「太陽は、ぼくの瞳」

  The Color of Paradise

 (2000/07/31)


「運動靴と赤い金魚」の監督の新作

 昨年公開された外国映画にも、いろいろな傑作や話題作あったよね。その中でも「運動靴と赤い金魚」なんて、爽やかな感動を生んで結構注目集めたんじゃないかな?

 「運動靴〜」も他のイランから来た名作の例に違わず、子供を主役に日常的な話を淡々と描く作品ではあったけど、メリハリの効いた演出、ヤマ場の盛り上がり、エンディングの余韻…と、アートシアター系の映画として見るよりよく出来た娯楽映画として見たほうが楽しいんじゃないかと思わせる、映画を見る喜びに満ちた作品だったよね。

 特にヤマ場のマラソン大会のシーンのエキサイトメントなんて、アメリカ映画もかくやの盛り上がり。見ているこっちも「がんばれ!男だ!」と思わず応援してしまうような、スタローン映画なみの興奮があったりした(笑)。こんなところからも、僕は他のミニシアター作品の青白くひ弱な「良心作」の中に埋もれさせてはもったいないと思ったりしたんだよね。

 そんな「運動靴〜」の監督マジッド・マジディの最新作がやってくる。それは、またまた子供を主人公にしたものではあるんだけど、ちょっと前作と趣が違う。

 新作「太陽は、ぼくの瞳」は、目の見えない少年の物語なのだ。

 

誰にも愛されていないと感じたとき

 モハマド少年は目が見えないので、首都テヘランにある全寮制の盲学校に預けられて勉強していた。しかし夏休みに入って、他の友達は親が引き取りに来てお家に帰っていく。でも、モハマド少年はいつまでたっても親が来ないんだね。先生も困ってしまう。

 そういや僕も昔、女を新宿紀伊国屋書店前で待って待って待つこと2時間ということがあったな。そしたらようやく来たことは来たが、悪かったなんて一言も言いやしなかった。待ったこっちの身にもなれって言うんだよ。暇で暇で疲れて…。しかしモハマド君の場合はチト違う。じっと待っている間、巣から落っこちてしまったヒナ鳥を巣に戻してやったりして大活躍。親が来ないんで気落ちはしているものの、僕らみたいにただ落ちこんではいない。何しろ彼にとっては、回りの自然はかなり騒々しい。いろいろな事が起きているのが彼にはわかるのだ。それに引き替えこの俺は、その時とっくに女の心が俺から離れていることすら気付かなかった大ボケ、あきめくら(政治的に正しくない表現・笑)。

 ひたすら待って待ちくたびれた頃に親父がやっと現われるが、この親父は髪が薄いだけでなくサエないツラしてやがるんだよな。何となくオドオドして疲れて卑屈で。実はモハマド君の所に来る前に先生のところに寄って、モハマド君を夏休みも預かってくれないかなんて無茶なお願いしてるんだよね。モハマド君のお母さん、つまりこの親父の嫁さんがだいぶ前に亡くなってて、モハマド君を面倒見れないらしい。でも、学校としても夏休み中預かれるわけないんで即却下。親父はイヤイヤ、息子のモハマドのところにやってくるのであった。

 そんな親子がバスに揺られてお馬に乗って、田舎の山の奥まで帰っていく。モハマドは家に帰れるんで大喜びなんだけど、親父の表情は冴えないんだよねぇ終始。

 そういや、川で水と戯れてるモハマド君を見つめてる親父の顔は、ちょっと危なかったぜ。あの表情はひょっとすると…。

 まぁそんなこんなで故郷の村へ。おばあちゃんも歓待してくれる。2人の妹も飛んできた。うわ〜最高!お家に帰ってきたんだ!

 ところがシケた親父も、故郷に戻ると別な意味でイキイキし始めたんだね。テヘランで一生懸命買い集めた土産物を包んでイソイソと出かける。ある家の庭先をのぞき込むシケ親父。すると、そこにいた女が恥ずかしそうに目を伏せるではないか。イヤよイヤよも好きのうちではないが、万国共通女の思わせぶりポーズのパターン。親父はもうヨダレたらさんばかり。ハフハフハフと犬みたいにシッポ振って、女のお家に入っていく。この国はまだ年寄りがイバってる国だから、まずお土産はジジババ連中に。女はお茶を持ってくるだけで顔も見せずに引っ込むが、憎からず思っていることはビビッと伝わる。お土産もらってゴキゲンなジジババどもは、まぁまぁ悪いようにはしねえからと調子のいいことを言う。なるほど、こんな再婚話がいつの間にか進行しているのだな。ジジババどもの色よい返事だけで泣かんばかりに喜ぶシケ親父。はぁ〜一人身の寂しさはタマキンにこたえるぜ。もう、パンパンに腫れ上がってんだよ、パンパンに。

 その頃、モハマド君はそんな親父の思いと欲望を知ってか知らずか、おばあちゃんにせがんで妹たちと地元の学校へ。点字の教科書をスラスラ読んで、ちょっとしたヒーロー。やっぱ故郷は楽しいな〜。

 しかしこいつがタマキン満タン親父の気に触る。新しい嫁さんもらうとなれば、この目の見えない息子がどうしてもジャマだ。どうにかして家から遠ざけたい。それを学校に通わせるだなんて、何を余計なことしやがるんだクソババア。俺には俺の考えがあるんだ。もうタマキンの中の精子が、熱海の旅館「ハトヤ大漁苑」のテレビCMでガキが抱えてるお魚みたい(すげえローカルなネタ)にピッチピチ跳ねちゃってる親父の頭にゃ、この再婚の障害になるような事を受け入れる余地はまったくなくなってる。

 その親父なりの考えとやらはすぐに明らかになる。ここからさらに山奥の人里離れた場所に、盲目の大工が働く仕事場兼住宅がある。そこに引き取ってもらって仕事も教えてもらえば一挙両得だ。…こうなっちゃうと、もはや自分のタマキンの心配しかできないシケ親父。だがねぇ…さんざこの親父をボロクソにコキ下ろしたものの、確かにマジで女に夢中になっちゃったりすると、頭ん中はそっち一辺倒になっちゃうもんね。

 バアサンはこんな親父に猛烈に反論。モハマドのためだなんて偽善丸出しの言い訳する親父を思いきり罵るものの、親父は言うことききません。もう意地になってる。

 で、うまいことダマして海を見せるとか言って、帰り道に例の盲目の大工の家に連れて行ってしまうんだね。イヤだイヤだと叫んでみても、モハマド君の願いはかなえられない。結局彼は大工の家に置き去りにされてしまう。

 それまで気丈に明るく振る舞って、泣き言ひとつ言わずに頑張ってきたモハマド君も、これにはさすがに気持ちの糸がプチンと切れる思いだったんだろう。

 「誰も僕を愛していない、みんな僕がじゃまなんだ」

 感極まって泣く彼のその魂の叫びとでも言うようなうめきには、見ている我々も胸えぐられる。でも、それは外国の見知らぬ盲目の子供がかわいそうだからなんかじゃない。そんな人ごとなんかじゃない。たぶん我々自身が程度の差こそあれ、誰でも少なからず同じ思いをどこかでしたことがあるからなんじゃないのか。

 僕も子供の頃から自分が愛されていないと感じてきた。モハマド君みたいな厳しい現実くぐり抜けてる子供と一緒にするなとは言わないでくれ。もちろん比較にならないとはわかっているけど、確かに心の痛みがあったことだけは本当なんだから。そして、子供の時代に愛を実感できるかどうかということは、人間にとって本当に大事なことなんだと今は思う。僕は自分がいかにケチでつまらない人間かということを思い知らされてきた。だから愛されなくて当然だとも言われてきた。実際、本来の自分はつまらない人間だと思い、子供時代から本当の自分を隠してもっと「面白い」人格に化けた。それでも、それは元々の人格じゃないから、実際に人間的魅力を持った奴には勝てないと思い知らされてきた。

 だから、初めて無条件に人に愛された時には、とてもそれを信じることが出来なかった。こんなロクでもない人間をどうして愛せるのだ?何もつくってない素の自分のままなのに? こんな俺を誰が欲しがるというのだ?

 

真のエンターテイナーの作品

 バアサンはモハマド君を救出するため出かけようとするが、そこに親父が立ちはだかった。俺だってツラいんだ、他にどうしろって言うんだ。

 確かにツラい。この親父の気持ちわからないではないのだ。決して映画はこの親父を一方的な悪役に描いたりしていない。そしてバアサンもこの親父の気持ちが痛いほどよくわかるんだよな。

 その後、バアサンは病気になった。そして、くたばった。

 バアサンの葬式の後、例の再婚しようとしていた女の家から、親父がセッセと貢いだ土産物が突っ返されてきた。バアサン死んだから縁起悪いので、この話はなかった事にしてくれと言うのだ。ドツボに落ち込む親父。俺のこのタマキンどうしてくれるんだよぉぉぉぉぉぉ〜! 今まで一生懸命やってきた事はどうなるんだよぉぉぉぉぉぉぉ〜! 泣くなシケ親父。そんな事で破談にしてくる家や女など、こっちから願い下げと言ってやろうではないか。どうせあんな女なんか水戸泉の婚約者なみのくわせもんに決まってる。仮に結婚したところで二子山部屋のおかみさんみたいに不倫にはしるのがオチ(笑)。

 バアサンは死ぬ、再婚はポシャる。完全に打つ手なしの親父は、仕方なくモハマドを大工の家から引き取る。…と言って、これからどうすりゃいいんだろう。森内閣の経済政策並みに先のビジョンが全くない親父であった。

 しかたなくモハマド君をお馬に乗っけてトボトボ帰る山道。渓流にかかる橋をわたっていたとき、突然橋が落ちてお馬ごとモハマド君が落っこちてしまうのだ!

 一瞬躊躇する親父。しかし次の瞬間には親父も川に身を踊らせる。激流を流されていく二人。ここはハッキリ言ってアクション映画のノリなんですよ。ちゃんと映画的な見せ場になってるの。それなりの迫力があって、キレのいい演出があって、ハリウッドや香港みたいにアクション映画つくろうと意図的にやってるんだよ。

 思い出してみればこの文章の冒頭にも書いたけど、前作「運動靴と赤い金魚」ヤマ場のマラソンシーンはまさにアメリカ映画的にアクションしていたもんね。映画を面白く見せようという信念がある。ここが真のエンターテイナー、マジッド・マジディ監督の真骨頂なんだね。だから、この人の作品をミニシアター的な脆弱で不健康な映画の見方で見たくないんだよ。もっと図太いんだ、この人の映画の姿勢は。

 激流を流されていく二人。途中、自分だけ助かろうとすれば助かる機会もあった親父。確かに一瞬ままよ…と思ったのは事実。しかし結局そんな考えもかなぐり捨てて、一緒に流されていくんだね。

 で、ふと気付くと海辺まで流されてきていた。砂浜で目が覚めた親父は、そこに同じように流されてきたモハマド君の姿を見る。しかし彼、グッタリして動かないんですよ。ダメだったか…。モハマド君の体をがっちり抱きしめて泣く親父。しかしその時、ダランと垂れていたモハマド君の腕が、弱々しくではあるが動きだす。そして、どこからともなく光明がさしてくる。この瞬間は感動的だ。

 それは単に気絶していた彼が息を吹きかえしたというだけではない。親父の愛を初めて実感した彼が、半ば死にかけていた心を蘇らせた瞬間なのだ。

 愛されて初めて、そして愛されてると知って初めて…人は、自分が生きるに足る存在なのだと悟るのだから。

 

 

 

 

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