「ザ・ディレクター/[市民ケーン]の真実」

  RKO 281

 (2000/12/11)


僕は少年「エド・ウッド」だった

 僕が大好きな映画のひとつに、ティム・バートン監督の「エド・ウッド」がある。この映画のどこが好きかと言えば答えは簡単。あのゲテモノ映画監督エドって、まるで僕そのもののところがあるからなんだよね。

 と言っても、別に僕は女装趣味があるわけじゃないよ。中学の運動会の時にフザケて女装した写真が残ってるから誤解招きそうだけど(笑)。学生時代、下手くそなりとも8ミリ映画を何本か撮って、監督まがいのマネをした僕にとっては、エドの気持ちが痛いほど分かったから。あの作品は人ごとに思えないんだよ。もっとも撮った作品がどれもこれもエドの作品並みだからって言われても、返す言葉はないんだけどね(笑)。

 映画撮る時にはもちろん自分が時間的にも金銭的にも、かつまた荷物運びなどで肉体的にも犠牲を払うことはもちろんだけど、結局映画って一人では出来ないから、何人もの人を巻き込んでしまうし、それらの人たちに何らかの犠牲を払わせてしまうのも事実なんだ。

 だって貴重な時間を無駄にさせる。そして何度も何度もやりたくない演技させる。あるいはカメラ持たせたり、ライト持たせたり、いろいろ。出来れば自分で全部やりたいけど、そうもいかないからね。

 その代わり映画製作って何とも面白いし奇妙な体験だ。参加すれば、仲間どおしで長い間の語りぐさになる。おまけにどんな駄作でも出来上がった時の思いは格別なものだ。完成記念の宴会の盛り上がりったらないよ。

 でも、だからってそれで全部人に犠牲にさせているものがチャラなほど素晴らしいかっていうと意見が分かれるね。確かにやってよかったって言ってくれた人も多いけど、それも終わったから言える言葉で、その時間に遊んでいたほうがおかった、バイトしてたほうが儲かったとか、いろいろ言いたいことはあるだろう。それに、実際のところ撮影中が本当に面白いかというと、そうばかりでもない。退屈しちゃうことだって多いし、何度も何度も同じことをやらされればウンザリもするだろう。結局誰が一番面白がってるかと言えば、監督やってる僕一人ってことになるんだよね。

 それを僕は楽しいよとか頼むよ君しかいないとか何だかんだと言って、他人を巻き込んでいくわけ。それに何のウソ偽りもなかったけど、ある意味では自分の願望のために人をダマしていると言えなくもない。人でなしなとこもあるよね。でも、それが出来ないと映画なんてつくれないんだ。それにいいかげんブーたれてる奴にいろいろ言ってやらせなくてはいけないし。本当に善人だったら、自分の思いのためにイヤがる人にいろいろやらせるなんて出来ない相談なんだ。だから、いい人には向いてない。少なくとも撮影現場では、監督って絶対権力者なんだから。みんなの意見や望みを受け入れてたら、何も出来なくなる。

 また、それがちゃんと出来ないと完成した映画もいい映画にはならない。だから、と言うわけではないが、僕のつくった映画はどれもこれもイマイチだった。僕が善人だったから…と言うつもりはないよ。どうせ無理やりやるんなら、トコトンやるべきだったと思うんだ。それが出来なかった僕は、ただ妥協ばかりしてた偽善者でしかないんだね。

 それに実際のところ、正直言うと人を集めて動かすことが楽しかったんだよ。だって、僕が決めなければ何も動かないんだもの。そして、僕はとにかく素人だろうと何だろうと「監督」だった。誰よりも偉かった。誰よりも大きな声でしゃべった。そんな経験はまたとないよ。

 でも、そんなにまでしてつくった映画って、そもそもそんな価値のあるものだったんだろうか? いや、例えどんなものでも、そんな価値があるものなんてあるのか? 第一、単にそれはいい作品をつくりたいという純粋な動機だけのものだったのか? 権力を振るいたい、自分を偉く見せたいという下らぬ虚栄心が生み出した妄想の部分はなかったのか? だいたい何かを成す人間とはいい人間なのか? そもそも「いい人間」って何か?

 オーソン・ウェルズの泣く子も黙る代表作「市民ケーン」の舞台裏を描いたこの作品見て、久々にそんなこと思ったよ。そうそう、あの「エド・ウッド」にも、1シーンだけオーソン・ウェルズが出てくるシーンがあったよね。

 

「神童」ハリウッドへ行く

 幼少の頃から「神童」と呼ばれたオーソン・ウェルズ=リーヴ・シュレイバーは、演劇界でも名声を欲しいままにし、ラジオでは「宇宙戦争」のドラマをハッタリたっぷりにブチかましてまたまたお騒がせ。次は映画だとばかり、いよいよハリウッドに乗り込んできた。1940年にRKO映画と契約した時、彼は若干まだ24歳。だが世間は、彼がまた「何かやってくれるだろう」と固唾を飲んでたわけなんだね。

 ウェルズ=シュレイバーだって野心まんまん。俺様のやる事にし損じなし、やるからには凄いものをと力んで、ベテラン脚本家だが最近イマイチで酒びたりのハーマン・マンキウィッツ=ジョン・マルコビッチとホテルに籠もってはあれこれ策は巡らせるものの、これといったアテはなかった。でも焦らない焦らない。ネタは自然に沸いてくるとばかり、今夜も片腕マルコビッチと豪華なパーティーにお呼ばれ。それも新聞王メディア王のハースト=ジョン・クロムウェルが自分のお城で開くパーティーだ。粗相があっちゃならないぞ。

 このハースト=クロムウェル、本当に広大な地所にお城建てて住んでる。中にはさまざまな美術品がズラリ。近年は古女房を捨てて愛人メラニー・グリフィスと暮らしていて、今や女房が離婚してくれないのが唯一の頭痛のタネだ。愛人グリフィスはと言うと、何だか気はいいんだけどアーパーな女。こんな老人と暮らしてるのも金目当てってのがミエミエでアッパレなほど。パーティーはそれはそれは豪勢なもので、大スターのクラーク・ゲイブルまで呼ばれてる豪華版。そこでちょっと気の利いた話してハースト=クロムウェルの愛人グリフィスの気を惹いたのがゴキゲンだったか、調子に乗ってスペインの闘牛士の話なんぞまくし立てる。これがマズかった。

 ハースト=クロムウェルは動物愛護を掲げていた人物だったから、このウェルズ=シュレイバーにチクッとイヤミを言うんだね。で、シュレイバーも強気じゃ一歩も引かない人物だったから、相手が誰だろうと構いやしない。イヤミの応酬になっちゃった。

 それ見てすっかりビビッたマンキウィッツ=マルコビッチはシュレイバーをたしなめるわけ。やめとけよ、あのクロムウェルを誰だと思ってるんだ。「スペースカウボーイ」じゃあNASAの偉い奴演ってたんだぞ。あのFなんか感想文の中で西武の堤オーナーみたいに言ってるくらいだ。堤オーナーっていやぁライオンズが優勝逃した年に森監督と会って「(来年の監督を)やりたきゃやれば?」と言えちゃう傲慢ぶり。だが、ハースト=クロムウェルはそれ以上だぞ。

 バカ言え、俺を松坂あたりの見かけ倒しの神童と一緒にするなと言ったか言わないか…ってのはちょっとしつこかった(笑)。ウェルズ=シュレイバーはそう聞くとなおさら闘志が湧く悪い癖があったんだね。それに、奴は動物愛護なんて善人ヅラしやがって、これだけでかい城みたいな屋敷に住んでて善人のわけはねえ。それに、そんな善人が何で愛人なんて連れてるんだよ? この刺激が彼にとっては運の尽き。

 翌朝、このハースト=クロムウェルの生涯をネタにして、野心で心をなくした男のドラマをつくろうなんてとんでもない事言い出すもんだから、マルコビッチ心底ビビるわけ。あぁマズいこと言っちゃったなぁと悔やんでも後の祭り。何とかやめさせようとしても、シュライバーに腰抜け呼ばわりされて、後に退けなくなった。

 というより、マルコビッチその人にもハースト=クロムウェルをネタにした作品を…との思いが以前からあったんだ。でもヤバいから…と没にしてたのに、刺激されてまたこのネタをほじくり返し始めたマルコビッチ。ウェルズ=シュレイバーには、こうして他の人間を煽るアジテーターとしての能力もあったんだね。まんまと彼は罠に落ちた。あんなに好きだった酒まで断って仕事に没頭した。

 ウェルズが創作を開始したという話は、早速ハリウッドを駆けめぐった。なつかしの小森のオバチャマならぬウルサがたのコラムニスト、ヘッダ・ホッパー=フィオナ・ショウや、ハーマン=クロムウェルの息がかかったルエラ・パーソンズ=ブレンダ・ブレッシンも、うまいことあしらって高原の小枝を大切にねとか言って煙に巻くウェルズ=シュレイバーは得意満面だ。俺様のやる事なす事うまくいくんだから。

 脚本を練りながらシュレイバーとマルコビッチは彼の人間像にも議論を戦わせた。こんな主人公に愛なんてないと吐き捨てるシュレイバーだったが、マルコビッチは静かに言うんだね。彼にだって愛はあるさ、あいつなりの愛しかたでな、でも誰だってそうじゃないか? そう、誰にだってその人なりの愛はある。この、「その人なり」ってとこが、実はもっともやっかいなとこなんだけど。

 ウェルズ=シュレイバーを獲得したRKO社長のロイ・シャイダーも、この企画には及び腰。でもシュレイバーに挑発されれば、最近でこそ落ち目ながらも昔はサメも相手にしたしブルーサンダーにも乗った血が騒ぐ。大丈夫だよロイ、何だかんだ言っても出来ちゃったらうまくいくんだ、キムタクだって結婚したろ(笑)? ウェルズ=シュレイバーにうまいこと言われたシャイダー社長は、ボヤきながらもこの映画「市民ケーン」にゴー・サインを出した。でも、ちょっとは「宇宙戦争」撮る気ない?と持ちかけるシャイダー社長に、そんな俺はエメリッヒじゃないっスよとシュレイバーはニベもなかった。じゃあゴジラじゃダメ?

 やっと出来上がった脚本に何だかんだとケチはつけるウェルズ=シュレイバーだったが、その実えらく気に入ったことは興奮ぶりからも明らか。準備を進める彼の下に、名カメラマンのグレッグ・トーランド=リアム・カニンガムもオスカー抱えて売り込みに来た。さぁ、撮影が始まろうという頃、夜中帰宅したシュレイバーに夜討ちをかけるように、マルコビッチが酔っぱらってやって来た。てめえ、この野郎ダマしやがったな!

 何と脚本のクレジットからマルコビッチの名前が削られていたのだ。それはタイプ・ミスで…などとしどろもどろの言い訳並べるシュレイバーだったが、メスを体内に忘れたり血管切っちゃったり医療ミス連発の日本の医者みたいにバカなタイピストなんていない。もちろん、ウェルズ=シュライバーは先刻ご承知だった。企画から関わってミーティングを重ね、自分で手を入れた脚本、この男にとっては自分の脚本も同然と思いこんだのか。何せ今回の映画では製作・監督・脚本・主演とワンマンショー状態だからねぇ。ウェルズ=シュレイバーは無類のエネルギーとパワーと才気のカタマリだったが、一方巨大なエゴと自己顕示欲と独善性の怪物でもあったわけ。誰よりもこの作品に全てを賭けて頑張っているこの俺だ。この脚本だって何だって、この映画に関わるものは全部俺のものだ。だって、これは俺の映画なんだから。

 そんなこんなで撮影初日、さすがに監督初体験のウェルズは緊張してか、初めてだから優しくしてねなんて処女みたいなことを言って、みんなをホロリとさせる。だけど、いざ始まってみればこれがとんでもないのがウェルズ=シュレイバー流。テストと称していきなり撮影は始めるわ、スタッフをドヤすわやりたい放題。高い所からワイヤーで吊ったカメラを、いきなりビューンと俳優のところに落っことして撮影したりしてブッ壊しかねない勢いに、シャイダー社長もカメラのカニンガムもタジタジ。最初こそオズオズ恥じらっていたものの、だんだん派手に動き回って主客転倒。しまいにゃAV男優だって下に敷いてまたがりシボリとらんばかりの、とんでもないビッチなヴァージンぶりに、ベテラン映画人も右往左往するんだね。

 でも撮影もたけなわのある日、シュレイバーは連日の撮影疲れのせいか、フトとまどったり困惑したりもする。それで驚いたことに、いつになく殊勝な顔つきでマルコビッチの家を訪ねるんだ。クレジットの件であんな事しといて、よく来れたもんだなシュレイバー! また酒に手を出していたマルコビッチも、今夜は悪酔いしそうだと覚悟を決めた。

 だが、シナリオにはマルコビッチの名が復活していた。そしてポツリポツリとシュレイバーが話し始めたのは、すでに亡くなっている自分の父親の話だった。親父は俺を連れて世界中に連れて行ってくれた。いい親父だったが酒グセだけがどうにもならず、それがイヤで親父を捨てた。死んだと聞いて戻ってみると、その顔は元の親父、俺に世界を見せてくれたあの親父の顔だった。その話を語ることで、ウェルズ=シュレイバーはマンキウィッツ=マルコビッチに何を伝えたかったのか。シュレイバーはマルコビッチに何か父の面影を見ていたのか。

 いつの間にか、脚本の手直しの話を始めるマルコビッチ。ニンマリと微笑むウェルズ=シュレイバーの表情に、やっぱこいつ自分の魅力を分かった上で、父性本能に訴える熱演見せてうまいこと「してやったり」だったのかよと一瞬思わされるが、よく見るとその頬に一筋の涙が光るじゃないか。そう言えば、今日の撮影でシュレイバーがとまどってトチったセリフがあったっけ。「おまえは結局自分さえよければいいんだな」「いや、俺だって人を愛してる。俺なりの愛し方ではあるけれど」

 そうか、こいつだって、こいつなりの愛し方で人を愛していたのか。そして、人は誰でも、自分なりの愛し方でしか人を愛することは出来ないんだね。

 

人はみな、その人なりに愛してる

 てんやわんやで撮影は終了。映画のラフカット試写を関係者だけでやろうとしてたけど、映画界ウルサがたのホッパー=フィオナ・ショウの目をくらますことは出来なかった。作品を見たショウは、これがハースト=クロムウェルのお話と見てとって、早速この大物にチクリを入れた。早速今度はクロムウェルからネジ巻かれたルエラ・パーソンズ=ブレンダ・ブレッシンが怒り心頭。新聞で作品をぶっ叩きにかかったからたまらない。シャイダー社長もサメよりビビる。フィルムを取り寄せて見たクロムウェルは、自分と愛人グリフィスのことをボコボコに叩いたこの映画「市民ケーン」に怒り狂った。ナメるなよこの野郎、俺は自分一人のために電車走らせてる西武の…おっと、この話はもう終わってましたね(笑)。まぁ、いつまで経っても日陰のわが身を、映画の中で単なる野心家の収集品みたいな薄っぺらい扱いとズバリ描かれて大泣きに泣いてる愛人メラニー・グリフィスの手前も、ここは怒らないわけにはいかなかったんだよ。それに何より世間に自分にタテつく奴がいるってことが許せない

 だが、グリフィスの中ではこの映画を見てから、何かが変わっていった。毎日アクセクせずにお城の中でノウノウとする暮らし。映画の中の空疎なヒロインは決してウソじゃなかった。あれは今の自分そのものだとグリフィスが思った時、彼女の中で何かが変わり始めていた。

 さぁハースト=クロムウェルはパーソンズ=ブレッシンを手足のように使い、映画界のスキャンダル暴きだしやら、ハリウッドで権勢をふるうトップたちを直撃する反ユダヤキャンペーンやら、とにかくやたらめったら物騒な話まで持ち出してきた。ヒトラーに協力しないルーズベルト大統領は共産主義者だから攻撃しろなんて、真っ昼間から酒も入ってないのに言えるこの男だからこその手段を選ばぬやり方なわけ。まぁ、当時のアメリカ人の資本家の気分としては、大体みんなナチより共産主義のほうが怖いってのが普通だったのかもしれないけどね。

 だけど、そんな強気のハースト=クロムウェルも、万事やりたい放題状態だったのかというと実はそうではなかった。銀行からは連日激しく突き上げをくって青息吐息。あまりにも派手な無駄使いがたたっての危機真っ只中だったわけ。それでもハースト=クロムウェルは意気軒昂。日本一東洋一のデパート次から次へとつくって金なくなってるのに、平気でイケイケのまま「そごう」ブッ壊した水島前会長みたいに、いつもの強気を崩さないんだね。

 いつも脳天気だった愛人グリフィスもさすがにそんな財政状況に気づき、自分たちのお城の山のような美術品を見ながら、ハースト=クロムウェルに直言するんだよ。

 「この中で本当に必要だったものがあって? 欲しいというのと必要ってのは違うのよ」

 まるでバカと思ってたらズバリ正論を吐くグリフィスには驚いたが、それ聞いた老ハースト=クロムウェルはムッとした。さてはバカだと思ってた奴にバカにされたのがこたえたかと思ったら、やだいやだいアホなジジイと言われようが欲しいモノは欲しいんだい!とほとんどオモチャ屋でスネるガキ状態。その時にグリフィスには、今までハースト=クロムウェルが見せていた保護者としての顔、自分を所有する権力者としての顔ではない、もう一つの顔をかい間見たんだね。

 その後、自分のもらった宝石や装飾品をかき集め売り飛ばし、何とかかんとか100万ドルつくってハースト=クロムウェルに渡すグリフィス。そんな金じゃあ焼け石に水、元々もらったものを売って金つくろうって根性が甘いなどと、彼女のアホさ加減を笑わば笑え。それでも、彼女の中では彼が単なる金づるジジイでなくなった瞬間だった。その時彼女も、彼女なりの愛しかたで彼を愛そうと決心したのだった。

 さて、ハリウッドの大ボスどもが一同に会して判断した結果は、みんなでRKOの「市民ケーン」を買い取ってフィルムを焼却するというもの。彼らとしては何よりユダヤ批判が怖かった。あとは、RKOがこの作品を売るかどうかという話になった。これを聞いてウェルズ=シュレイバーは怒った怒った、何とかしろとロイ・シャイダー社長に掛け合ってるうちはまだよかったが、調子に乗って「俺の映画」なんて言ったのを、我慢に我慢を重ねてたシャイダー社長さすがに聞き逃さなかったんだね。

 おまえ何様だと思ってるんだ、あれは「私の映画」でもあるんだぞとシャイダー社長に言われて、さすがにマズかったと気付いたシュレイバー、もう最後は日本の田舎の政治家の選挙運動みたいに泣き落しだ。「頼むよ、その映画は俺の命なんだ」

 こんな言葉どこから出たんだろうと思ったか、ウェルズ=シュレイバー自身もハッとした。

 そう言えばハースト=クロムウェルのコキ下ろしから始まったこの企画、偽善者で野心のためには何でもやる男で、徹頭徹尾権力志向の「市民ケーン」すなわちハースト=クロムウェルを描くうち、その愛の屈折ぶりや内面の孤独ぶりにまで深入りして、もう単なる暴露映画とは言えなくなってたんだよ。一方、それを描くウェルズ=シュレイバーときたらクリエイターにして主役で、この映画の撮影中は何と言っても絶対権力者。ベテランの脚本家から社長に至るまでこの映画とそれを生みだしつつある自分に奉仕させ服従させてしまうし、そうするためには手段を選ばない。そういう意味ではウェルズ自身が立派な「市民ケーン」だし、皮肉なことにそれ通り越して限りなくあんなに嫌ってたハースト自身に近づいていっちゃったんだね。まぁ、その点についてはこの映画の感想書く人の100人が100人とも指摘することだろうから、このへんでやめておくけど。

 シャイダー社長もカツドウ屋バカ一代、ウェルズ=シュレイバーの望みを聞いて、ニューヨークでのRKOの株主会で彼に話をさせることになった。

 さぁてニューヨークでの株主会で、ウェルズ=シュレイバーおもむろに立ち上がると、何を話すかと思えば昨今のヒトラーのヨーロッパ侵略の話。今、多くのユダヤ人が不当に扱われ、言いたいことも言えない状況にいます。その点いいですよね、ここアメリカはまだ言いたい事が言えて…。こうしてチクチクとハースト=クロムウェルに触れていくウェルズ=シュレイバー。う〜む。でもウェルズ、ハースト、ヒトラー…実はみんないい勝負だと思うけどねぇ。

 このウェルズ=シュレイバー演説が功を奏したか、「市民ケーン」は売却をまぬがれ公開が決定した。一方、ハースト=クロムウェルはここで力尽き、破産となった。ある意味で似たものどうしの両者は、ここへきて明暗をクッキリと分けたのである。

 

地味ながらもクセモノ役者の豪華顔合わせ

 この映画は実に興味深い題材を取り上げてて、映画ファンなら誰でも面白がるんじゃない? 実は「市民ケーン」製作中の舞台裏的な話をもっと見たかったのだが、それは予算の関係上かそれほど多くない。それでも、スタジオの床に穴掘ってカメラの極端なローアングルを狙った…なんてエピソードもあって、見ていてうれしくなる。これなんか事実とは違うみたいだけど、この作品は映画だからね。

 リドリーとトニーのスコット兄弟のプロダクションで製作したこの作品、何といっても人物の葛藤を描き込んだ脚本が見事だが、書いたのは何とリドリーの今のところの最新作「グラディエーター」の脚本書いた人。なるほど、対立する骨太の人間ドラマをつむぐ手つきに見覚えあり。

 だが、作品そのものは何となく小ぢんまりとした印象を拭えないんだよね。ドカーンとスケールでっかい話になっていかない。それは、僕はこの作品で初めて見るベンジェミン・ロス監督の演出にケレン味がないからかもしれないが、ひょっとしたらこの作品がテレビムービーだからかもしれない。

 正直言ってクセモノ役者の豪華顔合わせではあるが、一般的には地味な印象を与えてしまうキャストから見ても、画面サイズが今どき珍しいスタンダードサイズであることから見ても、夜景のシーンの夜空を画面上で真っ黒にツブさずに処理していること(ブラウン管での映り具合を配慮)から見ても、そして製作会社のHBOがこれまでテレビ作品の製作を中心にやってきたことから見ても、この作品がテレビムービーである可能性は高いと思う。そのせいか、なぜかスケール感が違うし、ややチマッとした感じで終わってしまうのが残念。特に「市民ケーン」の撮影中のエピソードをもっとたくさん見たいのは人情だね。

 配役は役者が揃ってて、もちろん素晴しいのがオーソン・ウェルズ役リーヴ・シュライバー。「スクリーム2」「スクリーム3」でウサンくさい人物を好演したせいで、「ザ・ハリケーン」では完璧に善意の人を演じたのに、何だか最後まで信用できなかった(笑)。今回はウェルズという天才の若き日を演じるにあたって、このイカガワシさが大いにモノをいったのかも。対するハースト役のジェームズ・クロムウェルは、「スペースカウボーイ」といいこれといい、最近はなぜか権力志向の悪人役が多い。昔はいい人専門だったのにね。後半、弱気になったあたりに、この人のかつての「いい人」ぶりが生かされてる。そしてジョン・マルコビッチ。ウエルズにかき回されて迷ったりビビったり、それでいて、どことなくウェルズという若者を守ろうとしているようでもあり、この二人の関係もなかなか見ものだね。

 

 いよいよ「市民ケーン」も公開にこぎ着けようというある日、エレベーターに乗ったウェルズ=シュライバーは、たまたまそこでハースト=クロムウェルと同乗してしまったんだね。ギコちなく笑ったシュライバーは、それでも自らの勝利宣言とでもいうかのように悠然たる態度で出ようとするが、クロムウェルにはもうどうでもよかったようだ。

 私はもう終わった人間だ。君はこれからだから大変だな。

 そんな謎めいた言葉を残して去ったクロムウェルに、シュライバーの胸中には何とも釈然としないものが残った。

 関わった人々がすべて無キズに終われなかった映画「市民ケーン」。果たしてそれはそこまでの大きな犠牲を払うに値する作品だったのか

 「市民ケーン」は今日、映画史上最高傑作の評価を欲しいままにしている。だが、初公開時の興行成績は満足するに足るものではなかった。その後のウェルズのキャリアもご存じの通り。彼ですらこの映画に全てをささげ、犠牲になった人々の一人なんだね。

 マンキウィッツは、愛のない人間はいないと言った。そもそも他者と関わりを持とうとすることすべてが愛なのかもしれない。そして、ウェルズもマンキウィッツもハーストもその愛人も…劇中の台詞にもあるように、人はその人なりの愛しかたしか出来ない。所有し支配することも愛だろう…それは時として保護とも呼ぶ。創作も愛のなせるワザだろう。愛するが故に、共通するものを持つが故に近親憎悪するということもあるかもしれない。だから、実は分かっていたんじゃないか、ウェルズとハーストもお互いがとても似た類の人間なんだと。気にせずにいられないってのは、実は愛なんじゃないのか?

 他者を、そして自らを傷つけるとしても、人は愛さずにはいられないんだ…その人なりのやり方で。

 

 

 

 

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