最初に見い出し後押しをしたバレエの先生は、いつの間にか忘れ去られ役目を終えている。何と主人公でさえ、先生への報告を忘れているくらいだ。遅ればせの報告を受ける先生と少年のやりとりの冷え冷えとした様子は、この映画が単純な大甘映画でないことを如実に表わしているんだよ。ハッピーハッピーばかりじゃない、これが現実なのか。映画の終盤でこのエピソードは異様に辛いし、見る者の胸に大きな陰りとして残るんだね。そして何よりこれが、前述した少年と先生の会話に出てくる「白鳥の湖」の物語の、一見甘く美しいだけに思えながら実はどこか残酷なイメージとダブってくる

 だから、この映画の結末は「白鳥の湖」を踊る主人公の、成長した姿でなければならなかった。そこで「白鳥の湖」を踊る彼の胸中によぎるのは、果たして恩人である先生への思いか、ある種の贖罪の意識なのか。実際のスター・ダンサーであるというアダム・クーパーが、少年の成長した姿として登場するラスト・シークエンスには、戸惑った方もいたかもしれない。思わぬスター登場に喜んだバレエ・ファンはともかく、それまで好感度抜群だったジェイミー・ベル少年で終わってもよかったではないか?と思った方も多かったかも。でも、これは愉快な少年が頑張ってハッピー「よかったね」ってな映画じゃないんだよ。そこには厳しく残酷な現実も横たわっているのだから。何らかの犠牲もあるだろう。人が大人になっていく、生き延びていく、あるいは成功を勝ち取っていくうちには、きれいごとだけでは済まないこともある。それに自分の内なる衝動に身を委ねることが、必ずしもサクセス、ハッピーにつながるとは限らないからね。でも、だからこそ自分に正直であることが重要だ

 どうなるかは誰にだって分からない。それは「理屈」だ。だけど、こうしたい…って気持ちだけは誰にだって分かるだろ? それは「理屈」を超えている。ヘタに説明なんか出来ないからこそ、かえって信じる価値がある。だったらそれに耳を傾けてみてもいいんじゃないか?

 どんな事をしたって自分だけは騙せないのだから。

 

 

 

 

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