「初恋のきた道」

  我的父親母親 (Road Home)

 (2001/01/22)


映画ファンの「踏み絵」

 映画ファン長くやってると、時々ウンザリしちゃうことあるよねぇ。それは、本当にみんな映画を見てるんだろうかという事。映画って人によって意見が事なるのは致しかたないとして、ひょっとして見る前から結論出しちゃってないか?と思えることが多すぎるんだよね。

 例えばそういう問題を論じるとき、映画ファンの踏み絵として、あの大ヒット作「タイタニック」があると思うんだよね。これがアカデミー賞何部門とったとか、世界中で何億ドル稼いだかとかは関係ない。それだけ多くの人が見たこの作品、実はこれくらい映画ファンから批判され冷笑され罵倒を浴びてる作品もないんじゃないか?

 僕がこの映画よく出来てると思うから「??」と感じるだけじゃない。決してヒイキで言ってるんじゃなくて、この映画が正当に批判されるならまだしも、「無視すべき」映画「唾棄」すべき映画でかたずけられるなんてオカシイと思えるのだ。そこに、何とも気持ち悪い映画ファン特有の歪んだ意識が存在するような気がしてならない。それは何か? ここで改めて「ザ・ビーチ」感想文の時のように検証してみよう(奇妙な偶然ながら、どちらもレオナルド・ディカプリオ主演作だ)。

●ヒット映画だからケナす

 自分は凡百の映画ファンとは違うのだという鼻持ちならない選民意識の産物。あるいは映画ファンとしての「こだわり」ありげなポーズを手っとり早く演出するための手段としてケナすってのは、一番ありがちな例かもしれない。早い話が自分にハクづけして、さも頭が良さそうに見せようという貧しい発想だ。例えば僕も確かにそうは思ってはいるが、ベルトルッチの「ラストエンペラー」はそれ以前の作品よりダメになったと言う人たちのうち一体どれだけの人が、本当に作家としての衰弱を感じて言っているのか。単に大作で大ヒットしたというだけで気に食わないんじゃないのか?

●ハリウッド製娯楽商業映画だからケナす

 明らかに商業目的で製作されるハリウッド映画より、一見作家主義のヨーロッパ映画、また創り手の真摯な姿勢がうかがえる(このへんもクセモノなのだが)他の国々の映画こそを、より高いレベルのものと見なす人たちがいる。しかしこうした人たちは、普通の劇場で上映される長編映画はほとんどが職業的映画人によって製作され、彼らはそれによって利益を得て生計を建てようとしていることを忘れている。およそ世界の映画作家、映画で身を立てようという人で、自分の作品の商業的成功を願わない人間はいない。これについては、日本古来から人々の心に巣くう「金儲け=悪」と見なす考え方、悪しき「清貧思想」とでも言うべきものが反映しているのは間違いない。

●ディカプリオ主演作だからケナす

 実際のところレオナルド・ディカプリオは、「この作品から」一般受けするメジャーなスターとして格を上げたという事実を無視。さらにスター=アイドル主演映画だから低俗であると見る前から決めてかかる硬直した発想がこれに拍車をかける。では、マイナー作品に多く顔を出すスティーブ・ブシェーミ出演作ならいいのか、例え「アルマゲドン」でも(笑)?

●高額予算をかけた作品だからケナす

 上記の「清貧思想」と一致。金がかかる映画なんて「悪」だという、一見誠実良心派的な意見。しかしこれは、素朴であること無垢であることを最上位に置いて、先進的であること文化的なこと西欧的なことをムチャクチャに混同して憎悪し、インテリや芸術家などをかたっぱしから虐殺したポル・ポト=クメール・ルージュの発想とほぼ同じ。さらに、高額予算の大作ではなくローコストの低予算作品であっても、映画の製作予算というものは一般人の金銭感覚からすれば破格なものだという事実を忘れている。映画を1本でもつくった時点で、もうそれは「清貧」などではないのだ。

●SFX=技術優先映画だからケナす

 これもポル・ポト発想と同様。「SFXを使用した映画=技術優先の人間不在映画」と決めつける。仮にドラマがない見世物映画だとして、それがなぜ悪いのか? 映画創世紀につくられた典型的「見世物映画」、あるいはジョルジュ・メリエスの幻想映画も悪なのか? あれは「まだ遅れた技術だからいい」などというなかれ。当時では最先端技術を駆使していたメリエスに失礼だ。彼が今日生きていれば、迷わずCGを導入するだろう。いや、何もそんな幻想映画を引き合いに出すことはない。「技術は悪」だというならば、レンズとフィルムとカメラを使用して撮影し、映写器やスピーカーで再生。そこに電気や光学や磁気、さらにケミカル技術を数多く使用する映画は、それだけで「悪の権化」なのである。

 

 さて、こうした上記の偏見や無知は全く持ち合わせず、完全に作品として劣っている、好みに合わないということで「タイタニック」を否定できてる人間は、この映画を批判する人間のうち何パーセント存在しているのだろう? 僕には極めて疑問だね。まして「良い」「悪い」の前に「見る価値がない」「無視すべきだ」とは一体いかなる発想から出てくるのか。見る前から勝手なイメージで決めつけてると言われても仕方ないのではないか。これは大変恥ずかしいことだ。ゆえに僕は「タイタニック」を映画ファンの踏み絵だと思っているのである。

 そしてあえて偏見を覚悟で言わせてもらえば、こうした傾向はどうしても「ミニシアター系映画」のファンに多く見られるように思われる。そうでない「ミニシアター系映画」ファンは極めてまれな存在だろう。僕が好きな作品が多く、高く評価もしているのに、繰り返しいわゆる「ミニシアター系映画」(このカテゴリー付けにも問題なしとは言えないが)に対して冷淡な態度をとっているのは、このような理由による。「ミニシアター系映画」という概念そのものが、日本の映画ファンにいい影響を与えていないように思えるからだ。

 そういう無意味な格付けや先入観から映画を開放することこそ、映画をより楽しく見ることになるのに。例えばケネス・ブラナーが自分のシェイクスピア映画でやろうとしている事はそういう事だよね。面白いのか面白くないのか、そこが最も重要なはずなのに。

 そういう意味で、ぜひご意見うかがいたい作品がここにある。それは、海外の映画祭での受賞経験数知れず、中国のもはや巨匠の域に達した映画作家、ミニシアター系映画のつくり手として圧倒的支持を誇るミスター・ミニシアター、チャン・イーモウ大先生(笑)の最新作「初恋のきた道」だ。

 

まだ若かりし日の母の初恋の伝説

 お話は現代、雪に閉ざされた故郷の寒村に向かって車を飛ばす「私」ことスン・ホンレイの独白で始まる。このちょっとダンカン似の主人公は、両親を田舎に残して都会で暮らしていた。だが、父親が急死。そこで葬式や一人残された老母の心配などもあって、故郷に帰ってくることになったのだ。

 さて、懐かしきわが家に着いたものの誰も迎えに出てこない。代わりに村長がやってきて言うことには、老母のことで困ったことになったらしいのだ。

 父親はこの村でずっと教師をやってきた。晩年はずっと老朽化した校舎の建て直しに奔走して、その疲れで倒れてこの世を去ってしまった。

 その父親は街の病院で死んだ。葬るためには村まで亡骸を運ばねばならないが、それにはトラクターで運んでも半日かかる距離だ。それなのに、老母は父親の遺体を昔ながらの風習よろしく、棺に入れて何人もで担いで、街から村までの長い長い道を歩いて運びたい…と言い出したのだ。この雪の中、人手もない寒村なのに多人数を費やして、延々歩いて運ぶなんて正気の沙汰じゃない。それでも、誰が何を言っても言うことを聞かない。うまく母親を説得してくれと頼まれたダンカン似のスン・ホンレイにしても、そんな昔の風習を守るなんてバカげてるという点では、村長と全く同じ意見なのだった。

 母親は、父親の死を嘆き悲しむあまり、彼がずっと教えていた学校の前に座りこんでいた。そんな母親を自宅まで連れ帰り、忍耐強く説得するダンカン似のスン・ホンレイだったが、その弔いのやり方については母親は一切妥協を拒むのだった。

 なぜなのだ? ガンコなババアだなとまでは思わなかったものの、さすがに説得に疲れたスン・ホンレイこと「私」の目に、壁に貼ってあった一枚の写真がとまる。それは、まだ新婚間もなかった頃の若々しい父母の姿。その写真を見つめながら、今も伝説として語り継がれるほどの父母の大恋愛の物語を、「私」はゆっくり思い出していった…。

 するといきなり恋に落ちていた。フィルムがカットされてた訳じゃないよ。過去の場面に入ったら、もういきなり恋する少女の顔になってたチャン・ツィイーちゃんだったのだ。ツィイーちゃんは先ほどのガンコババア…もとい、老母のン十年前の姿なんだね。今は村人が初めてこのひなびた村に来てくれた若い教師チョン・ハオを歓迎している真っ最中。で、その彼を見てツィイーちゃんは早くもポ〜ッとなっているの図である。始まってすぐにもう恋愛場面になっている。ムダがない、ムダがなさすぎる。アダルト・ビデオもつまんないAV女優のインタビューとかお部屋拝見とかヘタクソな芝居とか見せないで、このくらい単刀直入に本題に入ってもらいたいものだね。大体ビデオテープのムダなんだヨ、いつも早回ししちゃうんだから。

 さて、着込むと何だかコロコロしちゃうドテラみたいな服のツィイーちゃんが、トットコトットコとお家に急ぐ。彼女あわてて着替えるんだけど、さすがツィイーちゃんの母ちゃんは、盲目のくせにヨソイキに着替えたと見破るから座頭市並み心眼の持ち主。でも、俺の目にはどれもこれも単なるピンクのドテラにしか見えないねぇ。

 早速、村人総出で学校の校舎建築が始まった。当然、チョン・ハオ先生もその仲間に入る。女たちはこうした工事には関われず、遠巻きに見ているだけ。でも、働く男たちの食事をつくるという大事な仕事があった。

 当然、ツィイーちゃんもこれに参加。腕にヨリをかけて料理をつくる。でも、つくった料理は直接手渡すわけではないから、誰が食ったか分からない。

 また、建物の建て前の時に梁に飾る赤い布は、村で一番かわゆい娘が織るということになっているので、これには文句なしにツィイーちゃんが選ばれた。何せ「ELLE HONG KONG」の表紙も飾っちゃうんだぜ。こんな村ならどう考えても一番かわいい娘でしょう。

 で、せっかくその赤い布を織って先生に手渡そうとしたら、気をきかせたつもりか村の若い衆がノコノコ取りに来やがった。チッ、何であんたなんかに渡さなくちゃなんないのよ…かわいい顔してあからさまにイヤな顔のツィイーちゃん。意外と性格悪いことがバレました。でも、美人はお得です。まるで自分が歓迎されてない事に気付いてないこの若い衆から、昼飯時には先生は一番遠い場所にある丼を取ると聞き出したわけ。次の日から台の上に昼飯の丼を置くとき、ケッ邪魔なんだよてめえは…とか何とか言いながら、すでに置いてある丼を乱暴にどかしては自分の丼をチャッカリ置いているツィイーちゃんの、ちょっとかわいいとは言い切れない見苦しい姿があったとさ。

 さて、こうして出来上がった校舎で、早速授業が始まった。ツィイーちゃんは朗読するチョン・ハオ先生の声が聞きたくって、毎日毎日授業中の学校の横を歩いたりしてる。それが高じて、家が遠い子供たちの下校に付き添う先生をず〜っと待ち伏せて、来たら木陰から見つめるってなことを毎日繰り返す。ハッキリ言ってこりゃリッパなストーカーだよ。しまいにゃ先生のゴミ箱あさって、パリパリに乾いちゃったティッシュを広げてニオイ嗅ぎそうな勢い(笑)。読んでいらっしゃる方に念のため申し上げますが、これは「初恋のきた道」の感想文です(笑)。

 でも、最後にはツィイーちゃんもちょっと大胆になって、子供たちと歩いているチョン・ハオ先生と、道でわざとらしくすれ違ったりする。チョン・ハオ先生も気になって、一緒にいるガキに彼女の名前を聞いた。するとこいつ田舎の純朴な子供のはずが意外にナマイキなクソガキで、「先生が名前を聞きたいってさ〜」とかデカい声張り上げてオチョくる。照れ臭そうにニッコリ微笑んだツィイーちゃんだったが、実は内心このガキの五円ハゲ出来た絶壁アタマを思いっきり張り倒したいほど煮えくり返っていた。もっともこんなガキにハッキリ悟られるほど、ツィイーちゃんの作戦ミエミエだったってことなんだけどね。でも考えてみると、柔道の山下の嫁さんは彼女が銀座の和光に勤めている時に、お客として来た山下にイキナリ自分の晴れ着と水着(笑)の写真を手渡したそうな。また、かつて貴乃花が宮沢りえと婚約するに至ったイキサツは、彼女が貴乃花に初めて会った時に自分のヌード写真集渡した事に端を発しているとか。女のアタックは分かりやすいのがいいんだよ。男なんて鈍感だからね。

 水を汲む時も、わざわざ遠くの学校から見える井戸で水を汲む。すると、ツィイーちゃんを見つけたチョン・ハオ先生、いても立ってもいられず、柄杓を担いで水汲みに行こうと飛び出す。あっ先生が来た!と思ったより早く作戦が実を結んで喜ぶツィイー、すでに汲んでしまった桶の水をひっくり返して、先生が来るのをモジモジポーズで待つ。ところがま〜た登場しました、前にツィイーちゃんが赤い布持っていったらチャッカリ出てきたオジャマ虫の若い衆。今回も先生に水なんか汲ませちゃ申し訳ないと頑張っちゃって、まんまと柄杓を取り上げる。このボケが!と思いきりフテるツィイーちゃんだったが、この「あまりにも清冽な感動を呼ぶラブ・ストーリー」(チラシより)のなかでは、露骨にブンむくれポーズを見せる訳にもいかず、ただただひたすら「聖子困っちゃう」みたいな表情に終始するのみ。それでも実は見えないところで、この村の若い衆に中指立ててるツィイーちゃんだった(笑)。中足立ててるのは、そんな彼女見てるチョン・ハオ先生(涙)。

 さて、そんなもどかしい二人の間柄ではあったが、ここでググッとその距離が縮みそうなイベントがやってきた。今、先生は学校に寝泊りしていて、飯は毎日持ち回りで村のすべての家で食べさせてもらうことになっている。その当番が、いよいよツィイーちゃんの家に回ってきたのだ。張り切ったよ彼女。あったか田舎中華にカッカと火照る想いを込めて、その熱いことったら「ウーマン・オン・トップ」ペネロペ・クルスの「情熱のクッキング」どころの騒ぎじゃない。気合いが入って勝負パンツならぬ勝負中華だ!

 うまそうに食べるチョン・ハオ先生と、お相手する盲目母ちゃん。ツィイーちゃんはずっと厨房にいて会話は交さなかったが、その熱い視線を背中に感じて思わずウ〜ン感じちゃう〜。ついに黙ってられなくて、自分が料理に込めた想いをバンと先生に直接ぶつけた。ぐっと近づく二人の心。あとでアタシ自慢のきのこギョウザ食べに来てね。

 さぁ、先生ご出勤の後は、いきなりギョウザづくりが始まった。だが、それをさりげなく母ちゃんは止めた。あの人を好きになるのはおよし、街から来たインテリの先生とド田舎の無学なおまえじゃ、所詮は身分違いの恋。でも、オーバーヒートしたツィイーちゃんはもう言う事なんか聞きません。腕にヨリをかけてギョウザをつくりあげます。しかし、そこに突然先生がやってくる。何とどこで買ってきたのか、髪止めの飾りものをツィイーちゃんにくれた。嬉しいじゃないか。でも良かったのはそこまで。

 何と先生に、今すぐ街に帰れとの命令だって?

 それでも冬が来る12月8日までには帰ってくると約束した先生。でも村人たちは、先生が悪い事をした「右派」だとかヒソヒソとウワサしていた。

 それでも折角つくったんだからギョウザだけは食べて行くと約束したのに、よほどせっつかれたのか先生はすぐに出発してしまった。ツィイーちゃん、これは黙って行かせるわけにはいきません。何しろ勝負中華だから。勝負パンツ履いてった日は、男に見せなきゃ話にならない。それと同じで、勝負中華は食わせなきゃどうにもならない。きのこギョウザ食ってもらわなきゃ、自分がデカいきのこ食わせてもらえない(笑)。

 食わずに行かせるものかぁ〜〜〜〜〜〜!

 向こうは馬車で走っていくのを、ツィイーちゃん丼抱えて、走って走って、まだまだ走って、走りに走ってその想いのたけをブチまけるように突っ走って追いかける。まるで「誰かがあなたを愛してる」のチョウ・ユンファがニューヨークを走りに走る、男純情まっしぐらの名場面を連想させるツィイーちゃんの走りっぷりだ。

 でも、やっぱり力尽きた。思いっきり転んで丼が地面に落ちると、二人の間柄に決定的な打撃が加えられたようにバックリ割れた。それを見て、さすがのツィイーちゃんもこれ以上追うのは無理と悟った。

 だが、今度はチョン・ハオ先生からもらったばかり、命より大事な髪止めがなくなったのに気がついた。どこで落ちたか知らないが、何せ山道を走りに走った後。慌てて来た道をたどって見始めたけど、到底どこに落ちたのか分かりそうな距離ではない。

 先生が去った帰り道。ツィイーちゃんは割れた丼縛って手からブラ下げ、肩を落として下を見つめながら、トボトボトボトボ夕方の山道を歩いていった。その何とも寂しくもミジメな気分は誰しも経験あるんじゃないか。

 結局それから何日も山道を探したツィイーちゃんだったが、どう考えても見つかるわけなどない。もう、あの髪止めは見つからないのか、私たちの恋はどうにもならないのかなぁ〜。

 そんなある日、彼女は家の近くの地面に例の髪止めが落ちているのを発見したのだ! あった! 髪止めがあった! もうダメだなんて諦めなくてよかった!

 そう、決して諦めてはいけないのだ。どこまでも忍耐強く待った時、きっとあの先生を街から運んできた、そして今度は街へと連れ去った、長い長い道の彼方から二人の幸せはやってくるに違いない。この日から、先生との恋を成就させるための、ツィイーちゃんの「ロッキー」みたいな不屈の戦いが始まった。

 寒い寒い12月8日、帰ると言った先生を雪の中で一日待ったツィイーちゃん。しかし、真珠湾攻撃とかジョン・レノン暗殺とか、この12月8日って日は今までロクな事が起きたためしがない。予想通り先生は帰らず、ツィイーちゃんは高熱を発して寝込んだ。

 向こうが来れないならこっちから…ということか、前日ブッ倒れていまだ高熱のままのツィイーちゃん、無理を承知で吹雪の中を今度は街までトボトボ一人で歩いていった。ちっともオカシイ事じゃない。愛する人のためならば、高熱が出てようが足を痛めてようが何だろうが関係なく、何があっても駆けつけたいと思うものなのだ。あなたはご存じなかった?

 さぁ、果たしてツィイーちゃんの運命やいかに? そして二人の恋の行方は?

 

隠しテーマ=オレ流「タイタニック」

 大評判だった「あの子を探して」に続くチャン・イーモウの最新作は、新星美少女スターのチャン・ツィイーちゃんを前面にド〜ンと押し出しての純愛路線で、これまた大評判。こんな清らかな恋愛映画久しぶりと、みんな感涙にむせんで大ヒット。これがまた実によく出来てるんですわ。

 僕なんかこれは絶対泣きそうって警戒しちゃったよ。案の定、最初の頃にバアサンどうしても棺をかついで帰るって言って聞かないって話が出て、これからいかなる熱い愛の物語が展開するんだろうって、もうあのあたりから危なかった(笑)。力づくで脳味噌の中までかき回されんばかりに泣かされたらイヤだなと身構えちゃった。本編になったら泣かせは節度ある描写にとどまってたんで無事(笑)だったが、あれでイッちゃう人はイッちゃうだろうね。

 まず、この大成功のカギはヒロインの選択で決まり。チャン・ツィイーちゃんは、やっぱりカワイイよ。コン・リーと切れてこれからどうするチャン・イーモウって思ったけれど、ちゃんと後ガマ見つけてたんだねぇ。浅丘ルリ子と別れた石坂浩二も、しっかり次キープしてたもんな。しかも、美貌も年齢もぐっとリニューアル。やっぱタタミと何とかは…と言ったら、これ読んでる女性のみなさんはお怒りになるでしょうか?

 で、彼女が可愛さフル回転でうっとり撮られてるのがミソ。あのドテラみたいなチト鈍くさい衣装も、あれ着てコロコロした体型でトットコトットコ歩けば可愛く見えるという計算込みで演出されている。先生が食事しに自宅にやってくる場面でも、玄関に立ってモジモジはにかむ様子はいささかブリっ子的と言っていいくらい、やりすぎるほどやっている。これらも含め、先生を想って想って思い詰めるヒロインの姿は男性観客にとってはこたえられないだろうけど、一部の女性観客にとってはちょっとついて行けない領域までいっちゃってるんじゃないか。たかが一人の男ごときにそこまでなんてねぇ…てな感じのシラケも誘いかねないもんね。男はそりゃそこまでやってくれれば無条件に嬉しいけど、実際実人生ではそんな女にお目にかからないよねぇ(笑)。一部の女性観客がノレなさそうと思う理由は、ヒロインが恋する相手の実像や恋するまでのプロセスをバッサリ切り捨てていることにもあると思うんだけど、逆にそこをシッカリ見せちゃったら、なおさらここまで思い詰められるだけの価値ある男なんていないと再確認させられるだけかも(笑)。だから、一切出さないってのは演出上の選択から言うと正しかったんだろうな。でも女はシラケるかもしれないが男なら、時として女のためにそこまでやる事だってあるぜ。あぁ男って悲しいね(涙)。

 まぁそんな事も含めて、一種徹底的に純化した恋のメルヘンとしてつくり上げるために、チャン・イーモウは今回リアリズムかなぐり捨てて、なりふり構わず開き直ってやってる風な姿勢がチラチラ見えるんだよ。だから、今までと覚悟が違うような気がするんだよね。作家性全開で三大映画祭制覇!なんて頑張ってた彼とは、ちょっと違ったところにいるような気がする。だいたい見る前から、チャン・イーモウがこんな題材取り上げる意図が、今ひとつ見えなかったんだよね。

 作家的欲求やクリエイティブ意欲、そして作り手の思い入れ主体でつくってる映画とは思えないんだよ。もしそんな思い入れの部分があるとすれば、お手つき女優チャン・ツィイーをどう可愛くなめ回すように撮るかという男のイヤらしさ演出のみ(笑)。あと、例によって例のごとしの「文革許すまじ」の恨み節。今回はこんな可愛いツィイーちゃんを泣かせてるから、どう考えても中国共産党の分が悪い。だが、こうしたごくわずかにとどまる個人的思い入れの部分をのぞくと、今回はむしろ、どうだ俺はうまいだろ的な気合いの入り方が濃厚だ。

 そこで、「タイタニック」なんだよ。

 この映画と「タイタニック」の関連って、結構すでにあちこちで指摘されてるよね。それは、現在のお話が最初と最後にあって、本題である過去のお話をブックエンドみたいにはさんでる構成から言われてることなんだろう。その最初の方の現代シーンで、「私」が実家に帰ると部屋に「タイタニック」ポスターが貼ってあるところから、みんなハッと気づいたはずだ。

 で、これは確かに偶然やら単なる思いつきの域の問題ではないと、僕は見ているうちに確信したんだね。

 このへんを僕なりに整理してみると、他にもこんな点が指摘出来る。

●現在シーンから過去シーンへのタイムスリップの触媒として、“ピクチャー”(「タイタニック」ではヒロイン・ローズの“絵”、「初恋のきた道」では二人の新婚時の“写真”)が使われている点。

●ヒロインと相手の男性との間に身分の差がある点。ここで注目すべきは、「初恋〜」において二人の身分の差を示唆するのが、ヒロインの盲目の母親の台詞だけであるということ。その後この母親が身分の違いからヒロインの恋路を阻むというような描写などないのだから、この台詞はドラマ進行上ほとんど機能していないと言っていい。ただ観客に二人の間には身分の差があるということを再確認させて、設定を補強したに過ぎない。これは見た目では分かりづらい二人のポジショニングの差(文革当時の質素な中国では、外見上それほど違いが出ない)を、当時を知らない現代の若い中国人観客や外国人に対して分からせる意図があったと思われる。

誰でも指摘するだろうが、テーマ音楽の雰囲気が酷似する点。

 

 これが単なる当て推量でないことは、問題の「タイタニック」ポスターが貼ってある室内シーンの撮り方で明白だ。

 実家に着いたばかりの「私」を村長とその連れが訪ねてくる。二人を部屋に通した「私」の背後にまず問題の「タイタニック」ポスターが貼ってあるわけだが、実はこの家には他にサッカーのポスターだかカレンダーがあるだけで、それ以外の現代的な印刷物は一切貼ってない。

 しかも、「タイタニック」ポスターは実はもう一枚、部屋の反対側の壁にも貼ってあるのだ。だから村長側のショットにカメラが切り替わった時も、またこのポスターが写りこむというわけ。この意味がお分かりだろうか?

 この部屋は一人息子を都会に出した田舎の老夫婦の家にある。そこに「タイタニック」のポスターが一枚だけならまだしも、二枚も、それも同じ部屋の対面側に貼ってあるのだ。これがいかに不自然か考えていただきたい。映画美術というものは、ロケなどで偶然写りこむものは別として、すべて意味を持たせて用意されているものだ。監督は今までも中国の農村を息を飲むリアリズムで描き続けてきたチャン・イーモウ。それが、なぜこのような不自然なことをやったのか? 何がなんでも、アングルが切り替わった時でも、この「タイタニック」ポスターを観客に見せたいという意図があったからに違いない。チャン・イーモウは観客にハッキリと宣言しているのだ。これは俺なりの「タイタニック」なのだと。

 

ストーンズとビートルズが歩んだ道

 考えてみると、チャン・イーモウって決して一人で中国映画のトップランナーとして走ってきた訳じゃない。デビュー当時からつい最近まで、そこには常にチェン・カイコーという先行する存在がいた。それはまるで1960年代当時のビートルズとローリング・ストーンズみたいな好敵手だったわけ。しかも、チャン・イーモウって最初はチェン・カイコーの「黄色い大地」のカメラマンとして使われる立場だったんだよね。これってストーンズが最初はビートルズ=レノン&マッカートニーのつくった「彼氏になりたい」をカバーするところからレコーディング・キャリアを始めなければならなかった点に似てる。そして二人はいつしか成熟した巨匠となり、下からはイキのいい新人たちの追撃を受けるようになって、ほとんど同じコースをたどり始めた。すなわち作品への海外資本導入と、その商業的要請からの欧米映画指向・エンターテインメント大作指向だ。チェン“ビートルズ”カイコーの「さらば、わが愛/覇王別姫」以降の作品、チャン“ストーンズ”イーモウの「上海ルージュ」あたりは、明らかにその結果生まれてきた作品だろう。

 しかしその方向を行き着くとこまで行かせたチェン・カイコーの「始皇帝暗殺」は作品的にも興行的にも惨めな失敗に終わり、彼はそれ以降少なくとも現段階までは沈黙を強いられている。

 対するチャン・イーモウの「上海ルージュ」も一負地にまみれた訳ではないものの、決して満足いく仕上がりではなかった。また彼は、この作品を境に長年の公私にわたるパートナー、コン・リーと袂を分かっている。そうそう、余談ながら節目節目にメンバーチェンジや脱退を繰り返すのも、ストーンズのお家芸だったよね(笑)。

 ビートルズを失ったストーンズが取った手段は、原点回帰と同時に一種の開き直り。R&Bの原点に舞い戻ったように見えて、もうそれは初期に彼らが傾倒したマニアックなブルースまんまではありえない。どう見たってビッグ・エンターテインメント化されたストーンズ流のそれなのだ。

 チャン・イーモウは農村に帰った。「あの子を探して」は一見原点回帰の純朴農村映画。しかしドラマ・テクニックは格段に進歩して、終盤の泣かせどころにはフルスロットルでその演出力を発揮した。それはハリウッド・メジャー=コロンビア映画が思わず金を出したくなるほどの、強烈なエンターテインメント性を持っていた。

 そして、その強靭なエンターテイナーぶりを自ら再確認するための作品として用意されたのが、今回の「初恋のきた道」に違いない。

 すると、チャン・ツィイー=ミック・テイラーかロン・ウッドか(笑)?

 それはさておき(笑)、チャン・イーモウは分かったのだろう。欧米映画追随のエンターテインメント指向はやっても限界がある。俺なりのやり方があるはずだ。ジョージ・ハリソンやブライアン・ジョーンズの口車に乗って、インド音楽やモロッコ音楽の焼き直しやってる場合じゃなかったぜ(笑)。俺の流儀でやってこそ、それはうまくいく。

 さらに思い起こしてみれば、この人にはかつて「ハイ・ジャック/台湾海峡緊急指令」なる珍作もあったっけ。いくら諸般の事情があろうとも、主演にあのコン・リー持ってきてるくらいだ。まるっきりノラずにやったとは言わさねえぜ(笑)。この人にそんな隠しておきたい過去があったことは忘れてはならない。エンターテインメントとまるっきり無縁の純潔大作家ってわけじゃないんだよ。

 そこに「タイタニック」のメガヒットだ。「初恋のきた道」にこめられた「タイタニック」指向から想像するに、あの映画を見たチャン・イーモウはかなり興奮したのではないか。俺ならば…と大いに刺激されたはずだ。そこには触発こそあれ決して黙殺や無視や侮蔑などあろうはずがない。

 「初恋のきた道」はチャン・イーモウからジェームズ・キャメロンに叩き付けた挑戦状だったとは言えないか?

 ビートルズなき後ひとりで道を切り開かねばならなかったストーンズは、しかしその長いキャリアにも関わらず、決して横綱相撲などしなかった。パンク・ムーブメントにもディスコ・ブームにもヒップホップにも敏感に反応した。すでに確固たる地位を築いたはずの彼らがなぜ?と思うなかれ。彼らは常に自らを最前線=現役に位置付けていた。

 そう。「初恋のきた道」は映画監督チャン・イーモウが、ハリウッド最前線のヒットメイカーともサシでやりあう覚悟を示した現役=プロフェショナル宣言だったのだ。ここまで見てくれば、そう考えるのが自然だろう?

 あなたはこれでも「タイタニック」を無視すべき作品と言い切れるか?

 

 

 

 

 to : Review 2001

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME