「五条霊戦記」

  Gojoe

 (2000/10/23)


映画を見る側の柔軟性、ということ

 昨年1999年の末、この1年を展望する…というような趣の文章を私のサイトに載せたとき、次のようなことを述べたのを覚えていらっしゃるだろうか。この年、娯楽映画の範疇で従来の映画と明らかに一線を画するような作品が3本現れた…と。そこで挙げた映画とは「マトリックス」「ファイト・クラブ」「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」の3本だ。そしてこの3本は、世評的にもネット上でも評価が賛否両論に分かれていたことは記憶に新しい。

 このうち「ブレア・ウィッチ」に関しては、実は映画が元々持っていた性質をうまく利用したもので、それを従来よりもさらに徹底して行ったところのみに新味がある作品だということは、私のサイトでの特集その他で何度も述べた通りだ。そういう意味では真に従来の娯楽映画と一線を画しているのは、「ファイト・クラブ」と「マトリックス」の2本ということになる。その2本について、私は前者については肯定、後者については否定の立場をとった。ただし「マトリックス」については、私はその作品の存在意義だけは認めるというように述べたと思う。

 「マトリックス」否定の理由について、私が挙げたポイントは2つ。ドラマがスカスカで空疎であること、そして登場人物のキャラクターがキチンと描かれてないということ。つまり、中身がカラッポだということだ。これは多くの「マトリックス」否定派に共通する意見だったと思う。

 ところで肯定派の意見の主なところはというと、その映像のかっこよさに魅了されたものが大半だったはずだ。これは私も認めないでもなかった。そして、その卓抜した世界観…。ある種の神話的要素があることは事実で、例えばテレビゲームなどに親しんだ人ならば、そこに優れたものを感じるのかもしれない…と、私は結論づけていたように思う。

 ところで、私は最近この「マトリックス」のDVDを見る機会を得て、繰り返しその映像を見ているうちに、この作品がやはり良くできた面白い作品であることを認めざるを得なくなった。この作品がDVD向きだという何だか意味の分からない理由を言っても仕方がないのだが、これが「映像のかっこよさ」だけでも十分魅力的な作品だということは確かに感じられた。では、なぜ当初私にはこの作品が魅力的に見えなかったのか? それを解明するには、私個人の映画の見方や評価のポイントを洗い直してみる必要があろう。

 私のサイトの映画感想文をご覧になってきたみなさまならば、私が感想文のそこかしこに自分の個人的な感情や過去の経験を多く盛り込んでいることにお気づきだろう。最初からこのスタイルをとってきた訳ではないのだが、長い間に自然と今のスタイルになっていったのだから、こういう形になるには何かの必然があったはずだ。そう、私は自分の個人的な感情の部分で映画を見る人間なのである。

 映画に出てくる登場人物の感情や発言、行動などに、自分と共通するものを見出し、そこに何らかの実感=リアリティを見つけたとき、その映画は私にとって優れた映画となる。多くの場合、登場人物は作者の反映となるため、おのずから作者の人生観に共感するかどうかが映画への評価の分かれ目になるのだ。

 しかし、映画に限らず世の中のさまざまな作品が、すべてこの見方で評価できる訳ではない。特にこの「マトリックス」などはその落とし穴にはまり込んだ作品と言えるかもしれない。実は私は、この1999年末の時点でそのことをうすうす感づいていた。ある意味でテーマ主義、ストーリー主義だけで映画を見ていくことの限界が、そこには存在しているのだ。「マトリックス」はその図星の部分、私の痛いところを突いてきたことになる。

 またもう一方で、私のサイトのこの秋の特集「映画を読む」でのかのこさんの寄せた文章にあるように、「マトリックス」は必ずしもスカスカで空疎なドラマではなく、キチンとしたバックボーンがあるのだという事実も突きつけられた。このあたりになると特定の知識を持っているかいないかの問題になってくるので、何から何まで分かっている人間などいるはずもないのだから、すべての作品を評価すること自体が不可能ではないかという話にもなってしまう。しかし、かつてタルコフスキーの「アンドレイ・ルブリョフ」を見た時、イコン画のことやロシアの歴史には疎くとも、そこに「何か」があることだけは私も知覚できたはずだ。「アラビアのロレンス」のロレンスがトルコ軍に拷問を受けるシーンを見た時、セクシャルな意味合いを持った「何か」の存在だけは感じることができたはずだ。それでは、なぜそれが今回はできなかったのか。そこで、私にとっては考えたくもないし認めたくない事実がかい間見えてくる。すなわち私という人間が、すでに古びてしまったのではないかということだ。

 この「マトリックス」という作品が広く認められ、ヒットしたという点も私にとっては脅威になる。それだけではない。近作で言えば「マルコヴィッチの穴」などがそうだ。この作品で私が分かった点は「発想が斬新で奇妙」ということと「何となく悲しい」という気分だけ。これではまるで小学生の感想文だ。これは私は恥をしのんで認めねばなるまい。では、本当に私は古びてしまったのか?

 年齢を重ねるということには経験が増えて知識が増すという美点があるけれど、他方でどうしても既成概念にとらわれて考え方が硬直していくというきらいがある。感受性も新鮮さが減っていくから、摩耗し鈍化していくことを免れない。そこに、単純にさまざまな面での衰えも重なってくる。当然、柔軟性がなくなり型にはまった考え方をするようになってくるのだ。

 自分がそうなってしまったとは決して認めたくないし、ささやかながらも表現することを自らの生業としてきた人間としては致命的なことだから、決して認める訳にはいかない。しかし人間というものは放っておくと、得てしてこうした罠に簡単に落ち込んでしまうものだということは認めざるを得ないだろう。

 だから、私も今後は以上のことを十分自覚した上で、映画に接することを心がけたいと思う。これは、ある種の謙虚さを持って作品に接するということだ。決して悪いことではあるまい。

 今回ここに挙げる作品も、ある意味で私に改めてこの事を思い起こさせる作品だ。ある種の新しさを感じさせる作品。しかも、今回は日本映画。「五条霊戦記」がそれである。

 

あくまで日本的な、新しい映画の世界

 戦乱に疲弊し、混沌と荒廃が支配する中世日本。源氏を制圧した平家ではあったが、今でも我が世を謳歌するどころか、夜な夜な平家武者を襲っては惨殺する「鬼」の存在に恐れおののいていた。他方、京を離れて仏の道を究めんとしていた弁慶(隆大介)は、「鬼を倒せ」とのお告げを夢の中で不動明王より受け、再び太刀を手に京に戻ってきた。果たして平家を脅かしていた「鬼」の正体は、源氏再興を悲願として野に伏していた、のちの義経こと遮那王(浅野忠信)。弁慶は刀鍛冶の鉄吉(永瀬正敏)の力を借りて、遮那王に挑むことになるのだが…。もうみなさんすでに十分ご承知の通り、映画「五条霊戦記」の物語は有名な義経と弁慶のお話をベースにしたものだ。ただし、その展開にはかなりの独自解釈が入っているのは言うまでもない。

 ところで今回この映画に触れるには、もう一つの関門をくぐらなくてはならない。すなわちこの映画が日本映画であるという事実だ。もちろん映画を邦画と洋画に分けることの無意味さは、私自身よく分かっているつもりだ。だからこそ…と言うべきか、邦画にはある種のハードルが存在していたと思う。つまり、何度もこのサイトで私が繰り返し言ってきたこと、邦画のレベルの問題だ。

 もちろんこれには数多くの例外が存在することも知っている。旧作で私も認める傑作がゴロゴロしている。だが、私が子供時代から今日まで接してきた邦画は、正直言って見るのも恥ずかしい作品があまりに多すぎた。また、企画から見る気にならない作品が大半だ。これを偏見と一言でかたずけられては、私に対してフェアでないと思うのだがいかがだろうか?

 だから私は、大変申し訳ないが邦画を見る時の第一の基準について、「恥ずかしいか恥ずかしくないか」を基本に置いていると繰り返し言ってきた。その中でわずかながらの優れた作品を見る機会を得てきたように思う。

 ところが昨年末、衝撃的な出来事があった。これも何度も述べているが「鮫肌男と桃尻女」との出会いだ。これには正直言って驚いた。明らかに海外の若手の作品と地続きの感覚を持った作品。これに接するに至って、恥ずかしながら自分の邦画観に舶来偏重主義の偏見があったことも認めざるを得なくなった。ただ、ささやかに自己弁護させてもらえれば、この「鮫肌」やそれ以降私が注目し始めた新しい日本映画には、それまでにない斬新さ、ハンディなしに外国映画と比べられる柔軟性が存在しているように思えるのだ(私が知らなかっただけということはあるだろうけれど)。そんな作品群と出会える今日の映画ファンを、私は心底うらやましく思う。この「五条霊戦記」も、明らかにそうした作品群の延長線上にあると言える。

 監督の石井聰互の作品は、実は見るのはこれが初めてだ。だから正直に言って私に論ずる資格はない。ただあえて言わせていただければ、出世作の8ミリ作品「高校大パニック」とその劇場映画リメイクについては、題材から言って気恥ずかしさが先に立ち、あまり好感を抱いてなかった。その後の「狂い咲きサンダーロード」や「爆裂都市」、さらに「逆噴射家族」についても何となく苦手な題材という感じを抱き続けていた。偏見ではあるが、これは正直な気持ちだったのだ。その後「エンジェルダスト」やら「水の中の八月」あたりになると、ずいぶん扱う題材が変わってきたなと感じて、苦手意識も少なくなってきたのだが。まぁ、しかしいずれも見てもいない作品なのだから、ここで私がこう言うこと自体がお門違いなのかもしれない。このくだりは批判されてもいたしかたないところだ。

 そうした過去のイメージ(単なるイメージに終始してしまうのが情けないが)から見ると、今回の石井聰互作品の堂々たる風格と成熟した出来映えには、正直言って圧倒された。面白い。これは文句なく言える。私の不明を恥じよう。

 作品そのものも、スピーディーなアクション、しっかりとした視覚効果、堂々たる美術、パーカッションを多用し力強い音楽、クリアーで迫力ある音響…いずれも見事な出来映えだ。言い方を変えよう。見ていて恥ずかしくならない。これは私の最大のホメ言葉だ。

 しかも、この作品でスクリーンに映し出される日本の緑の風景には、久しぶりに日本らしい絵を見たと思わされる。これ以外にそんなことを思わされたのは、香港のアン・ホイ監督の「客途秋恨」、その劇中で電車の窓を走り去っていく九州の緑の風景だけだ(誤解を恐れずに言えば、アン・ホイに日本人の血が流れていることに、何か関係があるのだろうか?)

 私が好ましく思ったのは、この映画がある種の霊的な世界と向き合うことをテーマとしている点だ。そして、そうした霊や超自然的な力が、自然を背景として人間とごくあたりまえのように同居していること。考えてみれば、現代でもどこか自然に畏れを感じ、未知のものと共に暮らしているかのような習慣を持つ我々日本人の当たり前の世界観を、大げさにではなくさりげなく娯楽映画の中に盛り込んだ作品は、これまでありそうでなかなかなかったのではないだろうか。これは自然や霊と折り合いをつけながら生きてきた、日本人ならではの娯楽映画なのだ。

 で、再びの「マトリックス」である。あれは私にはよく分からないまでも、その背景には西欧キリスト教社会ならではのバックボーンや神話的要素が反映されていて、にもかかわらず新しい要素を盛り込んだアクション映画という点がミソだったはず。さらに先日見る機会があった「グリーンデスティニー」では、これも中国人ならではの独自性を、今までのカンフー映画などより強くアピールする点が目を見張った。しかも新しい。いずれもその新しさの大きな部分を担うのが、ある種の精神世界であるという点が共通するポイントだ(実は「グリーンデスティニー」を作ったスタッフ&キャストの大半が、中国圏の映画人といえどもハリウッドや西欧映画界を通過したことのある人々であるというのがもう一つの大きなポイントだが、ここでは長くなるので別の機会に改めて触れることとする)。

 もちろん、こうした作品群を一山いくら的に論じることにはいささか無理があるとは承知している。「マトリックス」はそもそも理屈抜きB級アクション(そのベースはコミックスやアニメ、テレビゲームなどのポップな文化だ)を本来指向しているはずのものであろうし、「グリーンデスティニー」の背後にはあのキン・フー映画が厳然と存在しているはずで、それぞれは全くの別物だということは明言しておかねばならない。にもかかわらず、これらの作品群にはどこか共通する臭いが立ちこめているのである。

 ならば、こうした方法論を、日本映画からの新たなアプローチとしてつくりあげようと試みたのが、この「五条霊戦記」と言えるのではないだろうか?

 確かに冒頭の彗星が飛ぶ宇宙空間から地球へ、さらに日本へ、京の街並みへ…と降りてくるカットなどの、まるで「マトリックス」のパクりと思わせる描写には一瞬ヤバいと思わされはしたが、それはあくまで一つの道具立てにすぎない。全体を見渡すとむしろ時代劇として奇をてらったところのない仕上がりとなっている。そこに変な現代解釈みたいなものを持ち込もうとはせずに、一方で従来からの既成の時代劇の約束事や型のようなものを取っ払ったところにこそ新味があるのだ。しかし、実はそうした試みは往年の溝口や黒澤の時代劇映画の現場でも常に行われていたことだ。この映画が、硬直した時代劇…ひいては日本映画のパターンの打破という姿勢において、最先端と言うよりむしろこれら往年の巨匠の映画づくりへの回帰とさえ思える点はとても興味深い。

 そういう意味では浅野、永瀬といった旬のスターを配したキャスティングは見逃せないものの、何より弁慶を演じた隆大介に注目すべきだろう。実質上の主役である彼は、晩年の作品とは言えさすが「影武者」などの黒澤時代劇を通過した俳優とでも言うべきか(もっともそれら黒澤作品の彼は大していいとは思わなかったが)。この作品の中で、見事にかくあるべき時代劇の臭いとでも言えるものを体現していて見事だと思う。

 くどくどと七面倒臭いことを述べてきたが、これら新しい映画たちはどれも難しい作品でなく、あくまで大衆娯楽作品としてつくりあげられているところが素晴らしいのだ。ちょっとこの文章では大げさに語りすぎたが、実際のところ「五条霊戦記」は大傑作であるかどうかと言えば疑問が残るし、破綻している点も多い。しかし、こうしたタイプの映画が今後数多く生まれるであろうこと、そしてそれらの先駆け的にこの作品が生まれたことは、大いに注目すべきことではないかと思う。いささか危うげで穴だらけの私の拙いこの感想文からも、そのあたりの雰囲気を感じ取っていただけたら幸いである。

 型にはまらない、これらの柔軟さを持った映画に接するにあたって、我々も常に新鮮にモノを見ることの出来る柔軟な目を養っていきたいものだ。これが今の私の正直な気持ちなのである。

 

 

 

 

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