「ダンサー・イン・ザ・ダーク」

  Dancer in the Dark

 (2001/01/29)


「ダンサー・イン・ザ・ダーク」

 映画感想文執筆のための個人的メモ

<導入部に関するアイディア>

●A案:

 私は橋田寿賀子ドラマがキライ。母親は大好きなので食事中つき合わされることが多かったが、見ているのが苦痛だった。主人公が何も悪い事をしていないのに、理不尽にもいたぶられる物語のどこに喜びや楽しみを見出していいのか分からない。

 (*)ちまたの噂では「ダンサー〜」も見た後ウンザリさせられる後味の悪さだという。私が大好きなミュージカル仕立てのつくりになっていると聞いて、なおさらイヤになった。ネット上での激しい賛否両論の応酬もそんな気分に拍車をかけた。(**)

 21世紀早々イヤな気分になりたくなかった私は、実物に接するのがここまで遅くなった。

●B案:

 話題作になればなるほど、見る前に聞きたくない「前評判」を聞かされる。そのうち見る気が萎えてくる。劇場でこの「ダンサー〜」の開映を待っている時間に、後ろでベチャクチャ映画評論家まがいにしゃべるオバサンたちの知ったかぶり会話を聞かされるのにもウンザリさせられた。

 上記(*)から(**)部分をそのまま引用。

 きっと、このオバサンたちも、この後ネットに流れ込んで、もっとみんなをウンザリさせるのだろうか。

<内容>

 1960年代のアメリカの片田舎の町。チェコ移民のヒロイン(ビョーク)は目が悪く、いずれ盲目になることは分かっていた。息子(ブラディカ・コスティク)も遺伝で同じ運命と知り、工場勤めの貧しい生活の中から細々とお金を貯めて、息子の手術費をつくろうと焦る。そんな辛い現実の救いは、工場の同僚で彼女をかばうキャシー(カトリーヌ・ドヌーブ)。彼女の住む家の大家で、何かと親切に面倒をみてくれる警官(デビッド・モース)も、彼女に心を寄せる男(ピーター・ストーメア)も、みんな彼女に優しい。

 そして彼女が大好きなミュージカルが、辛い現実の中での彼女の支え。彼女はしばしば現実から逃れてミュージカルの夢の中に身を委ねるのだった。

 ところが、ある日彼女が貯めていた虎の子の大金が盗まれた。そして運命は、彼女に最悪の方向へと転がり落ちていくのだった。

 

 

 

<重要ポイント>

「ここからは映画観賞後に」

との筆者注をつけること。

 

 

 

<フィルムメイカーについて>

ラース・フォン・トリヤー監督は、出世作「エレメント・オブ・クライム」を見たとき、ユニークな映像感覚に驚かされた。その時はあくまでマイナーな映画づくりしかしないものとタカをくくっていたので、最近の「大家」ぶりにはビックリ

●いきなり大物ぶりを見せた「奇跡の海」では、すごいと思いながらもヒロインの落ち込むドツボぶりに辟易させられた。それに、ヒロインの「自己犠牲」精神にも。あの結論にはどうしても共感できない。

●テレビシリーズとしてつくられた「キングダム」(私は第1章〜第2章までしか見ていない。)は、独特なグロテスク趣味が面白かったが。こういう人に急に「自己犠牲」と言われてもねぇ。

変な純潔主義を映画作家に強要する「ドグマ」の提唱者であることも、私には共感しかねる点だ。

●おそらく大きな転換点となったであろう「ヨーロッパ」に秘密が隠されているのかもしれないが、この作品を未見のため、その件については何も言えない。

<撮影・演出手法について>

●構成としては、「奇跡の海」のヒロインをめぐる救いのないドキュメントタッチ映像と、本でいうところの各章の扉に相当するカットでの人工着色の美しい映像&ヒット曲使用を、そのまま現実プラス幻想という構図で踏襲したもの。「奇跡の海」でのヒット曲がミュージカルに変わって拡大した。

全編をデジタルビデオカメラで撮影。その手法と是非については後述。

●厳しい現実描写と幻想的ミュージカルシーンが交互に登場。前者を1台の手持ちビデオカメラで撮影。激しくブレるカメラワークとビデオからフィルムへの変換による荒れた粒子で、現実の殺伐とした雰囲気を出そうとする。後者はビデオカメラならではの利点を活かして撮影現場に何十台も設置し、おそらく一発撮りに近い状態でダンスの躍動感を出そうと試みた模様。したがってこちらはどのカメラも静止状態で、めまぐるしいカットの積み重ねで動きを表現。

●これらビデオカメラの多用の基本的アイディアは、ビデオ撮りによる「キングダム」から得たのだろう。

●人工的ミュージカル場面が出てくる大作「ダンサー〜」は「ドグマ」の規範からははずれるが、その映画づくりの考え方には「ドグマ」的ものがかなり流れ込んできているように思われる。

<手法についての私の主観>

●現実場面の殺伐さの表現にビデオ映像は適していても、ミュージカル場面にまで使用するのはいかがなものか。先に挙げた機動力という利点は分かるものの、粒子の粗さなどの映像の貧寒さはいかんともしがたい。

●ミュージカル場面の振り付けなどには心躍る場面も少なくはないだけに、少し残念。

●最終的にカラー・ワイド「映画」にしなければならなかった事そのものが、矛盾ではないのか?

<配役について>

●ビヨークは、元々のヒロイン像についてはともかく(この点も後述)、圧倒的な存在感で「この人しかいない」と思わせてしまう熱演ぶり。音楽までやるとなれば、本当にこの人しかいなかっただろう。

カトリーヌ・ドヌーブはいつもの冷たい女から百八十度違う役。近年のステレオ・タイプから脱した役柄で、かえって好感が持てて面白かった。この人の「シェルブールの雨傘」といったミュージカル作品のイメージまで背後にチラチラするあたり、巧みな配役だと言える。

デビッド・モース、ピーター・ストーメア、ジャン・マルク・バールなど男優陣も豪華。トリヤーご贔屓のウド・キアーまでさりげなく登場するのもご愛嬌。

●「キャバレー」での圧倒的な好演のあと、「レモ/第一の挑戦」ぐらいしか映画出演がなかった(なぜか?)ジョエル・グレイを引っぱり出し、ミュージカル場面に登場させたのはお手柄。

<ヒロイン像についての私の主観>

●純粋で無垢で罪のないヒロイン像をという考えで、少女的な演出を施されているのだろうが、時々このヒロインのあまりに愚かな振る舞いや要領の悪さにはイライラさせられる。

●修羅場の後におろおろするあまり、またぞろミュージカル場面に入ってしまうくだりでは、モタモタしているビョークに「早く逃げろ!」と言いたくなる(笑)。

●工場で働いている時の勤務態度も問題あり。目がほとんど見えないのに過労状態で機械をオペレーションするだけでなく、ミュージカルの夢想にふけるなどもっての他。私は彼女と一緒に働きたくない(笑)。

●狙いは分かるんだけれど、何かとミュージカルに逃げ込むという趣向が苛立ちを助長することは確か。

●裁判での彼女の態度も、やる気なさそうで何とかならなかったのかと思わせる。

●ビョークは明らかに「奇跡の海」のエミリー・ワトソンを継承したヒロイン像だが、この「自己犠牲」ぶりに共感出来ないのだ。ここまでいってしまうと、ある程度「自業自得」の印象を観客に与えかねない。これがトリヤー好みの女性像なのか。あるいは、トリヤーは女嫌いなのか。少々病的なものを感じる。

<テーマ、題材についての私の主観>

●ヒロインがチェコからの移民であること、彼女を破滅に追い込むのが国家の法の番人たる「警官」であること、その事の発端に消費文化の弊害が示唆されていること、さらに法廷でのナショナリズムに訴えた検察側の追求の仕方、さらにさらに彼女を最終的に破滅させるのがアメリカで(わが国でも)いまだ認められている死刑制度であること、新しい弁護士登場のくだりで「正義を行うにも金次第だ」と強調される点…などから、この映画の隠しテーマであるヨーロッパ人の「反アメリカ主義」がかなり露骨に感じられる点に鼻白む。

●法廷シーンの運びなども、昔の大映テレビ制作のドラマ、例えば「赤い〜」シリーズを彷彿とさせる無茶なもので、いささか苦しく感じた。

●さらに、このような純粋で罪もない点を強調されたヒロインを持ってきて、死刑制度反対メッセージをうたうのは、そのメッセージの是非はともかく少々ズルいやり方に思えてしまうし、映画そのものを矮小化させてしまっているような気がしてならない。ラストシーンに本当に「メッセージ」が画面に出てきたのには、本気でシラけた。

●以上のような露骨なメッセージがウケての、ヨーロッパでのカンヌ・パルムドール受賞かと思うとなおさら。「インデペンデント・デイ」みたいな一方的アメリカ賛歌も苦手だが、こうしたアンチの押しつけも困ったもの。この作品がヨーロッパ人によってつくられ、ヨーロッパで撮影されたアメリカの話という点も、その点を考えると複雑な気分になる。

●この隠れメッセージ映画を動かす「てこ」に、最もアメリカ的な「ミュージカル」を持ってきたことにも抵抗がある。ミュージカルをナメるなと言いたい。

<上記についてさらに話を進めると>

●ミュージカルとは、「生きる喜び」をうたいあげたものであって欲しいというのが、独断としての私の意見(これは身勝手な個人的意見であることは強調の必要あり)。この話が絶望的状況に陥りドン底で終わっていたとしても、どんな状況でも「生きる喜び」を持ち続けるヒロインを実感させ、そこにミュージカルが力を与えるならば奇跡的傑作になったのではないか。(例として「ペパーミント・キャンディー」を挙げる。)この段階では反アメリカ、反死刑制度のメッセージ宣伝映画の粋を出ていないと感じられてしまう。

●それでなくとも死滅状態だったミュージカル映画に、最後の一撃を加える役割しか果たさないような気がしてならない。こんな事出来ればやめて欲しかった。

<その他・気づいた点>

●オープニング、「ダンサー〜」の題名が出てくるショットで、そのタイトル文字の背後に、タイトル文字よりデカデカと立派な「ラース・フォン・トリヤー」の文字が立体的に出てきたのには笑った。インド・マサラムービー「ムトゥ・踊るマハラジャ」で、主演をつとめる向こうの大スター・ラジニカーントの名前が、「スーパースター」の称号付きでどど〜んとタイトル・ロゴみたいに出てきたことを思い出した(笑)。

●デビッド・モースが死んだ直後のミュージカル・シーンですっくと起きあがり、ビョークと歌ったり踊ったりするくだりには、「こいつゾンビか?」と笑ってしまった。モースの妻役カーラ・セイモアが、ビョークに向かって楽しげに「警察呼んだわよ〜」と歌うのもオカシイ。

●ゲスト出演のジョエル・グレイが久々にその勇姿を見せてくれたのはうれしいが、年齢のせいかあまり踊りを見せてくれないのは残念だ。

<備考ならびに注意事項>

●とはいえ、その強引とでも言うべき演出力に圧倒されることも事実。デジタルビデオ使用も、一つの試みや可能性の模索としてなら評価されるべき。

●これを見た観客が、ある人々はかなり感動して共感し、ある人々が激しく嫌悪するのは両方理解できる。

●この感想を書き上げる場合は、この両者に配慮して感情的な論評を出来る限り排した書き方にすることが望ましい。

<個人的な結論>

●見た後で、口直しに楽しい過去のMGMミュージカル映画のビデオあるいはDVDを用意しておくことを忠告したい。

 

 

 

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