「グリーン・デスティニー」

  臥虎藏龍 (Crouching Tiger, Hidden Dragon)

 (2000/11/06)


東京国際映画祭でのキン・フー

 1995年の第8回東京国際映画祭は、監督主演作「ブレイブハート」を引っさげてやってきたメル・ギブソンや、「君さえいれば/金枝玉葉」出演のアニタ・ユン、レスリー・チャンなど香港スターたちなどの来日で話題を集めたけれど、実はそんなこと僕には全く関係なかった。この年の映画祭は、僕にとっては何より「キン・フーの映画祭」だったのだ。

 キン・フー。中国は北京に生まれ、香港で映画監督としてのキャリアをスタートさせて、台湾で大成功を収めた中華チャンバラのマエストロ。当時、中国語圏映画界では数少ない、巨匠と呼ぶにふさわしい映画監督としてその名は知っていたものの、情けないことに僕はまだ作品を1本も見たことがなかった。ただ、その独特な魅力はさまざまなアジア映画を扱った本に詳しく書いてあった。いわく優美、洗練、神秘…。先に香港のツイ・ハークがこのキン・フーの古典的傑作をリメイクした「ドラゴン・イン」が公開されたので、その片鱗だけにでも触れようとレイトショーに駆けつけたものの、そこに映し出されたのは相も変わらぬツイ・ハーク流のせわしない香港製ワイヤー剣戟。どこにも気品のカケラなどあろうはずがない。

 ところがこの「ドラゴン・イン」の原形…1967年にアジア全域で大ヒットを記録して、キン・フーを巨匠の域に押し上げたという「血斗竜門の宿」が、この年の東京国際映画祭アジア秀作映画週間で上映される。こんなチャンスはめったにない。

 そしてこの上映には思わぬボーナスがあったのだ。上映前にキン・フーその人が舞台挨拶に立った! 拍手拍手!

 やっと目にすることができた「血斗竜門の宿」は、砂漠のど真ん中の宿屋を舞台に、腹の探り合いと激闘が繰り広げられるという設定こそ「ドラゴン・イン」に受け継がれているものの、作品の印象は全くの別モノだった。特にそこで闘うヒロインが素晴しい。女が闘うアクション映画として、どんなに激しくともどこか美しい。どこか品がある。僕はすっかり満足した。

 そして、近年は作品を撮れるチャンスのなかったキン・フーだが、舞台挨拶の中では現在アメリカで新作を準備中と語っていた。期待はふくらんだよね。

 でも、それがキン・フーと会うことのできた、唯一最後のチャンスだった。1997年1月、キン・フーは心臓手術の失敗で帰らぬ人となったのだ。

 あの時会えてツイてたというより、それが最後だったのが残念。アメリカでつくるはずの新作ってどんなのだったんだろう?

 その後、キン・フー映画を何本か見る機会があった。「侠女」など巨匠の地位を確固たるものにした後期作品群は、どれも「血斗竜門の宿」とは比べ物にならぬほど洗練の度合いを強めていた。野外の深い森の中で、竹林の中で、ワイヤーを縦横無尽に駆使して繰り広げる独自のアクションの世界。それはさらに優美であり、さらに気品が際立っていた。「血斗竜門の宿」ではまだ脇でデビューしたばかりだったが、後年のキン・フー映画では重要なヒロインとなった徐楓(シー・フン)が、凛々しくも身を踊らせるうっとりするような美しさ。先に挙げた後期代表作「侠女」は英語題を"A Touch of Zen"という。禅など全く関係ない中国の話ながら、何も知らない西洋人がそう名付けずにいられなかった気持ちも分かる。陳腐な表現ではあるが、東洋人の僕も「東洋の神秘」みたいなイメージを想起せざるを得ないような作品。激しくスピーディーなのに、どこか美しく静かなのである。

 でも、この人の作品はもう見ることができない。こんな世界を見せてくれる人はいない。

 そして映画が誕生以来100年以上を過ぎ、来世紀のメディアとして脱皮しようとしているこの西暦2000年がやってきた…。

 

魔剣を巡る数奇な恋の運命とは?

 それは昔むかしの中国のお話でございます。お互い相手への想いを抱きながらも、それを告げずに胸の奥深く秘めた男と女がおりました。男は孤高の剣士チョウ・ユンファ。女は商家の女主人で、剣の使い手でもあるミシェル・ヨー。そして、このヨーに剣を教えたのが先のユンファでございます。

 かつてヨーのいいなずけは、ユンファの親友でございました。ところがある日、ユンファの剣の師匠とこの親友は、碧眼狐という邪悪な女剣士の手にかかり、惨たらしく殺されてしまいました。その後、ユンファとヨーが手に手をとって互いの共通の仇を追い求めるうち、互いを想いあう心が芽生えたのでございます。それはすでに傍も認めるものとなっていたのですが、二人はそんな経緯ゆえに、その想いを露にすることはなかったのでございます。

 しかしユンファはある日、剣の修行も仇討ちも断念するべく、自ら愛用の名刀「碧名剣」またの名を「グリーン・デスティニー」をヨーに託します。もう自分にはこの剣に用はない、ヨーが商売で北京に行く際にこの剣を持って、旧知のラン・シャン氏に渡して欲しい…と言葉少なに頼むのでございました。

 北京のラン・シャン邸に着いたヨーは、そこで美しい先客に出会います。それが大臣の娘にして美貌の持ち主、チャン・ツィイーでございます。しかしこの娘、名家の出にして可憐な容姿にも関わらず、剣の道を好む強い意思の娘にございました。ですからヨーが持参した「グリーン・デスティニー」を見ると、ヨダレを流さんばかりの入れ込みよう。家の定めた縁談を嫌い気ままな剣士の暮らしに憧れるツィイーは、一見自由な身の上のヨーを羨むのでございますが、そこはさすが百戦練磨のミシェル・ヨー。剣士の暮らしも楽ではないと、控えめではありますがキッパリとたしなめるのでございました。

 ところがその晩、思いもかけぬ出来事が起こります。ラン・シャン邸にテレビ時代劇に出てくる女ねずみ小僧(笑)もどきの賊が押し入り、あの「グリーン・デスティニー」を奪っていったのでございます。しかし、そこは剣のたしなみを持つミシェル・ヨー。さすがの身のこなしで屋敷の屋根に舞い上がり、逃げる賊を素早い足さばきで追いに追う。二人は北京の街の屋根から屋根へ、ひらぁりひらりと跳んでは駆け駆けては跳ぶ。月が煌々と輝く夜空を背に軽々と舞い跳ぶ二人の姿は、それはそれは何とも美しいものでございました。

 やがてあるお屋敷の庭に舞い下りた二人は、そこで壮絶きわまりない闘いを繰り広げます。眼にも止まらぬとはまさにこのこと。しかしその激闘はどこか静かで、何かしら美しさを秘めたものでございました。しまいにはなぜか邪魔が入り、賊には逃げられたヨーではありますが、そこがくだんのツィイーの住む大臣のお屋敷だということは、しっかと見てとったのでございます。

 やがて剣が奪われたことを知ってユンファもラン・シャン邸にやってくる。ユンファとヨーは、この事件ににっくき自分たちの仇・碧眼狐が関わっていることを知るのでございます。果たして碧眼狐、今は仮の姿としてツィイーのばあやとして大臣邸に身を潜めておりました。そして、自分の知る剣の知識をこの娘に伝えていたのでございますが、実は当のツィイーはいまや碧眼狐など及びもつかないほどの剣の使い手として成長を遂げておりました。しかし成長を遂げていたとは言え、邪剣は邪剣。ユンファはこの類稀なる資質の持ち主であるツィイーを、何とか自分の手で正しい道に教え導きたいものだと考えるのでございます。しかし、そもそもそんな事を考え始めたのが、間違いの元だったのでございましょうか。

 また、ただでさえ話がややこしくなりそうなところへ、大臣のお屋敷に闖入者がもう一人。長髪のたくましい若者チャン・チェンがその人でございます。この若者、わき目もふらず一目散にツィイーの部屋に夜這いをかけるのですが、ツィイー驚くどころかこの男を部屋に招き入れるから今日びの女の子は怖い(笑)。しかし、よぉくよく二人の会話を聞き耳たてて聞いてみると、二人は昨日今日知り合った仲じゃなし。実は好いて好かれてかつては寝床も共にした、酸いも甘いも噛みしめ尽くした間柄。あれは今を去ること幾年月、ツィイーが父親の西国への赴任に同行した際に、一行を襲って金品を奪った盗賊一味の首領がこのチャン・チェン。狼藉されたまんまでなるものかとばかり、チャン・チェンをどこまでもどこまでも馬で追うツィイーの向こうっ気の強さには、そんじょそこらの娘ではなびかない彼の心も大いにぐらついたのでございます。そうなれば年頃の若い二人だ、放っておいてもなるようになるのは自然の理というものでございましょう。

 しかしながら片や僻地の盗賊の首領、片や国の要人の御令嬢。一時の恋ならまだしも一生となれば訳が違う。そこへツィイーの父親が放った追っ手もしつこく行方を嗅ぎ回る。ならばいつか必ず…との再会を誓い、二人は離ればなれとなったのでございます。

 今その若者チャン・チェンが、ツィイーの縁談を聞いて慌ててこの娘の元へと駆けつけてきた訳でございますが、果たしてこの若き恋人たちの前途に広がるは極楽浄土か茨の道か? また、胸の内に深くしまい込んだユンファとヨーの二人の愛の行方は? 魔剣「グリーン・デスティニー」を巡る数奇な運命は、いかなる結末を迎えるのでありましょうや?

 

 

 

 

 

 

 

 

ここから先は映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

後輩映画人たちに託したキン・フーの大いなる夢

 この作品、台湾から西欧映画界に旅だったはずのアン・リーの作品なんだよね。アン・リーといえば、台湾時代からイギリス、アメリカで仕事した時でも、家族や恋人たちといった小さいサークルの中の人間たちの物語をデリケートに描いていたよね。それが、いきなりこんなデカいスケールでアクションを描くとは思わなかった。壮大なエピック・ドラマというか。

 だって、台湾時代の「推手」とか「ウエディング・バンケット」とか「恋人たちの食卓」とかって家族をテーマにしたこじんまりしたドラマだったし、いきなりイギリスでジェーン・オースティン原作の映画化に取り込んで「どうなっちゃってるんだ?」と思わせた「いつか晴れた日に」にしても、恋人たちの恋のさやあてを巧みにさばく手並みは「恋人たちの食卓」でのそれを想起させた。さらにアメリカに渡って1960年代の中産階級の家族を描いた「アイス・ストーム」も、描かれている内容は冷え冷えとしたものだけど扱っている題材は台湾時代からおなじみの家族ものだから、さほど違和感はなかった。しかし、今回の映画は元々のルーツである中国を扱ったものと言えども、マーシャルアーツを前面に出した娯楽作。果たしてアン・リーの真意はいかに?

 それにしても、この作品の構えというかつくりは凄い。僕は中国通でも何でもないけれど、なぜかこれまでの中国・香港・台湾といった中国語圏の映画の中でも、これほどの大きさを感じさせるチャンバラ映画はなかったんじゃないか? しかも、何となく中華チャンバラの決定版をつくろうという意気込みさえ感じられる。大きさ、気品、そして美しさ。壮大なアクションと孤高のエレガンス。こんな映画、かつてどこかで見たような…そうか、キン・フー作品に特有のあのテイストだ!

 そう考えて見るといちいち納得がいく。ユンファとツィイーが竹林のなかで追いつ追われつするアクションシーンの、まるで竹がしなうような優美さ。単に強い訳でも早い訳でもない。このしなやかさこそが東洋、それこそが中国なのだ…そう見る者に映像で納得させてしまうこの映画は、剣と剣が激しくぶつかる重厚な金属音と乱れ飛ぶ火花に日本的時代劇の世界を体現させた「五条霊戦記」の、発想の点では延長線上にあると言える。

 それにしても、なぜアン・リーは急に中国に戻ってきて(正確には彼は台湾の人間だから、単にキャリア上の出身地に戻ったのではなく精神的なルーツに戻ったわけだが)、こんなガラリと変わった題材に取り組んだのか。そして、奇妙なことにこの作品、関わっている人間をズラリと見渡していくと、ある事実に気付く。イギリスとアメリカに仕事の拠点を移しつつあるアン・リー、ハリウッド上陸を果たしたチョウ・ユンファ、「007」シリーズ登場でその名が国際的になりつつあるミシェル・ヨー、「マトリックス」のアクション演出で一気にハリウッドでも注目のユエン・ウーピン…ここにテーマ曲でチェロを演奏しているヨーヨー・マまで強引に加えると、主要キャスト・スタッフを西欧映画界で活動し、もしくはそこを通過した経験を持つ人間、あるいは国際的注目を集めた人間で固めているのが分かるだろう。映画そのものにもハリウッドのコロンビア映画の資本が投下されていること、もう一方のヒロインであるチャン・ツィイーの本格的デビュー作「初恋のきた道」が中国映画ながら同じくコロンビア映画資本で撮られたものであることも加えてみると、さらにこの作品の持つ特殊性が見てとれる。これは重要なポイントだ。

 では、ハリウッド資本が海外マーケット向けに制作する中華アクション決定版だから、海外での知名度のある中華映画人が集められたのか? 確かに資本を投下する側のコロンビア映画の論理はそうかもしれない。だが、元々この企画はそんな始まり方をしたのか?

 監督アン・リーが西欧映画界に身を置いた経験から、自分のルーツたる文化にそれまで以上に自覚的、意識的になったであろうことは想像に難くない。そこで映画人としての自然な欲求から、西欧社会に向けてこれぞ中国というものを見せつける決定版としての中華チャンバラをつくろう…という発想が出たのではないか。そして、決定版を見せるなら、さらに世界を驚かすような斬新性を追求するなら、内に自分と同じようなモチベーションを共有した者とでなければこの意図を全うできない…たぶんこう考えたからこそ、アン・リーは西欧映画を経験した者たちを集め、本場よりさらに本格的な中華アクション映画の制作を決意したのではないか。その時、本来アクションが不慣れだったはずの彼の脳裏に浮かんだのが、中華映画が世界からまだ注目されるずっと以前に、独自の孤高の境地で世界を魅了していた東洋美学の真髄とも言える作品群…映画人としては台湾映画界での自分の大先輩にあたるキン・フーの傑作アクション映画の数々だったのだろう。

 ミシェル・ヨーとチャン・ツィイーの二人のヒロインによる激しくも美しいアクションには、「血斗竜門の宿」のシャンカン・リンフンや、「侠女」のシー・フンの凛々しいヒロイン像がいつしかダブってくる。アン・リーの中には、あの素晴しいキン・フー作品を現代のテクノロジーで今一度蘇らせたいという意図が明らかにあったはずだ。

 しかしその一方で「グリーン・デスティニー」には、アン・リーが自らをキン・フーふうアクション作家として完璧に変貌させて撮った、様変りの作品とばかり言い切れない部分も確かにある。「恋人たちの食卓」のヤン・クイメイも「いつか晴れた日に」のエマ・トンプソンも、そして「グリーン・デスティニー」のミシェル・ヨーも、秘めた想いを抱いている。同様に「恋人たちの食卓」のワン・ユーウェンも「いつか晴れた日に」のケイト・ウィンスレットも、そして「グリーン・デスティニー」のチャン・ツィイーも、激しい想いに突き動かされていく。生きる時代や国は違っても、あのアン・リー映画の登場人物たちは健在なのだ。何より台湾時代の三部作で主役を張ったラン・シャンお父さんが、ここでもしっかり顔を出しているではないか。幸せを求めて切なくもがく人々を、共感込めて見つめるアン・リーのまなざしに変わりはない。これは老巨匠キン・フーの夢が現代最前線に立つ作家アン・リーの手によって具体化した、まるで幸福な結婚のような作品なのだ。

 晩年のキン・フーがアメリカにどんな夢を託していたのか、今となっては誰にも知るよしもない。中国語圏の優れた映画文化を広く世界に紹介したいと願っていたのだろうか。ひょっとしたら香港、台湾と点々としながら、必ずしも恵まれた映画人生を歩んではこれなかったキン・フーは、ジョン・ウー、ジョアン・チェン、そしてこの「グリーン・デスティニー」のアン・リー、チョウ・ユンファなど、近年相次いで海外へはばたいていった中華映画人たちの礎として、自らを位置付けていたのかもしれない。その意味で志半ばで倒れた今は亡きキン・フーは、「グリーン・デスティニー」とそこに参加した自らの後輩たちの姿を見て、草葉の陰で心から喜んでいるに違いない。映画「グリーン・デスティニー」には、ブルース・リーなども含めたそんな何世代もの中国語圏映画人たちの夢がいっぱいにつまっているはずだ。

 心から信じて願えば、それはいつか必ずかなうのだから…。

 

 胸の内に秘めたチョウ・ユンファとミシェル・ヨーの恋は、その後悲劇的な結末を迎えるに至りました。結果として、痛ましい情況が生まれる原因をつくってしまったチャン・ツィイーに、しかしミシェル・ヨーは優しくこう告げるのでございます。想いを貫かねば私たちのように悔いが残るわ、チャン・チェンの元に行きなさい…と。

 雲を突く高山に築かれた剣士たちの隠れ里…そこにチャン・チェンは身を寄せておりました。ツィイーは彼を訪ねると、めくるめく愛の一夜を過ごすのでございます。

 しかしその翌朝、眼下に広がる遥かな奈落を見下ろしながら、ツィイーはチャン・チェンに尋ねるのでした。

 覚えてる? あなたが教えてくれた愛の伝説を。

 瀕死の母を救いたい一念で、高い山から身を投げた若い男の伝説。一心に念じれば願いはかない、己の身も救われる…。

 人の幸せを摘みとったその上に、自らの幸せを築くことなどできない…そう思いつめたツィイーは、愛する男のその目の前で、気の遠くなるような奈落に身を投げるのでございました。信は真に通ず…心から信じれば、それは必ずかなう。

 ただそれだけを一心に念じて、遥かな高みより身を踊らせた乙女の姿は、いつまでもいつまでも、いついつまでも虚空を美しく舞っていたのでございます。

 そして今も…。

 この世に愛し合う者のいる限り、信は真に通ずとの思いを人々が胸に抱き続ける限り、美しい娘は風のように永久に空を舞い続け、その身は決して地に墜ちることはないのでございます。

 

 

 

 

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