「春香伝」

  Sung Chung-hyang

 (2000/12/11)


カップリングと料理の仕方の妙で見せるお馴染み企画

 映画やドラマの世界で、何度も何度も(リメイクなんてカッコいい言葉使えないくらい)つくられる題材っていくつかあるよね。

 日本なんてこのお馴染みものの宝庫で、「伊豆の踊子」「潮騒」「忠臣蔵」なんて、何度映画になったか分からないほど。早い話がネタがないんだろうけどね。

 例えば「忠臣蔵」なんて大勢の主要人物がいるから、オールスター映画つくるにはもってこいで、正月映画はこれでいこうなんて時代もあったわけだ。今だとそろそろ浅野忠信やら永瀬正敏あたりだったらお呼びがかかるはずだよ。もし日本映画の観客が昔通りで、時代もそれを許しさえしたら…の話だけどね。つまりは、そういう「格」を持った企画だったわけ。でも、浅野の大石蔵之介ってちょっと想像つかないね(笑)。

 「伊豆の踊子」「潮騒」とくれば、これはアイドル登竜門企画の定版。で、両方ともヒロインがヌードになるか?という(なりっこないって)興味が話題の中心というのどかな時代だった。何年か前に知り合いの映画好きと映画クイズをやった時、この「伊豆の踊子」の最新版はどれだ?って問題つくったんですよ。僕はこれ引っかけ問題として、答えを桜樹ルイ主演のアダルトビデオ「新説・伊豆の踊子」にしてた(笑)。ところがどっこい上には上があって、この時点ですでに小田茜主演のテレビ版があったらしいんだね。今じゃどれが最新バージョンなんだろう?

 これなんかリメイク重ねて鮮度がどんどん落ちる、お馴染み企画の悪い部分が如実に現われてる部分で、さすがに今の日本ではなかなかこういう企画は通らなくなった。だけどお馴染み企画の焼き直しが悪いかっていうと、必ずしもそうではないんだよ

 例えばこの新春もシェイクスピアの「ハムレット」が公開になる。これ、僕が映画を頻繁に見始めるようになってからも3回は映画になってるよ。まず思い出すのが「ロミオとジュリエット」オリビア・ハッセー主演版をつくったフランコ・ゼフィレッリ監督によるバージョンで、なんと主演がメル・ギブソン。ゼフィレッリの演出や全体のムードはオーソドックスな正統派なんだけど、何しろ主演がメルだから復讐の鬼マッドマックス・ハムレット(笑)。次にケネス・ブラナー監督主演による大作バージョンで、元々の原典の長さを忠実にまもってつくったもの。さぞかし地味な出来だろうと思いきや、ハリウッド・スターがキラ星のごとく出てきて、何とヒロインのオフェーリアを「タイタニック」のケイト・ウィンスレットというキンキラ豪華版ってのがミソだったね。で、今回の「ハムレット」はというとイーサン・ホークが主演。大胆にも現代ニューヨークを舞台にして、マルチメディア業界を背景にした思いっきり新しいハムレットで、なるほどこういうやり方もあったか!と思わず膝を打つ発想。カイル・マクラクラン、サム・シェパード、ビル・マーレーとか、およそシェイクスピアと結び付きかねる(もっとも、それを言うならメル・ギブソンとか、レオナルド・ディカプリオ、マイケル・キートン、ビリー・クリスタルらが結び付くかって話になっちゃうけど)役者を起用してるのも魅力。つまりカップリングと料理の仕方で、お馴染みだからこそ「これをどうつくってるのだろう?」という興味が湧く、魅力的な企画に成りえるわけなんだよね。

 だからあの巨匠イム・グォンテク監督が、韓国お馴染み企画の「春香伝」を撮ると聞いたら、それはただでは済むまいと思うよね。果たしてそれは思った通りだったわけ。

 

坊ちゃんがダダこねて美女とやりまくり

 お話は、実はここで説明しなくちゃならないほど複雑なもんじゃない。よくあるって言えばよくあるような話。

 ここはソウルの南西部にある南原(ナムウォン)。ここに赴任した貴族の倅・夢龍(モンニョン:チョ・スンウ扮す)は、間近に迫った上級官僚になるための登用試験に備えて試験勉強に余念がない。…といいながら、たまには息抜きもしたいと使用人たちにこちらの名所へ連れていってもらう。それで、何だか昔の保養地というか公園みたいなところに行くんだね。ひと休み…と休憩所みたいな建物の二階からあたりを見下ろす夢龍くん、ふと遠くを見ると、キャーキャー黄色い声があがって大勢の女の子たちが騒いでいるのが見える。そこに、元妓生(キーセン)の娘・春香(チュニャン:イ・ヒョジョン扮す)がブランコで遊んでいるんだね。で、簡単に言うと夢龍は一目惚れしちゃったわけよ。

 早速、夢龍は使用人コキ使って、あの女を連れてこいと言い出す。こいつ悪い奴じゃないんだけど、わがまま放題に育てられたせいか他人に対する態度がでかい。てめえで声かけに行けばいいじゃねえかと思いながらも、使用人が春香に聞きに行くと、彼女は自分は妓生じゃないから来いと言われて「はい」と行ったりはしないとキッパリ断言しちゃうんだね。そんなに会いたきゃてめえがこっちへ来な…とまで言われる。しかしこの夢龍お坊ちゃん、根っからの楽天的性格なのかバカなのか、これは「来てくれ」と言うことだなと勝手に都合のいい解釈しちゃって夜にお忍びで出かけることにする。

 で、いきなり押しかけてって、母親に向かってお宅の娘とヤラセロって言い出すんだよ。坊ちゃんいいかげんにしろよ。

 でも押し問答のあげく、その無理が通っちゃうんだよね。その代わりに、これは遊びではない、彼女を日陰の女にしない…云々を、彼女の着ているチマチョゴリに一筆書くわけなんだな。そりゃ〜男としては何とかしたいから何とでも書きます(笑)。仮に多少気になることやらムカつくことあっても、誰だってそんなのその場では無視しますよ。で、契約成立。つまりこの晩が二人の結婚式というわけ。

 それから連日連夜、いや〜若いから体力も気力も有り余ってるし、もうやりまくりさせまくりなわけなんだよ。よく飽きないなと思うけど、まぁ自分だって若くてこういう立場だったら飽きる間がないかも。この坊ちゃん、結構我がままチャランポランなのに、それを女に許されちゃってるのは、やっぱりキッチリやるべきことやってるからでしょうかね(笑)?

 ところが父親の転任で夢龍の一家全員が都に戻らなければならなくなるわけ。この期に及んで、実はパパにもママにも結婚のこと話してなくてさぁ…と打ち明ける夢龍。おまえ、ただヤリタイ一心でその場限りのデマカセ言いやがって。別れろ切れろは芸者の時に言う言葉…じゃあないけれど、さすがに春香はワンワンと夢龍に泣き付きます。それでも、これからママに話すよの一言もない腰抜け野郎。こいつ今になってタマなしみたいなこと言ってるんじゃねえよ。あれだけやっといてタマがないとは言わせねえぜ(笑)。

 でも、普通この場合はダマされたと思うのが常道と思うんだけど、この春香母娘は違ってどこまでも夢龍を信じるわけ。ただ帰らなくてはいけないの一点ばりで、この母娘のために何をしてやるというわけでもない夢龍なのに、どうしてあまりなじったり責めたりしないのか不思議。あんな念書書かせたの意味ないじゃん。あれじゃ、ただのロック・ミュージシャンのサイン入りTシャツ状態(笑)。

 で、まぁ泣く泣く二人は別れ別れになるわけ。夢龍は、いつか出世して偉くなって戻ってくるからな…という言葉を残して去っていく。そう簡単にいけば苦労はないって。

 ところが夢龍一家が引き払った後で、この地を統治するために新しいおエライさんがやってくる。そのサマランチ…じゃなかった新長官(イ・ジュンホン)がとにかく権力風吹かせてやりたい放題。着いた早々いきなり役人をどなり倒すなんて朝飯前。日本じゃド田舎の木っ葉役人にナメきられ名刺折られたって、新しく入った知事がどなり倒したりはしないけど。この新長官の仕事始めが、国中の芸妓を挨拶に来させるというから、まるっきり性欲の固まり、頭が生殖器みたいな男(見たくないねそんな奴)。ただ単にバカで助平なら日本の総理大臣みたいなもんだが、こいつはその上にやたらエバリ散らして卑怯者(これも日本の総理と同じか)。しかしこの話が事実だったとして、この男まさか自分のことを下品でゲスで助平な卑劣漢だと断罪するお話が、300年も後の現代に至るまで語り継がれようとは…いや、広く海外にまで知れ渡ろうとは夢にも思わなかったに違いない。この作品は韓国映画初のカンヌ映画祭正式出品作となったんだよね。権力者の諸君、調子に乗ってると孫子の代までたたるぜ(笑)。

 で、春香の美しさをウワサに聞いていた長官、この女が来ないぞ連れてこい!とわめく。まぁ、言ってることは最初の夢龍くんと大差ないんだけどね(笑)。拒む春香は無理やり出頭させられるわけ。

 そこでこの助平長官に、オレの女になれ…と迫られるわけ。私はもう人妻だから言い寄るのは法律違反では?と言い返す春香に逆上、サディズムの血が燃えたぎるこの長官はやっぱり変態。拷問して屈服させようとする性根が腐りきった野郎なわけ。

 実際、世の中いろんな趣味の奴がいて、それぞれ人に迷惑さえかけなきゃ問題ないんだろうけど、僕はあのSM…それもイジメるSの人ってのがどうしても理解できない。もちろんあれは趣味であって、やられるMの人もそうされたがっていると知ってはいても、僕には耐えられないんだね。これは単に趣向の問題です。

 やっぱり自分がさんざ子供の頃イジメにあったせいか、他人に対して偉そうな態度と口調で出る奴や人を痛めつける奴を見ていると、逆に徹底的にボコボコにしたくなる。もし何かの間違いでSMクラブとか行くことがあって、これまた何かの間違いで手にショットガンでも持っていた日にゃ絶対ブッ放すよ俺は。例え合意の元にやっていても我慢できねえんだよ。いちばんやりたいのが、それまで他人をイジメてた奴を逆に「おらおら!」ってメッチャクチャにイタぶる事だけど、それってひょっとして俺がスーパーSって事かもね(笑)。

 ともかく変態長官は春香をイスに縛り付け、固そうな棒を持ち出してボッコンボッコンぶっ叩かせるという暴挙に出た。そのたび春香は機転を利かせて、息も絶え絶えになりながら長官に反論するわけ。これが、まるで「ひとつ出たホイのよさホイのホイ…」ふうの数え歌もどきになっていて、棒で一発ぶっ叩かれると「ひとぉ〜つ、一人の男と添い遂げることを決めたこの私がぁ〜、何で今さら二人の男に仕えられましょうや〜」みたいな感じで語られるんだよね(笑)。で、二発目をやられると「ふたぁ〜つ…」と続く。

 さて、春香がそんなヒドイ目にあっている時に、あのてめえ勝手な夢龍のボンボンはどうなってるかというと…。

 ガリ勉のおかげで試験はトップで合格。高級官僚に採用決定。前途洋々。で、どんなお役目なのか?

 シークレット・エージェントなんだよ。ミッション・インポッシブルなわけ。

 諸国を見回って権力者の不正が行われてないか確かめ、正すべきは正す。普段は隠密行動だから、世を忍ぶ借りの姿で歩いてる。

 で、今回の潜入先が、他ならぬ南原なわけ。早速聞こえてきましたよ、新長官の悪評が。年貢の取り立てが酷いとか女グセが悪いとか、出てくる出てくる森内閣もビックリなくらい出る。当然の如く、春香が不当に拷問され投獄されてることも夢龍の耳に入ってくるわけ。

 夢龍よ、今度こそ男としてケジメをキッチリつけるんだろうな?

 

リアリズムとパンソリ…イム・グォンテクの意図とは?

 このお話、毎度お馴染みものだって話はしたよね。だから、正直言ってストーリーをダラダラ並べてみても仕方がない。僕はこの話の何度めの映画化になるのか知らないが、1961年の作品で当時の巨匠監督シン・サンオクによる「春香伝」を見たことがある。さすがに巨匠の作だから仕損じなしで退屈しないメロドラマにはなっていたものの、それ以上の新鮮味はハッキリ言ってゼロの作品だったね。でもこの「春香伝」って、韓国映画史のなかでは初のトーキーだ初のカラーだ初のシネマスコープだっていうと必ず取り上げられるお馴染みの題材とのこと。このへんは、当サイトの特集「Remake! Remake! Remake!」に寄せていただいた、韓国映画通のまるは子さんの「春香伝」に関する記事を読んでいただければもっと詳しいと思います。

 でも最近の韓国映画界は、韓国社会の激動と負けず劣らず大きな変貌を遂げている。だから、ここ最近「伊豆の踊子」が映画化されていないように、この「春香伝」もいささか時代遅れの題材と敬遠されてたようなんだよね。そりゃ尽くして耐えてってお話じゃあね。では、何でイム・グォンテク監督みたいな評価の定まった人が、この手垢のついた題材を手がけてみたかったのか? それは、「風の丘を越えて/西便制」とか「祝祭」とか、最近になって民族的な伝統の原点に接近しようとする作品を連発していたこの人だけに、お馴染み国民的物語のナンバーワンみたいなこのお話を手がけたかったってことじゃないか?

 この作品をつくるに当たってのイム・グォンテクのアプローチはハッキリしてるんだよ。それは徹底的リアリズムでつくるってこと。甘い砂糖菓子みたいなメロドラマでは撮らない。だから衣装や美術の時代考証も凝ったらしいけど、もっとも特徴的なのはいわゆるスター俳優を主役男女に配さなかったこと。そして、この二人を演じる役者の実年齢を実際の主人公たちの年齢16歳にぐっと近づけたこと。実は今まで大体スター共演の大作になっちゃったことから、年齢も大幅に上がってしまっていたらしい。ここを忠実にリアリズムでいく。これはフランコ・ゼフィレッリが「ロミオとジュリエット」を撮ったとき、ぐっと若い無名のオリビア・ハッセーらを起用した意図とピッタリと符合する。ヌードも含む大胆なラブ・シーンも挿入するという点でも、この両者は一致するんだよね。

 そして、このリアリズム路線を押し進めた結果、今回は全編にパンソリを流しっぱなしにするというユニークな構成が生まれたわけ。

 パンソリって、僕も大して詳しくはないんだけど韓国で言う民謡みたいなもの。聞いた感じはちょっと浪曲にも似てるが、あっちじゃ伝統芸能としての地位も高い。「春香伝」って元々このパンソリで伝承されたものらしいから、原点に戻るという点でこの手法を選択したというわけ。それに、近作「風の丘を越えて/西便制」ではパンソリを演じるドサ回りの旅芸人一家の話を描いていたように、イム・グォンテクはパンソリにはかなり興味津々だったんだよね。

 ところで、映画のリアリズムに満ちた画面に対してパンソリが延々流れるって手法は、正直言って映画が始まってすぐはあんまりうまく機能していない。そもそも画面づくりをこのパンソリに合わせて行っていて、編集もそのテンポに合わせているらしいので、ちょっと居心地悪い感じがしてくるのだ。例えば「美しい森が…」などとパンソリをうなった時には、そのまま美しい森が画面に写る…という、ほとんど絵解きみたいな画面構成。これでは安手のカラオケビデオみたいなんだよね(笑)。それで、少々シラケながら見ていた。

 ところで途中から、パンソリの演者が実際にステージでうなっている場面がドラマの部分に挿入されてくる。これ、最初はかなり違和感あったんだけど、慣れてくるうちに上記のカラオケビデオ的な寒さが薄れてきたから不思議。

 で、物語は最初ハッピーハッピーに始まるものの、坊ちゃんのお引っ越しから急転。春香がそんなそんなと夢龍に泣いてすがるくだりになると、このパンソリが威力を発揮するんだよね。だってリアリズムでいくなら、現代人の感覚ではこの感情の爆発ってかなり不自然で寒い。それにこのお話自体が封建主義的で儒教的なものだから、今の感覚ではついていけないんだよね。お話が男の無理やりで恋愛が始まり、男の腑甲斐なさで離れ離れになり、男はその後も調子よくやって出世。女はただひたすら男を一途に待って迫害にも耐えに耐え、最後涼しい顔して男が出てきて、女を救ってやったとばかりフンぞり返る…って、まぁちょっと冗談じゃないお話になっちゃうわけ。でも、役者の台詞をかき消すようにパンソリがそこに割って入ってくるから、僕らにはその物凄い感情のこもったパワーだけが焼き付けられる。この物語が春香の思いのたけを感じるべきものだと思い知らされる。それで物語にシラケずに済んでるんだね。

 お話からいったら前半は身分違いの恋の顛末を描いた東洋のロミオとジュリエット変奏曲、後半は観客にはミエミエで展開する勧善懲悪劇で、早い話がテレビの「水戸光門」と五十歩百歩のお話。これリアリズムだけでやったらキツいよ。だから、このドラマのエッセンスというか、現代にまで持ち越す価値のある部分…激しく思い詰めたパッションをパンソリで引っぱり出そうという趣向にしたんだろうね。

 それに、そもそもパンソリって血を吐くような唸りというか呻きみたいなもので、常に血圧が上がっちゃいそうなものだから、映画冒頭のただただ幸せなフヤケた雰囲気のなかでは違和感しかないんだよね。でも、この不幸に転じてからのパンソリは冴えに冴え、明らかに映画の原動力になり得ている。だから、すっかり映画の後半にはノセられてしまうんだよ。

 ただちょっと残念なことがあって、前述のまるは子さんの記事にもあったように、この「春香伝」は現代のシーンがかなり挿入されているようなんだよね。現代のサメた学生が授業で「春香伝」をやらなきゃならなくなって、シラケながらそのパンソリ独演会を見に行く。それが、途中挿入されるパンソリのコンサート場面として残っているのだが、どうも、それら現代の学生たちの場面はすべてカットされているらしいのだ。

 なぜ、こんな事が起きたかというと、そのまるは子さんや「映画を読む」の特集に寄稿してくださった植田さんの話を総合したところでは、カンヌ映画祭の出品規定に上映時間の制限があり、それに合わせるために機械的にカットしてしまったとのこと。それが「国際版」となってしまってわが国にも入ってきたわけ。ちょっと残念だよね。この映画の意図をいろいろ考えれば考えるほど、この現代の若者たちのシーンって必要だった気がするもの。

 とにかく、凄まじい感情の爆発を堪能できる作品として、これはやっぱり注目に値するんじゃないだろうかね。

 

 

 

 

 to : Review 2000

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME