「ひかりのまち」

  Wonderland

 (2000/09/18)


面白うて、やがて哀しきハンパもんの宴

 人間も40年以上やっていると、冠婚葬祭ってやつには詳しくなるよね。特に結婚式。僕は自分のをやったことはないから、当然、他人のだけどさ。

 冠婚葬祭ってのは人生の営みに密着したもので、いろいろその背後ではドラマがあるんだろうけど、結婚式の場合はある程度その舞台裏に回ることもあるから、余計それを感じるわけ。特に僕はなぜか披露宴の司会頼まれることが何度かあってね。声がでかいからだろうか。妙にこういうことには場慣れしてるんだよね。

 何でこんなこと言ったかというと、先日友人宅で昔の結婚披露宴を撮ったビデオテープを見たんでね。それで、つい思い出した。

 で、本当に裏を知ってると笑っちゃうことって多い。到底運動神経がいいなんて見えない男が、自分の披露宴では媒酌人に「スポーツ万能」なんて紹介されるしね。友人連中はみんな笑いをかみ殺すのがやっとだったっけ。ああいう宴席では美辞麗句並べるから余計おかしな事になるんだよね。もし神様のいたずらで俺が披露宴なんかすることになった時、俺のことを「スポーツマン」なんて言う奴がいたら必ず殺す(笑)。

 ある披露宴では新郎が最後に誓いの言葉を述べることになり、マイク握り締めて「××(新婦の名前)を幸せにします!」なんて宣言したのはいいけれど、あまり張り切り過ぎて「しま〜す!」のカン高い声がマイクを直撃。列席者はみんな鼓膜を痛めそうになったっけ。もうちょっと音程が高かったら「ブリキの太鼓」のハインツ・ベネント坊やみたいにグラスやシャンデリアを割ったかも(笑)。もうほとんど超音波のギャオスの雄叫び。

 まぁ、僕もいろいろ結婚式出ているけど、中には入り組んだ事情のカップルもいる。テレクラで知り合った二人というのもいて、媒酌人が慣れ染めを紹介するのに困った…ってケースもあったらしい。最近で言えばネットで知り合った二人なんてのもありえるだろうけど、本当にそれで恋愛したり結婚まで発展する人っているのかね? オトーサン・オカーサンの世代では、ほとんどテレクラ同然に思われちゃうかも…(笑)。インターネット=エロサイトってイメージもあるし。「DAY FOR NIGHT」みたいにマジメなサイトもあるのにね(笑)。こういうご両親はさぞかし説得も一苦労でしょうね。

 そういえば、新婦の両親に結婚の許しをもらいに行く直前、ラブホに寄ってやっちゃったって奴もいたっけ。何でよりによってそんな時に(笑)? モヨオシてしまったものは仕方ないとしても、まったくバチ当たりな話。この男、未来の嫁さんの父親の顔を申し訳なくてまともに見れなかったとか。そりゃそうだろう。お父さん、僕はついさっきお嬢さんを犯しました…とはさすがに言えまい(笑)。

 そして、披露宴に新郎新婦とワケありのお客がまぎれてるってことも大いにありえる。実際、あったんだ。それは披露宴じゃなくて二次会だからまだよかったんだけど、もう目が「ジャンヌ・ダルク」のミラ・ジョボビッチみたいにグルングルンいっちゃってる女が、「××さんはどこ? ××さんに会わせて!」とわめいて会場の入口でジタバタ。いや〜、あの時はこっちも生きた心地がしなかった。この過剰な反応はかなり怖かったよ。

 でも、式典ってやつは整然と、そして淡々と進んでいくんだよね。そこではもう何年も前から行われてきたように儀式が執り行われていく。司会者の口調も、プロじゃなくって僕がやっている時でさえ、ヒワイな冗談ひとつ交えず常套句で固められていく。陰でどんなヘマや悪さやドジふんできたか分からないような、どんなしょ〜もないハンパもんでも一応キチンと社会の一員になったかのように振る舞う

 そう言っちゃうと、僕はそんな儀式を否定的に見ているように思えるだろう? 確かに自分だったらカッタルイかも…と思わなくもないが、必ずしも無意味なものとは言えないんだよな。それはそれで意味があるものなんじゃないかって、この歳になると思えるわけ。若い頃はそりゃ偽善の固まりに見えたよ。でも、そうとばかりも言えない。

 あの儀式の中味なんかガランドウで、参列している連中だって新郎新婦に限らず友人両親、一族郎党に至るまでハンパもんしかいない。若い頃はそれがウソの固まり、愚の骨頂のように思えたんだけど、それが違うんだよ。つまり老若男女みんな等しく、冠婚葬祭の時ぐらいはキチッとして、日頃はハンパもんだろうけど今後はキチッとした社会人として振る舞うべく気持ちを新たにしよう…という再確認の場なんじゃないか? そういう場を節目節目につくって、明日からは少しは真人間に生きよう…と(笑)、そういう願いみたいなものもあるんじゃないかと思えるんだよ。この世の中は所詮いくつになってもハンパもんしかいないという事に気づいてから、何となくそう思えるようになった。いとおしきかな、人間(笑)。

 そう考えれば何もかも楽なものさ。結婚式だけじゃなく結婚そのものだって、よしんば人生の営み全てセレモニーと一緒。一応、社会的にこうあるべき…という規範はあるだろうけど、どうせそれ通りに出来てる奴もカップルもいないだろ? 人類みな兄弟のハンパもの。そう深刻に考えるなよ。考え方変えれば、あいつにもこいつにも何とかやれてることだろう? ならば彼にだって彼女にだって僕や君にだって出来ない訳ない。どうせみんなハンパもんなんだから(笑)。自分たちが世界最低ってわけじゃないだろう。そりゃ不幸にもうまくいかない事もあるだろうが、それはたまたま巡り合わせが良くなかっただけ。それだけの事だよな。

 披露宴終わってホッと一息つくころには、街にはまた昨日と同じ夜がやってくる。雑多な連中が虫のようにざわめいて発光する、まばゆい光の洪水が溢れようとしているんだ…。

 

「ひかりのまち」の住人はハンパもん揃い

 髪の毛をクリクリっと巻いて中華料理屋というかシューマイ屋のイメージ・キャラクターみたいにしている(笑)ジナ・マッキーは、まぁどこにでもいそうな普通の女の子。でも、実は伝言ダイヤルに自分のPRを録音して、男が誘ってくれるのを待っている。さりげなく気楽にやってます…みたいな顔をしてながら、その実かなり焦ってるみたいなのだ。

 今日も今日とて、ねるとんパーティー(笑)みたいのに参加して男としゃべってみるのだが、どうもいい感じではない。しゃべっていた男をほっぽり出して帰ってしまう。これやられた側からすると、えらくムカつくよ(笑)。彼女もこんな事がいいとは思っていない。第一こんな事をして男探ししているなんて知られたくもないだろう。だけど、そうせずにはいられない。店の外は夜のロンドン繁華街。ネオンや街灯や街の明りがキラキラキラ。人はみなせわしなく、自分の事で頭がいっぱいになりながら街を行きかっていく。

 彼女の姉のシャーリー・ヘンダーソンは、幼い息子ピーター・マーフリートを育てながら美容師として働くいわゆるシングル・マザー。しかし離婚後の彼女の私生活は、それなりに奔放で男出入りが絶えない。アソコにクモの巣なんか絶対生えないね。

 また妹のモリー・パーカーは現在妊娠中。でっかいお腹でカレシのジョン・シムとともに暮らす彼女は、幸せそのものに見えた。でも、実は彼シム君のほうには、いろいろ頭を悩ましているとこあるんだよねぇ。

 そんな三姉妹の両親は…というと、子供たちを全部独立させて二人だけで暮らしてるんだけど、何とも冷え冷えしてるんだよ。姉妹の親父ジャック・シェファードは元気なくってうなだれてばかり。奥さんのキカ・マーカムは年柄年中イライラして、隣家の犬から亭主に至るまで罵倒しまくり。とにかく感じ悪いババア。

 何でこんなに両親の夫婦仲冷えてるのかというと、亭主がイマイチ情けないってこともあるけど、それだけが原因じゃなさそう。実は三姉妹には弟エンゾ・チレンティがいたけど家出してしまって音信不通。どうも、そのへんが関係あるみたい。

 その弟チレンティ君は、ある場所で恋人のサラ=ジェーン・ポッツとホテルで自分の誕生日を祝ってる。誕生日のプレゼントはあ、た、し…(笑)とか言われちゃうと、男たるものそれは過激に反応せざるを得ない。ただ張り切ったあげく、後で腰痛や筋肉痛を引き起こすと情けないっす。女にもバカにされるしね。チレンティ君はまだ元気だからガンガンやっていいんだよ。でもこの恋人、ただアソコの按配いいだけでなく性格もよさそう。たまにはご両親に電話したら?との忠告もするのだが、すぐまたナニが始まってパンツはく間もないので、そんな事すぐ忘れちゃうんだね。チレンティ君もそんな事まるっきり気が進まなそう。おらおら…親の事なんざどうでもいいから、それよりコレ何ていうのか言ってみな?え?それ言わなきゃダメ?ああ…ナニ?声小さくて聞こえねえよ、なによイジワル…てな睦言がいつまでも繰り返されてて、ヤッテらんねえよ(笑)

 中華頭の次女ジナ・マッキーは、伝言ダイヤルで見つけた新しい男と会う。この男スチュアート・タウンゼンドは広告カメラマンで、何となく波長も合ってイイ感じ。つい次に会う時のパンツの色まで決めてるマッキーであった。気が早え〜んだよオマエは(笑)。

 長女のシャーリー・ヘンダーソンの家には、前の亭主でジョン・レノン顔のイアン・ハートがやってくるヤァヤァヤァ(笑)。今日は父親ハートの方が息子ピーター・マーフリートを預かる日。父子二人肩を並べて、男同士とくればサッカー見るとイギリスじゃ相場が決まってる。しかし、見てるうちにガマンできなくなって、子供放っぽり出して酒飲みに行っちゃったりするあたり、この父親自身がまだガキなんだよね。つい子供のことより自分の好きなこと優先してしまう。このあたり「白い刻印」のニック・ノルティの父親ぶりといい勝負。

 その頃、長女ヘンダーソンの働く美容院で髪をいじってもらいゴキゲンの三女モリー・パーカーだが、ひょんな事から亭主の働く会社に電話して、亭主がとっくに辞めていることを知って愕然。僕も昔、会社を黙って辞めたのがバレた時は面倒なことになったよ(笑)。大きなお世話だって〜の。

 で、この日はずっと息子を面倒みる日なのにも関わらず、イアン・ハートは息子にジム・キャリー映画のビデオ(ってだけで趣味が悪い)渡して外出してしまう。どこへ行くかと思っていたら…着いたのは酒場で、何と次女のジナ「中華頭」マッキーと待ち合わせじゃないの。

 もっともマッキーにしてみれば、このハート登場はビックリだった。彼女は、伝言ダイアルで知り合った全然別の男とデートのつもりだったから。実はハートがたまたま彼女のメッセージを見つけ、声色使って別の男になりすまし、デートの約束取り付けたのが真相。でも、いくら何でも実姉の元亭主と付き合う気なんてないわと一蹴し、マッキーは退散。ハートはフテくされて酒場で酔っ払う。

 でもマッキーも、今日のデートがフイになったら何となく寂しい。そうだ、この前会って好感度大のスチュアート・タウンゼンドの家に行こう。ところが彼の家に行ったら、何だかオカシな気分になってくる。しまった、急な話だからバーゲンで買った安物のパンツはいてきちゃった。でも、ここで止めたらムードぶち壊しだからなぁ。それは、やっぱりこういう場面で、男がアレ着けるタイミングを悩むのにも似た、実に絶妙な呼吸なんですなぁ(笑)。

 三女モリー・パーカーの家では亭主のジョン・シムが辞職話をしようと思っていながら言い出せず、今日こそ…と思っていた。そこにすでに真相を知ってしまったパーカーの罵倒が飛ぶ。すっかり防戦一方のジョン・シムは、とにかく雰囲気変えたいと買い物に行くと言い出す。俺はコックになりたいんだ、これから買ってくる食材でうまいもん食わせてやる、そしたらおまえだって俺の気持ち分かってくれるだろ。情け容赦ない嫁さんの攻撃にタジタジのシム君は、あわててバイクを近所のスーパーまで飛ばして必死にお買い物。だけど、その最中にプッツ〜ンとヒューズ飛んじゃうんだよね。

 どうせあいつは分かってくれやしねぇや。

 面倒くさくなった彼はバイクで走り去る。街の喧騒と光のカオスの中に飲み込まれていくんだよ。

 三姉妹の実家じゃあ母親キカ・マーカムのイヤミについに父親ジャック・シェファードがキレる。おまえは誰のことも悪く言うだけ。だから息子のエンゾ・チレンティがイヤ気がさして出て行ったんだよ。マーカムの方でも隣家の犬が吠えてうるさいと、毒薬飲ませて殺すキレっぷり。心底ひねくれ曲がったイヤなババア。

 そして翌朝、一晩もイアン・ハート親父に放っておかれたピーター・マーフリート少年は付き合いきれなくなって、酔いつぶれて寝ている父親を置いて外出。そのまま行方が分からなくなってしまう。また夜が来れば今夜は花火大会。少年が楽しみにしていた晩なんだが…。

 

ハンパもんをいとおしむ、共感する気持ち

 み〜んなハンパもん。一人としてご立派な奴はいない。「ひかりのまち」に住む彼らは、どいつもこいつもロクなもんじゃない。しかもカッコ悪い。でも、わかるんだよねぇ。大なり小なり我々もみなこんなもの。さすがにかなり歳くっちゃった世代になると、自分はちゃんとしててマトモな人間なんだとガンとして言い張っちゃったりするけど、こういう人たちはもう脳が老化しているので放っておきましょう。どうせすぐ死ぬし(笑)。

 とにかく、この映画の登場人物にはキレイごとでない実感がある。そう言えば、難病ものというジャンルに入れようと思えば入れられる旧作「GO NOW」にしても、途中に主人公ロバート・カーライルの所属するサッカー・チームの下品かつしょーもない振る舞いを延々見せて、見る者の涙を見事に枯れさせていたっけ(笑)。「ウェルカム・トゥ・サラエボ」のユーゴ少女も、自分が生き残るためにはためらいなく母国と親を捨てる。マイケル・ウィンターボトムって人の映画では、いつもキレイごとってぬぐい去られてるんだよね。それが劇的な盛り上がりを阻害するとしても、あえてそうしちゃう。そういう意味ではウィンターボトムってある種の映画のリアリストと言えるのかも。

 でも、そういう点から見ると今回の「ひかりのまち」は、そこまでの情け容赦なさが陰を潜めているのかもしれない。

 いろいろあってテンヤワンヤの夜。混乱の中で出産した三女モリー・パーカーは、失踪した夫のジョン・シムと病院で偶然に再会する。彼がバイク事故でかつぎ込まれたからだが、ここで子供が夫の希望通りアリスと命名されたことが知らされ、シムは「不思議の国へようこそ!」と生まれたばかりの赤ん坊に話しかける。このくだりは、雑然として楽しいばかりじゃない現実世界のことを、あえて「不思議の国のアリス」の世界になぞらえて見せる、脚本の図式的な意図がミエミエになっているかも。そもそも、たまたま妻が出産した病院と夫が負傷して運び込まれた病院が同じで、バッタリ再会してしまうという趣向が「らしくない」とも言える。また、ずっと音信不通だった息子のエンゾ・チレンティから両親のところに連絡が来るあたりもしかり。でも、これは今回これでいいんだと僕は思うんだよ。

 終盤近く、夜景で街の明りがいくつも画面に点在するさまを映し出すあたりで、僕はまったく別の映画をフイに思い出した。前にも「季節の中で」の感想文で触れたあの作品、「モスクワは涙を信じない」だ。エンディングに「モスクワは涙を信じない、信じるのは愛…」という内容のシャンソンみたいな歌が流れて、ヒロインの住む団地の窓の灯からカメラが引いていく場面。無数の窓の灯が夜の闇の中に輝いている様子が映し出された時、その窓の灯の一つひとつにそれぞれ人の暮らしがあるんだな…などと、珍しく人並み中学生並みの感慨を抱いてしまった…。あのしみじみとした感じが、今回「ひかりのまち」を見て再び蘇ったのだった。

 それはキレイごとっていうんじゃないね。登場人物をいとおしむ、愛する気持ち共感する気持ちがそうさせるんだろう。だから、ウィンターボトムは今回の作品をいつもより幅広い範囲の観客に見せたいと思ってたんじゃないか? 頭でっかちの屁理屈ミニシアター映画ファンだけじゃなくって。

 だからといってウソっぽくならないように手は打ってる。粒子の荒い16ミリの高感度フィルムを使って実際の街の中をアクティブに撮影することによって、何とかリアル感を出してお話の出来すぎに見える部分を払拭しようとしている。そしてそこまでしても、あえて今回は希望のあるエンディングを選択したということだ。

 あのマイケル・ナイマンの音楽ですら、いつもピーター・グリーナウェイ作品や「ピアノ・レッスン」なんかやってる時の、怖くて重苦しくて冷たく聞こえるゴリゴリギコギコのストリングスのサウンドが、ここではなぜか不思議と優しく響く。それはたぶんウィンターボトムの意図をナイマンの音楽がピッタリと反映させた結果だろう。

 世の中や人生について単にキレイごと描くのではなく、しかし突っぱねるような冷たさで描くわけでもない。そんなこの作品のエンディングのほのかな明るさは、キツさツラさ醜さみっともなさを知り辛酸をなめた上であえて選択した、優しさと希望なのではないかと思えるのだ。そして、それはウィンターボトムという作家の、より一歩先に進んだ成熟なのかもしれない。

 世の中はクソで人生はクズだと言ってられるうちは、まだ人間幸せだ。人ごとと思えばこそ冷たく凝視もできる。しかしそれを我がことと思えば、ダメ押しして無下に冷たく放り出す訳にもいくまい

 息子を放って遊んでたイアン・ハートのダメ元亭主、ダメ父親ぶりを口汚なくなじっていた長女シャーリー・ヘンダーソンが、それでも息子にはそっと「ロクでなしの父親だけど、あれでもおまえを愛しているんだよ」と言う場面にも、そんな意図はハッキリ現われている。

 それは、自らもハンパもんと認識した人だけが持つ、希望と幸福を求める切実な祈りなのだから。

 

 

 

 

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