「太白山脈」

  The Taebaek Mountains

 (2000/11/13)


井戸水って飲んだことあるかい?

 僕の母方の田舎は栃木にある。子供時代の僕は、春と夏の休みの時期にしょっちゅう遊びに行ったものだ。

 当時、僕の母の実家はまだ藁葺き屋根の典型的農家で、そこで豆腐をつくて生計を建てていた。上下水道はまだ完備されていなかったので、便所と言えば表の掘っ建て小屋。薄気味悪い上に臭いときて、夜中などは怖くて行けなかった。だから、と言うわけでもないが、子供時代の僕はよく寝小便をしては叱られていたものだ。

 当然、飲み水をはじめ生活用水は井戸水に頼っていた。でも、これがよかったんだな。

 井戸水を利用したことがある者なら知っているだろう。井戸水は夏は冷たくてうまい。冷房なんかなくても、これを体にぶっかければ火照りは冷める。そして冬はなぜか暖かい。朝目覚めの洗顔がつらくなかったよね。井戸水ってのは人に優しい生活水だったのだ。

 何で井戸水は夏冷たくて冬暖かいのか。電気仕掛けでもないくせに、何でこんなに人に心地よい水なのか。それは地面の奥深くを流れていて、気温の変化と関係なしにいられるからだ。地表を流れている水は暑くなれば一緒に暖まってしまう。寒くなればこれまた一緒に冷たくなってしまう。地下水はそんな地表の変化とは無縁に、ただ整然と流れているだけだ。何と合理的な自然の営みだろう。

 母の実家が家を新築した時、かつての井戸を捨てて新たな井戸を掘ったけれど、そこは水脈が悪かったのか、もうあのうまい水ではなかった。金属臭がひどく、飲むに耐えない水。いつか上下水道が完備してこの井戸も捨てられたが、あの最初の井戸水のうまさはいつまでも忘れられなかったな。

 

右翼左翼入り乱れる時代の朝鮮半島

 1945年8月、第二次大戦終結後、日本の支配から解放され平和に戻れるはずだった朝鮮半島は、今度は米ソ冷戦のあおりをくって右翼と左翼の対決の場となってしまった。この映画の舞台である田舎の小さな町・順天(スンチョン)も、その例外ではなかった。

 地元左翼リーダーのキム・ミョンゴンらが率いる左翼軍が町を掌握。彼らは意気揚々と町に進駐し、人民裁判を行って反動分子を処刑したりしていたが、三日天下よろしくすぐに旗色が悪くなり、政府軍に押されて山に引きこもることになってしまった。やっと帰ってきたと思ったらすぐにまた去るはめになった左翼軍の妻たち、キム・ミョンゴンの妻チョン・キョンスンも不満たらたら。しかし彼らは身を切られるような思いの中、敗走していく。

 代わって町を掌握した右翼勢力。中央政府から派遣された討伐隊の連中が羽振りをきかせてやりたい放題。今度は右翼の番とでも言うように反逆者への処刑が連日行われるが、その大半は罪状に関係なく個人的な恨みやねたみばかり。人心はますます荒廃していく。

 何と左翼リーダー・キム・ミョンゴンの弟キム・ガプスは青年団長としてこれに徹底的に協力して威張り散らすが、この男にちゃんとした政治信条がある訳ではない。ただただ子供時代から差をつけられイヤな思いをしてきた兄に対する反発から右翼についた男なのだ。勢い余って左翼メンバーの妻パン・ウンジンを犯してねんごろになるが、無力な彼女にはどうすることも出来ず、愛人まがいにさせられても耐えるのみだった。

 また、金持ちの坊ちゃんシン・ヒュンジュンは、ひょんなことから幼なじみの巫女オ・ジョンヘに匿われ、いつしか二人の間には愛が生まれる。

 こんなドタバタを見つめる地元中学校教師アン・ソンギは、右翼左翼のどちらにも組みしない男。だからこんな状況を憂慮せずにはいられない。中央から来た左翼討伐隊員につい意見をするものの、それが仇で闇討ちにあってしまう。町には右翼自警団といいつつ単なるゴロツキがのさばり、警察や軍もそれを黙認するという最悪の状況になっていたのだ。しかし、そんな彼も良心的に振るまい発言できるのは、自らが地元名士の大地主の息子であるおかげだ。

 ある日、町に忍び込んだ左翼メンバーが撃たれ、地元病院院長イ・ホジェはこれを人道的見地からひそかに助ける。やがて左翼リーダーのキム・ミョンゴンが助け出しにやってくるが、彼はこの院長に礼を言いつつも、かつて政府側の警官を助けたとなじって立場をハッキリしろと迫る。あげく、たまたま通りかかって彼らを目撃してしまった罪もない男を殺害する。平等で理想的な社会をつくると明言するこの男にしてこれなのだ。右翼も左翼も目クソ鼻クソのたぐいに他ならない。

 やがて土地改革法がおざなりな形とはいえ成立すると、小作人に土地を開放し、地主の独占的な利権を分配するというのが売りの左翼の主張はいやがうえにも色褪せていく。今までの協力者たちもどんどん裏切っていく。山に籠もった左翼ゲリラたちの暮らしは、さらにジリ貧で困窮したものとなっていった。勢い左翼たちの志気も低下。なぜ北朝鮮は何もしないのだとの不満まで囁かれるようになった。

 ところが1950年6月、北朝鮮軍が38度線を突破して朝鮮戦争が勃発。破竹の勢いで進軍し、またしても順天の町は左翼の支配下となった。やっと自分たちの理想が実現すると喜び勇んでいたキム・ミョンゴンの前に現れた北朝鮮からの派遣軍たちは、同士であるはずの彼らにも隷属と服従を強いた。屈辱に身もだえる左翼たち。そして今度はアン・ソンギも捕まり、思想的な弾圧を受けるありさまだ。

 青年団長キム・ガプスに犯され愛人にさせられていた左翼メンバーの妻パン・ウンジンは、北朝鮮軍の進駐を待たずして自害していた。その夫は巫女オ・ジョンヘに成仏させるための弔いの儀式を頼むのだが、共産主義政権下では宗教的儀式は許されていないと一蹴される。

 しかし、反対を押し切って儀式を執り行うオ・ジョンヘ。奇しくも北朝鮮軍は再び敗退を始め、北朝鮮軍と左翼たちは再び町を捨てて後退することとなり町は騒然としていた。敗退の前にドサクサまぎれの粛正も行われる中、弔いの儀式は整然と執り行われていくのだった…。

 

大作ならではのハンディに立ち向かうイム・グォンテク

 韓国の巨匠監督イム・グォンテクの、これは大ヒット作「風の丘を越えて/西便制」に次いで発表した大作。舞台となる順天の町の中心部をまるごとセットで建設したとおぼしき、力のこもった作品だ。

 しかも、この左翼・右翼入り乱れる人間模様の戦争大作、あくまでひとつの町の変遷に焦点を合わせて、何とか時代という得体のしれない巨大なものを描ききろうと意図したふしもうかがえる。

 だが、出来上がったこの作品、何だか似たような手応えの作品を見たことがあるな…と思いきや…あったあった。たぶん、あれだ。昔テレビで見た日本映画の大作「戦争と人間」三部作だ。

 オールスター総出演でお話も日本、中国大陸、朝鮮半島、ロシア国境あたりまで広がるこの日本映画の三部作。そういった意味では大規模でグランド・ロマン的な構成で、一つの町にお話を集中させたこの映画の作り方とはチト違う。でも、何となく肌触りが似ているんだよね。

 でかい時代の流れを描ききるには何時間でも足りない。この「太白山脈」は2時間45分、「戦争と人間」も確か3時間近い作品の3部構成。だけど、それでも舌足らずになって、歴史上の大事件などは字幕を出して見せようとするんだけど、それじゃどうしてもピンと来ないんだよね。これ、僕が外国人だからだと言い切れない面があると思うよ。

 それと多くの人間がゴチャゴチャしてきて、一人ひとりの持ち時間も限られてくるから、どうしてもキャラクター・スタディーに時間が割けず、ステレオ・タイプな人物配置になりがち。描き方も単純化させてしまうしかない。それでも単に大作ドラマとして見ればそれなりの面白さはあるから飽きずに見ちゃうけどね。そういう意味では「戦争と人間」の山本薩夫もこのイム・グォンテクも語り口の名手だからとにかく最後まで見せきってしまう。でも、イム監督の他の諸作品と比べると、人間洞察の掘り下げ方に荒さが出てきてしまうのは致し方ないのかな。きめの細かさが足りないのだ。それとも、それを言ってはいけない作品なんだろうか。

 しかし共産党員の山本薩夫がガチガチの左翼イズムで撮ったプロパガンダ臭も濃厚な「戦争と人間」は、悪いのは軍部と政治家とブルジョワで、可哀想なのは踏みつけられる日本の貧しき人々と中国・朝鮮人民、正義の味方は共産主義者という、あまりと言えばあんまりに幼稚なマンガふう類型描写に終始している。それに比べればイム監督の視点は全くフェアだ。ある山間部の寒村が最初左翼ゲリラに若い者を兵力としてとられ、次に政府軍が来た時に密告によって粛正が行われ、さらに再び左翼ゲリラによって粛正の粛正が行われ、どんどん荒廃していくという描写に明らかなように、右翼左翼といったイデオロギーによって人間が右往左往させられることの愚かさをキチンと描ききっているあたり、こちらの視点がしたたかなまでに大人だと思い知らされる。これ、当たり前のことなんだけどね。

 そういう意味ではどんな時もどちらに組みすることなく、ただ静かに見つめるアン・ソンギにこそ、監督の理想の人物像が重ねられているようにも見受けられる。自分のところの小作人に土地解放について尋ねられ、右翼側左翼側その双方の矛盾をよどみなく答えるセリフには、問題の根本が明快に提示されている。だがそのアン・ソンギにしたって、政府軍の司令官に「なぜこの地域に左翼がはびこるのか?」という問いに対し「地主と小作人の豊かさの極端なアンバランスさが原因だ」と鮮やかに喝破するものの、完全に潔白な人間ではない。その席に並べられた大量の贅沢な料理や酒をじっくり映し出すことで、彼の存在そのものの矛盾がハッキリと指摘されている。富める時には持ちたがる、貧しき時には平等を望む、伸びていく時には競争が必要だ、理想を実現する時には現実的な戦略がいる。そう、人間とは矛盾した生き物なのだ

 自らも職人監督として作品を粗製濫造する中で反共宣伝の戦争映画とかもつくってきて、何よりそんな時代を押しつぶされずに生きのびてきたイム・グォンテクには、そんな矛盾は分かりすぎるほど分かっているのだろう。だから、どれが善だなんてとても言えないのだ。

 物語の重要な位置に、対立勢力に属していがみ合う兄弟のキム・ミョンゴンとキム・ガプスを配しているのも、とっても分かりやすい構図だろう。その対立の根に、実は思想対立ではなく単純といえばあまりに単純な感情的しこりしかないというのは、誰でも分かる象徴的な比喩だ。

 そういう意味でのイム監督の回答は、最後に巫女によって執り行われる弔いにすべてが込められているのだろう。お葬式という民族的儀式に人間模様を重ねた「祝祭」、民族的古典物語を本来のパンソリで描ききった最新作である新バージョン「春香伝」、そして何より古典芸能に生きる芸人一家を見つめた大ヒット作「風の丘を越えて/西便制」と、民族的ルーツを追ってきた彼は、そこにこそ真の解決方法を見出そうとしているのかもしれない。その「風の丘を越えて/西便制」でパンソリを歌いきったヒロイン、オ・ジョンヘを巫女役に起用している点からも、その狙いは明らかだろう。右翼も左翼もない。同じ民族ではないか。

 しかし、ここでも残念ながら大作の弊害として、体の隅々にまで血が回りかねている小回りのきかなさのような、見る側の気持ちがそこまで到達し切れないうらみが残る。最後にチョコチョコっと儀式が執り行われ、アン・ソンギがベラベラとメッセージを述べる。「人の命があまりに軽く扱われるこんな時に、死んだ人を大事に扱おうとするのを見ると、心強く思える」うんぬん…。それは分かるんだ、でもそれをセリフでベラベラと全部聞かせるんじゃなくて、見せて納得させてくれるのが映画だろう? この作品では、そうした大作ならではのハンディキャップに、あえてイム・グォンテク監督が終始立ち向かっているような悲壮感すら感じられるんだよね。

 

 井戸水はいいね。暑いときにも冷たく、寒いときにも暖かい。それはその都度変わっているんじゃないんだ。変わらない。周囲の変化にも常に不動でいるってことだ。ちゃんと地下水は地下水のままでいるって確固たるものがあるってことだ。

 もう一度、井戸水を飲んでみるところから始められないか?

 

 

 

 

 DAY FOR NIGHT Korean Restaurant

  

 to : Review 2000

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME