「白い花びら」

  Juha

 (2000/07/24)


講演用台本/部外秘

 

(演者、壇上にて発声。)

 紳士淑女のみなさま、本日は私、「(演者氏名)」の映画講釈に耳を傾けられるために、お忙しい中かくも大勢の方々にお集りいただき、まことにありがとうございます。

 本日のお題はフィンランドが誇る鬼才監督アキ・カウリスマキの新作「白い花びら」。35ミリ、モノクローム、今日すっかり珍しくなったサイレント作品を、この私による語りと合わせて楽しんでいただくという趣向でございます。今回は字幕スーパー間に合わなかったため、大変申し訳ありませんが、私の語りのみを頼りとする鑑賞となってしまうことを、あらかじめご容赦お願い申し上げます。

 さて、何と言っても今回の呼び物はこのサイレント! チャップリン、キートンらの喜劇役者やD・W・グリフィスなどの全盛の昔ならいざしらず、今日きわめて珍しいサイレント作品をあえてつくろうとするとは、いかなる深遠な意図があるのでございましょう? 今日はそのあたりも興味を持ってご覧いただきたく思います。

 なお、上映時間は1時間18分でございます。どうぞ最後までごゆっくりおつきあいの程よろしくお願い申し上げます。

(演者、壇上より降りる。)

(消灯。フィルム上映スタート。)

(以下、演者はフィルムの進行と平行して語る。)

 さぁ、大きく黒字に白の文字で映し出されましたタイトルは「JUHA」。これは本編の主人公ユハのことであります。今、画面に映るバイクを運転している男こそ、そのユハ。後ろに座る女はマルヤで、彼の妻であります。二人は今まさに青空市場にキャベツを売りに行くところ。二人が丹精こめてつくったキャベツは、愛情をたっぷりふくんで育ったせいか、飛ぶように売れる売れる。二人は親子ほども歳が離れて見えはしますが、それはそれは幸せなのでありました。それにユハは髪がまだフサフサしておりますから…髪が薄くなると、あぁ無残にも、それだけでひときわ女との年齢差が際立ってしまうものであります。

 場面変わって、いかにもエエカッコしいのスポーツカーが走っております。「フォーエバー・フィーバー」の金持ち息子を見るまでもなく(笑)、こういう車の持ち主にロクな奴はおりません。音楽も不吉に鳴っております。運転しているのはニヤけたシュメイッカという都会の男。スポーツカーが故障して、ユハの家に助けを求めたのが、運命の別れ道ではありました。

 ユハに車を治してもらっているうちに、シュメイッカはズカズカ家の中へ。そこにいたマルヤに早速目をつけるあたりは、さすがニヤけ男の面目躍如であります。

 君は彼の娘か?いいえ妻です、あのサエない奴の?もったいないなぁ、あの人はいい人です、でも歳が離れすぎだよ俺と一緒にどう?…って、やかましいわ! サエなくて歳くってて悪かったな! (ここアドリブで適当に。)

 ちょうどその時、亭主のユハが入ってきたので事なきを得ますが、このお人好しの亭主、一体どんな会話が交されていたのか知るよしもありません。客のシュメイッカに酒をふるまい、孤児だったマルヤを育てて妻にしたいきさつを、情緒てんめんと語るのでありました。この男にとって唯一の自慢であり、宝であるマルヤ。だが、お人好しほどバカを見るのは世の中の常であります。シュメイッカはユハの目を盗んでは、贅沢をさせてやるよ車もマンションも買ってやる、君は田舎にゃもったいない、すぐに迎えに来てやるよ…とな具合に調子のいい事並べて甘い言葉で誘います。こんなクサい台詞に効き目があったのか、この男が去った後、マルヤの心は大きく揺れ動きます。ついには口紅を自分の唇に塗りたくってオバQみたいにしたり、ユハをすっかりバカにするようになったのでした。

 果たしてシュメイッカは戻って来ました。何も知らず歓迎して酔いつぶれてしまったユハを一人置いて、マルヤはシュメイッカと共に去ってしまうのであります。残されたのは一通の置き手紙のみ。

 やがて逃避行の二人は湖のほとりで一休み。ドライブで、男が女に「休んでいこう」と言えば、やることは決まっております。私個人は経験ありませんが、野外でいたすというのは、それはそれは趣のあるナニでございましょう。一度は試してみたいものではございます。

 さて、やっと目覚めたユハは手紙を呼んで愕然。そう言えば、そんなオッサンと付き合うのやめろとか友達みんなに言われたって言ってたっけな…そんなに年齢差はハンデだったのか。今さら嘆いてみても始まらない。あわてて警察に行きますが、自分の意志で出て行ったものはどうにもならないと剣もホロロ。こういうことにもストーカー対策にも、警察は結局何の役にも立たないという点では、洋の東西を問わないのでございます。

 さて、都会に着いたシュイメッカとマルヤは高級ホテルへシケこみましたが、翌日、シュイメッカはマルヤを置いて外出へ。やがて代理の男がマルヤを連れて行ったところは…女たちが男たちと戯れる怪しげなサロンなのでありました。ここまでくれば、否、ここまで来なくても、シャイメッカなるいかがわしい男が、そごうをシャブりつくした水島会長みたいに人間のクズということはわかろうというもの。しかしながら、どこまでもウブなマルヤの目には、倉木麻衣が宇多田ヒカルのパクリだということや、森首相の頭の中味はカラッポだということと同じくらい明白な事実が、まるっきり見えていなかったのでありました。

 

(フィルムの上映は継続中。)

 さて、ここから先は無心にスクリーンさえ見ていただければ、より面白く堪能していただけるので、私の語りのほうは映画のじゃまにならない程度に進行させていただきます。

 さて、今回もっとも注目されるポイントとしては、この上映会冒頭で掲げましたように、サイレント映画として制作されたということであります。今なぜサイレント映画なのでありましょう?

 その理由の一つとしては、そもそもアキ・カウリスマキという映画監督の作品は、あまり饒舌なものではなかったということが言えるでしょう。どんな登場人物も黙々と運命を受け入れているようで、決してペラペラしゃべって状況を打開しようとするタイプの人物ではありませんでした。「コントラクト・キラー」では主役にジャン・ピエール・レオーを迎えたことがありましたが、海外の批評ではこれをバスター・キートンのような演技と評したほどですから、元々カウリスマキ映画にはサイレント的なテイストが存在したと考えるべきでありましょう。

 では、今回は特にどこが違ったのでしょうか?

 映画をここまでご覧になればよくおわかりのように、ストーリーとしては、大通俗メロドラマとしか言えないようなコテコテのお話。前から人をくったようなお話が多かったカウリスマキ映画ではありますが、今回のメロドラマぶりはパロディでもオチョくりでもなく、正面切って真面目そのものであります。

 で、今日び濃い〜ドラマというものは、一般のお客さんにとって受け入れ難いものがあるんです。何ともウソくさく人工的な感じがするんですね。

 ところで映画というものは記録という一面があって、そこがリアルさという要素と結び付くところがあるんですが、もう一つ忘れちゃあいけない映画の要素があって、それはウソ=つくりものという面なのですな。

 ところが現実にはトーキー、カラー、大型スクリーンとフォーマットの進化が進み、フィルムの粒子もどんどん細かくなってハッキリくっきり写るようになり、「リアル」な面というのはどんどん強化されていったんですが、もう一方の「つくりもの」の面がどうしても今一つ進んでいかなかった。これには時代の気分というのもあって、戦後のリアリズム重視の風潮にあって、つくりものは敬遠されるようになってきたこともあるんですね。

 最近になってSFXやCGの発達による「つくりもの」回帰の雰囲気が生まれはしたんですが、この「つくりもの」がヘタをすると現実の「リアル」さを凌駕するシロモノなんで、これはまたちょっと違うんじゃないかと思うのです。

 近日公開の「タイタンA.E.」ってアニメの予告編なんか、CG見事すぎちゃってこんなにリアルなら何でアニメにしなきゃいけないのか分からない。予告で流れてるロックの安さ(笑)とか、途中で挿入される「反撃をはじめよう」とか「さあ出発だ」とかのコピーの寒さ(笑)もたまんないんですけど。…まぁもっとも、本編は面白いかもしれませんよ(笑)。

 映画において「つくりもの」が「つくりもの」なりの実感やリアリティを持って受け取られるには、何が必要か。それにはまず、映画というものが実に単純な概念しか観客に伝え得ないということを肝に銘じなくてはいけない。さらにそういった本来の性格から考えて、映画で綴られる物語というものは一種の「例え話」や「おとぎ話」…つまり「寓話」の類でなければならないということを、今一度ここで頭に叩き込んでおかなければなりますまい。

 そしてそういう「寓話」の類のよりよい描き方はと言うと、一種の象徴性を持って描くということが必要になってくるわけです。

 で、作品世界の中に「象徴性」を一貫して保とうとした場合には、先に挙げた「映画にリアリティを持ち込む武器」が一つ一つじゃまになってくるのです。粒子が細かく高感度のフィルムじゃ写りすぎてしまう。ワイドスクリーンでは、フレームが広すぎてしぼりこんだ世界を描きこむのが困難だ。カラーでは意図した色彩以外の余計で曖昧な色まで再現してしまう。

 同じようにドルビー、サラウンド…うんぬんのようなサウンドトラックでは、聞かせようとする音声以外のサウンドもそこには存在していないと不自然だ。つまり、聞こえ過ぎてしまう。そもそもトーキーの音のある世界とは、ゴチャゴチャ余計な音が聞こえている現実世界の再現になりがちなんですね。

 このように、すべてにクリアに表現しまう先端技術の映像音声世界が、そうした作品の性格=「雑然として統一感のない現実世界の再現」を要求してしまうんです。

 もちろんこうした高等技術を「武器」として、情報量の多さで圧倒して観客に一つの世界観を提示するのが、今の娯楽映画の一つの在り方となっているのですが、かつての純度の高い娯楽映画のように、情報をしぼりこんで絞りこんでピュアな状態にまで昇華したような作品は、生まれ出にくい現実があると思うんです。できなくはないと思いますが、かなり困難ではありますね。

 今回のサイレント新作への挑戦は、カウリスマキのこうした風潮への反逆精神があったのではないでしょうか。

 だから今回の「白い花びら」では、お話としてはテレビの「水戸黄門」なみのワンパターンなのに、後半にはお話が何ともダイナミックに進んでいく。これが普通のリアリズム重視の映画作法では、思いっきりシラケたんじゃないでしょうか。始まって間もなくはサイレント映画流の演出として俳優演技をかなり派手にわざとらしくしていたので、見ている方としては違和感を感じざるを得なかったのですが、物語が自力で進行し始めた中盤以降については、演技も演出も必要以上にわざとらしくする必要もなかったようで、ただただ物語そのものと登場人物の感情のうねりに身を委ねているような状態。久しぶりに味わう純粋な映画体験でした。

 現在、奇しくもわが国では、ほぼ同時にシンガポール映画「フォーエバー・フィーバー」が公開されています。別の機会にこの作品にも触れましたが、これはこれで映画における「リアル」と「つくりもの」という2つの要素に真っ向から立ち向かった映画として、実に興味深い存在です。映画が歩んできた20世紀の最後の年に、この2本の作品がそれぞれ西と東の映画の「辺境」からわが国を訪れた偶然をかみしめながら、両作をご覧になるのもまた一興ではないでしょうか。

 これにて「白い花びら」全巻の終了でございます。みなさま、ご静聴ありがとうございました。

 

 

 

 

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