「恋の骨折り損」

  Love's Labour's Lost

 (2000/12/25)


ケネス・ブラナーが好き

 まず手っとり早く言うと、僕はシェイクスピア劇で若き天才と騒がれ、いまや映画界でも旋風を巻き起こしているケネス・ブラナーが大好きだ。だが、僕はここで彼のシェイクスピア解釈の素晴らしさなど論じる資格のない男。シェイクスピアの作品すべてを読んでいるわけではないし、まして演劇など見てもいない。だから当然、ブラナーの本来の活躍の場である、舞台での彼など見たこともないのだ。それでケネス・ブラナー論をぶてと言っても無理な相談だろう。

 だが、映画での彼ならちょっとは語れる。確かに「ひと月の夏」「ハイシーズン」などに俳優として出演した彼は、映画は見てるけど覚えていない。監督として映画界に衝撃的な登場をした「ヘンリー五世」もリアルタイムには見ていない。でも、その成功でハリウッドに招かれて、当時の妻エマ・トンプソンと共演して撮った「愛と死の間で」は見に行った。こっちは「第二のオリビエ」と聞いていたから、何でそんな人物がもろヒッチコックの「めまい」丸だしのロマンティック・サスペンスを撮ったのか、ビックリするとともに好感持ったね。このイギリスの天才は、僕らと同じように…いや、ひょっとすると僕ら以上にハリウッド映画が好きみたいで、実に楽しそうに演じ撮っていた。その前が何しろ「ヘンリー五世」で、せいぜいミニシアターどまりの人だろうと思ってただけに、なおさらうれしかったね。

 その後に日本に来た「から騒ぎ」ですっかり圧倒された。冒頭、エマ・トンプソン朗読する詩のフレーズが、そのままスクリーンにモダンな書体でつづられていって、こりゃまるでスパイク・リーの「ジャングル・フィーバー」で、スティービー・ワンダーの主題歌の歌詞がスクリーンに字として出てきたみたいだな…みたいに思ってたら、まるで西部劇みたいに馬に乗った男たちが現れて、それからの恋のさやあてやらサスペンスの趣向やら、アチャラカなコメディの見せ場やら。こりゃ誰が何て言ったって娯楽映画じゃないか! そもそもハリウッドからキアヌ・リーブス、デンゼル・ワシントンから何とマイケル・キートンまで引っ張ってきてるのがすごいじゃないか。こんなメンツでシェイクスピアやろうなんて心意気がうれしい。彼はシェイクスピア劇を一部の知識人の独占物にはしたくないんだね。

 順番は前後したが、この後で日本に来た「ピーターズ・フレンズ」は何とイギリス版「再会の時」というか「セコーカス・セブン」みたいな同窓会もの。ローレンス・カスダンやジョン・セイルズ同様に、彼も登場人物たちの青春を彩ったなつメロをガンガン流して、ホロ苦くも暖かい結末を用意してくれた。これを見て、彼も自分と同世代で、同じようなこと考えてるんだという何とも言えない親近感を感じたね。

 その後は「世にも憂鬱なハムレットたち」とか撮るかたわら、ハリウッドで「フランケンシュタイン」を監督主演したりして、相変わらずのミーハーぶりを発揮。そして万を持して放った決定版「ハムレット」は5時間の大作で、これまたジャック・レモンからビリー・クリスタルまで豪華絢爛スターを配して堂々たる演出ぶり。「タイタニック」で意気上がる旬の女優ケイト・ウィンスレットまで連れてくるんだから、このミーハーぶりは本物。だが、映画そのものは直球ストレートってとこがまた男気感じるねぇ。豪華オールスターの中でも最も輝いていたのが役者として登場するチャールトン・ヘストンで、彼の堂々たる口跡を聞いていると「ベン・ハー」「十戒」などでハリウッド・スペクタクル史劇仕切ってたころのヘストンが思い出されて、久々に胸が熱くなった。まったくブラナーときたら、オールド・ハリウッド映画ファンのツボを刺激してくれるぜ

 他流試合でも「オセロ」で面白シェイクスピア映画をやるぞと嗅ぎ付けると、人の映画とは思えないくらい熱を込めて大胆に演じきる

 そしてハリウッド十八番の法廷もの、ロバート・アルトマン監督(!)のジョン・グリシャム原作(!!)もの「相続人」にも出ちゃう。ウディ・アレンの「セレブリティ」にも、今をときめくレオナルド・ディカプリオらと、本物のアレン以上にウディ・アレンして出ちゃう。極め付きが「ワイルド・ワイルド・ウエスト」で、このバカバカしい西部劇コメディの登場人物の中で、一番バカバカしい悪役を一番楽しそうに演じきってた。最高だよこの男!

 何だかこの人、世代的にも近いし趣味的にも合うし、男としては一緒に酒飲んでも楽しそうな男なんだよね。新橋でヤキトリでもつまみながら話してみたいな、何でエマ・トンプソンと別れたの?お似合いだと思ってたのに。

 そんなブラナーの新作シェイクスピア映画がミュージカル仕立てだと聞いたら、そりゃ見るしかないでしょう見るしか!

 

出来もしない誓いを立てたばっかりに

 第二次大戦の戦乱が迫る1939年のヨーロッパ、フランス近隣の小さな王国ナヴァールの若き国王アレッサンドロ・ニヴォラは、殺伐とした世相にあえて背を向けて、向こう3年間は学問に没頭すると宣言。国王の親友3人も行動を共にすることになった。

 何せ学問に打ち込むためには女はジャマ…とばかり、この3年間は完全に女絶ち。さらに毎週1度は断食するだの、睡眠時間は毎日3時間だけだの…細かい規則をゴチャゴチャ並べた誓約書にサインさせる周到さ。快楽は敵だと言うわけ。国王とその親友たちのうちマシュー・リラード、エイドリアン・レスターの2人は即サインしたものの、やはり親友のケネス・ブラナーは一人サインをシブッていた。現実主義者にして快楽主義者、ユーモリストにして皮肉屋のブラナーには、こんなもの絵に描いたモチってことがよ〜く分かってた。しかしそこは国王の親友。こんな誓いどうせ守れっこないから、誰かが破った時に俺が高笑いしてやるよ…と、ああだこうだグチグチ言いながらもサインした。でも、そんな誓いを立てたそばから歌ったり踊ったりしてる4人だから、この禁欲主義の行方もハナっから知れたものだけど。

 実際、ブラナーの強気には根拠があった。この日、フランス王女ご一行がここナヴァールに到着することになっていたのだった。しまった、すっかりそれを忘れてた。領地のことや借金のことで、病床の国王に代わって話をするためにやってくるんだった。でも、女絶ち宣言で王宮は女人禁制と言ってしまった以上入れられない。さぁどうしよう?

 その頃、フランス王女アリシア・シルバーストーンは、お付きの美女たちナターシャ・マケルホーン、カルメン・イジョゴ、エミリー・モーティマー、さらに従者リチャード・クリフォードを従えて、ナヴァールの城門の間近まで来ていた。ここでも話題は例の女絶ち。やり通せるものやらとさんざ笑っていても、そこは若いお嬢さん方のこと関心はニヴォラ国王以下のハンサムな男性陣。そんな4人の女性たちを見ながら、これまた事の成り行きが楽しみな従者クリフォードではあった。

 果たして王女ご一行が城門の前まで来ると、ニヴォラ国王たちが一斉にお出迎え。丁重に応対させていただきますが、女人禁制ゆえ宿泊は庭に張った大テントにてどうぞ…と言うニヴォラ国王を、シルバーストーン王女はさりげなくオチョクった。てんで形無しの男性陣だが、案の定そんな4人の女性たちに早くもゾッコンの気配。ニヴォラ国王はもちろんシルバーストーン王女に、リラードはイジョゴに、レスターはモーティマーに、そして屈折知的おフザケ男のブラナーは知性派美女マケルホーンに…と、いつ誰が誓いを破ってもおかしくないフライング寸前状態。従者クリフォードに入れ替わり立ち替わりあれこれ探りを入れるだけでなく、王女一行の到着記念写真のお好みの女性の部分を各自切り抜き、それぞれオカズにするんだか何だか持っていっちゃうから、王宮もティッシュがなくなって困る。

 そんな城下には、忠誠心だけはスジ金入りながらピントぼけまくりハズしまくりの軍人ティモシー・スポール、そんな彼にゾッコン一目惚れされる色気ムンムンムレムレ田舎娘ステファニア・ロッカがウロウロ。国王の学問没頭に応援を惜しまなかったオールドミス家庭教師のジェラルディン・マキューアンと神父リチャード・ブライアーズは、今にも誓いが風前の灯といった事態に眉をひそめているものの、自分たちもつられて歌ったり踊ったりしているうちにミイラとりがミイラになっているのに気づかない。

 そしてコメディアンのネイサン・レインがあちこち出入りしては、事態をますます混乱させていくのもお約束だ。

 まぁこの結末、最初から予想がついているものの、どうも何とか落ち着くまでには、まだまだ一山二山ありそうな…。

 それにしても、このシェイクスピア喜劇をかつてのハリウッド・ミュージカル映画のスタイルで映画化しようとは、ブラナーもよくぞ思いついたもの。ちょいと20世紀のお話としては浮世離れしすぎた設定も、ミュージカルというファンタジーの世界だから許されるというわけだ。

 オープニング・クレジットが始まると光沢のあるシルクの生地がスクリーンいっぱいに映り、そこに曲線を生かした懐かしさを感じさせる書体で「Love's Labour's Lost」と原題が出てくる趣向。往年のハリウッド娯楽映画の雰囲気が冒頭から濃厚に立ちこめて、このオープニングだけでも今回のブラナーの本気ぶりがうかがえる。本題に入ると今度はモノクロのニュース映画映像が出てきて、そこで物語の設定が紹介されるが、これは同時に今は息絶えたニュース映画というメディアを使って、ミュージカル映画全盛期の時代の雰囲気に見る者を慣れさせる働きもしている。いやはや、何とも巧みな作戦。

 だから実際のお話が始まる時には、観客の心の準備はもうしっかりと出来ている。そしてそんなミュージカル場面を彩るのは、コール・ポーターやらガーシュインやらアーヴィング・バーリンやらの懐かしい既成曲。これらをかつてのミュージカル作品から抜粋してきて、適材適所にハメ込む作業は楽しくも困難を極めただろうと簡単に想像がつく。でも、こうした年期の入ったミュージカル・ナンバーで歌って踊るんだ。こりゃあ楽しい気分がふくらまない訳はない。さすが才人ブラナー、シェイクスピア劇という堅苦しいイメージを投げ捨てて、ハッピーな気分全開だとこっちも身を乗り出した。さぁ早くやってくれ!

 ところが…あれれれれれ?

 どうも、楽しさがふくらんでこない

 これだけ段取り踏んで準備万端整っているんだ。楽しくって仕方ない…となってしかるべきなんだろうが、いいセンいきそうなのになぜかどこからかスキマ風が吹いてくる

 どうしてだ? 一体なぜなんだ?

 

「ミュージカル映画」は、なぜ衰退したのか?

 僕がミュージカル映画を語るなんて、「来年の経済見通しを語る」とか「パリ・コレを語る」みたいに無謀この上ない試みだね。何せ僕はこの年齢だから、当然ミュージカル映画黄金時代の作品をリアル・タイムで見ているはずがない。中学生の頃あたりからテレビで放映された「雨に唄えば」とか「パリのアメリカ人」を見たくらい。正直言って僕のミュージカル体験の最も早い時期のもので強烈なものといえば、MGM映画50周年記念映画「ザッツ・エンタテインメント」にとどめを刺す。

 この映画、公開前にアメリカで大ヒットとの評判で、これは見なくては…とは思っていたものの、正直言って大して面白いものではなかろうとタカをくくってもいた。だって何と言っても単に過去の名作の名場面集だろう? こっちはミュージカル・ファンでもオールド・ファンでも何でもないからノスタルジーもない。そろそろ映画ファンとしての色気が出てきて、いっぱしのシネフィル気取ってみたかったガキの僕は、ただただ過去の作品をお勉強させてもらうつもりで見に行った

 ところがビックリ、圧倒された。

 とにかくこの作品に収められたミュージカルの名場面が、どれもこれも豪華版のスペクタクルでありアクションなのだ。これらの50年に及ぶ作品群をつくるために、一体どれだけの時間と金と知恵と技術が動員され、どれだけの人間がおのれの才能をしぼり尽くしたか? とにかくあんまり凄くて、見終わった後は「ダイ・ハード」鑑賞後みたいにフラフラするほどだった。「見終わった後、しばらく席を立てませんでした」なんて、映画広告に出てくるアホバカクズタレントの月並みコメントみたいな感想しか出なかったもの。

 でもねぇ、「ザッツ・エンタテインメント」の収録作品は1958年の「恋の手ほどき」で終わってる。この前後はある意味で象徴的な時代で、翌1959年は日本の映画人口だか興行収入だかの伸びがプラスからマイナスに転じた転換点でもあったんだ。そして付け加えれば、Fこと僕が生まれた年でもある。僕は映画の衰退と共にこの世に生まれ出た、呪われた存在なんだよね(笑)。ともかく映画の良き時代はそこで終わった。そしてミュージカル映画も衰退したって考えるべきなんだろう。

 たぶん1960年代以降のビートルズ出現、ベトナム戦争、カウンターカルチャーの台頭などが、世の中や人からある意味で砂糖菓子のような人工の夢を奪った。だからファンタジーが生まれる土壌が、映画という夢の世界からも急速に失われていったんじゃないかな。1961年の「ウエスト・サイド物語」ではカメラはスタジオからニューヨークのダウンタウンに持ち出され、人種対立やストリートキッズといったリアリスティックな題材を取り上げて大ヒットしたみたい。でも、それから15年ぐらい経てから見たこの作品は、時代の先端いってたモノの宿命か、見事に色褪せてどこがいいのか全く分からなかった。俺あんまりつまんないんでマジで怒ったもの(笑)。そして、夢の結晶だったミュージカルから夢を奪ったこの作品の登場が、ミュージカル映画というジャンルの息の根を決定的にとめたんだろうね。

 その後の様々な「ミュージカル映画」が成功したのかどうか、見ていない僕には判断し難いが、それらが今日生命を保ち続けているかどうかを見れば、おのずから答えは出るのではないか。僕が映画を見はじめたここ30年ぐらいを考えてみても、それらの試みはことごとく失敗に終わっているように思えてならない…いや、唯一の例外があった。ディズニーだ!

 「リトル・マーメイド」あたりから見事にリニューアルされて蘇ったディズニー・アニメは、確かに堂々たるミュージカル映画としても成功している。特に「美女と野獣」には食器たちが踊るミュージカル場面があって、これがモロにバズビー・バークレーふうのスペクタキュラーなシネ・ミュージカルをなぞっているわけ。一例を挙げれば、スプーンが鍋にどんどん飛び込んで水中レビューを演じたりするんですよ。これらの演出は、ディズニーがアニメによってミュージカルというジャンルの継承を模索していることを如実に裏付けていた。アニメは元々人工的なファンタジーの世界だから、夢の構築が容易だったんだね。

 あと成功例として僕が思い浮かべるものといえば、みなさん意外に思われるかもしれないが、メル・ブルックスの「珍説世界史PART I」の宗教裁判のエピソードがある。魔女狩りを断行した恐怖政治の元凶トルケマダに扮したメル・ブルックスが、何とも楽しげに歌い踊るこのシーンは抱腹絶倒。でも、この「宗教裁判」編はミュージカルとしてもちゃんと出来ていて、むしろミュージカル好きにこそ見ていただきたいところだ。完全にナンセンスなパロディ世界だから、これも現実からの離陸が容易だったんだろう。そしてここでも「美女と野獣」と同じくバズビー・バークレーふう場面、プールの水中レビューが出てくる。

 実はこれらの趣向は今回の「恋の骨折り損」でも出てきて、アリシア・シルバーストーン以下女優陣が、いささか小規模ながらプールでの水中レビューシーンに挑んでいるのだ。その意味ではブラナーの映画ファンとしての懐の広さと、その思いのホンモノぶりをうかがわせて微笑ましくもあるのだが、それでもどこか何ともウソ寒い風が吹いてきてしまうんだね。

 考えてみれば、ミュージカルってのはファンタジーを創りあげるという点において、コメディやホラーと同じくらい成功させるのが難しいジャンルだと思うんだよ。それを、ミュージカル映画の土壌や約束事がつくる側からも見る側からも消え去った今になって、演出も役者もミュージカル初体験の人間がパッとやってうまくいくかというと、やっぱりいろいろ難しいんじゃないか?

 そんなこの映画前半の救いは、ネイサン・レインのコメディアン=道化が登場するシーン。さすがにブロードウェイの空気を胸一杯に吸ってきた叩き上げ芸人のレインだから、身に染み着いた芸の臭いで、こうした世界を再構築することも容易だったのだろう。

 シェイクスピア劇のミュージカル映画化という着想はよかった。だけどさすがにそのすでに滅び去った世界の再現は、才人ケネス・ブラナーにしても難しかったのか。結局、単にいい思いつきの域を出ないで終わるのか。立て、立つんだジョォォォォォォ〜〜〜〜〜(笑)!

 するとおもむろにブラナーは、画面に仁王立ちしてゆっくりと口を開くのだった。

 「女の目こそ教科書であり、学問だ…」

 

21世紀に託す才人ケネス・ブラナーの真の思いとは?

 ブラナーのシェイクスピア映画の最大の魅力は何だろう。もちろん、この文章の最初から言い続けているように、ブラナーの才気走った企画力、モダンな感覚とエンターテインメント性であることは言うまでもないだろう。だが、本当にそうなのか? ひとたび映画が始まった時、僕らを真に魅了するものは何か? それは、元々ブラナー本来が持っているもの…彼自身の鍛えあげられた演技そのものではないか?

 特に彼がシェイクスピアの手になる台詞の数々を口にする時、確実に何かのマジックが働き出す。何百年もの時を超えて、時の風化の力をはね返して、現代の僕たちにダイレクトに訴えてくるパワーが充満している。クサイと言えばクサイ。でも、これがなければ単なるただの普通の映画だ。ブラナー映画を見に来ているお客さんは、この瞬間が来るのを待っているのだ。

 この作品でもブラナーが歌ったり踊ったりするのを一時休んで、カメラの向こう側を客席に例えるがごとく立て板に水状態で語りだすと、作品の空気が一変する。

 「女の目は教科書で学園、恋をすることで学ぶこともあろうというものを、学問に没頭だから禁欲だなんて、全く俺たちどこまでバカだったんだ…」

 ブラナーはここでシェイクスピアの原典を忠実に再現して語っているに違いない。だが、あまりにブラナーの台詞に血が通っているので、見た後の印象はあたかもこんな感じにストレートに訴えている印象しか残らない。そしてここはこの作品のキモだ。それまで若干他流試合のように戸惑っていたかのようなブラナーが、作品の勘どころでぐっと映画を自分の土俵に引っぱりこんだ瞬間だ。これを境に急に作品にハズミがつき、展開もピタリピタリとハマり出すから不思議だ。

 やがて誓いを破った男たちと迎かえうつ女たちの恋のさやあてがあって、ネイサン・レイン率いる座興の場面に移る。登場人物全員がずらりステージに勢ぞろいで「ショウほど素敵な商売はない」を歌って踊る、この映画の中で最もミュージカル的趣向が成功してるシーンがやってきた時、僕は思わずハッとしたんだね。

 このショーマンシップの権化みたいな歌と込められた意味を考えてもごらんよ。ブラナーはきっとシェイクスピアを文豪だなんて思っちゃいないんだ。彼こそがショービジネスのキングだと言ってるんだ。彼が今までやってきたシェイクスピア映画の試みが、なにより雄弁にそれを物語っているじゃないか。これぞ映画ファン至福の時。ここで、僕はもう目が真っ赤でスクリーンが見れない。

 そこにやってきた不吉な知らせ。フランス王の死と欧州を巻き込んだ戦乱が恋人たちを引き裂く。女たちはそこで男たちに告げるのだった。12ヵ月待って、それでもまだ私たちの事を思っていたら…その時には…。

 日本未公開のフレッド・アステア&ジンジャー・ロジャーズ共演作「ブロードウェイのバークレー夫妻」でアステアが歌っていた、ガーシュインの「誰にも奪えぬこの思い」は「ザッツ・エンタテインメント」にも収録されているので僕も知っていた。そして、この曲に乗せて描かれる恋人たちの別れとその後のてんまつは…。

 実はシェイクスピア原作では、恋人たちの別れの際にブラナーが「12ヵ月は芝居には長すぎる」とつぶやく不吉な台詞に象徴されるように、結論を提示せずに苦味の残るエンディングとなっているようだ。一度恋のために誓いを破った人間が、恋を全うする誓いをも破らないという確証があるか。所詮、人の心はそんなものではないか…。だが、映画はそれでは終わらないのだ。

 今まで再三再四劇中に挿入されてきたニュース映画という設定で、第二次大戦の実写記録フィルムを交えて、主人公たちのその後のてんまつが語られる。だから彼らは、この激動の20世紀現代史を生きたことになるのだ。

 「史上最大の作戦」でも「プライベート・ライアン」でも描かれたノルマンディ上陸作戦がある、フランス解放=終戦がある…やがて僕たちが生きている20世紀末にまで至る道のりの上に、彼らは確かに生きている。彼らは僕らと地続きのところにいる…その事を言うためにニュース映画という手法が必要だった。

 彼ら4組の男女はどうなったかって? 確かに「12ヵ月は芝居には長すぎる」。でも忘れてもらっちゃ困る。これは芝居じゃなくって映画なんだ、映画だったら願いも叶う

 事ここに及んで、ようやく遅まきながら僕にもブラナーの言いたかったことが分かった。彼はシェイクスピアをミュージカル映画でやると楽しいぞ…なんて単なる思いつき以上のものを、今回の映画化では考えていたんだ。ミュージカル映画が象徴するあの時代、それは20世紀を代表する大事件…世界大戦を内在させたツラい時代でもあった。でも、そんな時代でも人は愛しあって生きたんだね。

 話変わって申し訳ないが、ジェームズ・キャメロンの映画で「トゥルーライズ」って映画あったの覚えてる? あれは面白おかしい典型的ハリウッド娯楽映画だったけど、一つだけマジメなテーマがあった。元ネタだったフランス映画にすでにあったものかは知らないが、女一人幸せに出来ないで何で国際政治だの何だのとゴタクを並べられるんだ…という、「アビス」でも夫婦ドラマをシミジミ見せてたキャメロンらしいメッセージだった。実はブラナーはこの「恋の骨折り損」で、それと同じようなことを言いたかったんじゃないか?

 ブラナーは混乱の時代だった20世紀に対して、この世紀末西暦2000年の時点でオマージュを捧げてる。さらに、それは新世紀への祈りにも似た感情でもあるに違いない。今世紀の反省に立って、次の世紀をもう少しはマシなものにしようと呼びかけてるのだ。ブラナーのそこを、ぜひ汲んであげたいよねぇ。娯楽映画としてはまあまあ…なんて映画評論家みたいな事を言ったところで何も始まらないじゃないか。自分だけ涼しいところでオツにすますのは、もう今世紀で終わりにしようじゃないか。俺はもう、そんな事とっくにやめてるよ。

 同じアホなら踊らなにゃ損とはよく言ったもの。

 ブラボー!ブラボー! ありがとうブラナー! やっぱり思ってた通り、君って本当に分かってる男だよな

 君が言った通りだ。21世紀になったって、女の目は教科書なんだから。

 

 

 

 

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