「ザ・ハリケーン」

  The Hurricane

 (2000/07/24)


ボブ・ディランの衝撃的なシングルレコード

 ボブ・ディランがローリング・サンダー・レビューと銘打ったワールドツアーをスタートさせたのは、1975年のこと。僕がまだ高校1年生の頃のことだった。

 その前にディランはザ・バンドと組んでアルバム「プラネット・ウェイブス」を発表、同時に大規模なワールドツアーを行って「復活」をアピールしていた。その興奮がさめやらぬうちの素早い活動再開だから、僕も一般のロックファンも驚かされた。しかし、今回は前回のザ・バンドとのアルバム&ツアーとスタイルも一新。何とディランは顔を白くお化粧して、まるでグラムロックのアーティストみたいだったのにはたまげた。ところが、サウンドの面ではグラムロックとは似ても似つかぬものだったので二度ビックリ。前回は当然ザ・バンドによるロックバンド・サウンドで彩られていたが、今回のローリング・サンダー・レビューのツアーならびに同時発表のアルバム「欲望」では、フィドルを大胆に取り入れてぐっとアコースティックなサウンドづくりに向かっていた。女性ヴォーカリストのエミルー・ハリスをアルバム&ツアーで全面に出したのもこの時。結果として、このアルバム&ツアーが彼女の出世作となった。そしてこれらの核となったのが、衝撃的な新曲「ハリケーン」だった。

 当時、日本に住む僕たちは、今のようにアメリカや他の国々の情報をリアルタイムで受け取ることなどできなかった。だから、ルービン・“ハリケーン”・カーターなる黒人ボクサーの名など知るよしもなかった。まして、そのボクサーが無実の罪で投獄されているなんてことも。

 しかし、その曲が実に衝撃的な内容を持っているであろうことは、英語がわからず歌詞の意味も満足に知らなかった当時の僕でも、一聴してうかがえるほどインパクトがあった。歌詞対訳カードを見て、無実の黒人ボクサーが不当逮捕されて、牢獄に放り込まれていることを物語りふうに歌っていることがわかったが、とにかく8分半以上に及ぶこの曲の長さに圧倒されたというのが正直なところだろう。アルバム「欲望」ではA面1曲め。この曲でスタートするため、アルバム全体に緊迫感が走る。しかしすごいのが同時発表された「ハリケーン」のシングルだ。当時、45回転17センチのシングルレコードでは当然この曲を片面で全部収録できず(おそらくシングルレコード片面に収録された曲としては、ビートルズの「ヘイ・ジュード」7分13秒が最長ではないか?)、途中でフェイドアウト、フェイドインして前半と後半に分け、それぞれシングルレコードのA、B面に収録したんだね。これは前代未聞のことだった。

 海外から伝わってくるニュースでは、このディランだけでなく、さまざまなスターや文化人たちがハリケーン救済に乗り出しているとのことだった。これだけ大きな盛り上がりなら、きっと彼も牢獄から出ることができるだろう。大した確信もなくそう思っていた僕だが、「ハリケーン」のヒット、そしてローリング・サンダー・レビューが遠い記憶のかなたに消えていった頃には、そんなことを考えることもなくなっていた。

 そして、時は西暦2000年。僕は40代になっていた。

 

「書いた言葉」が人を選び出す

 映画「ザ・ハリケーン」は、実に雑然とした始まり方をする。モノクロ映像の最盛期のハリケーン=デンゼル・ワシントンの試合ぶり。彼は実に猛烈なファイターで、相手を圧倒的になぎ倒す。そして元々のきっかけとなった殺人事件のあらましと、ハリケーンの逮捕。そこで無理やり彼を罪人に仕立てようとしているのを隠そうともしない、ダン・ヘダヤ刑事が登場してくる。そして投獄されてからの場面。そこには、身の証しを立てるための本の原稿を警察側に奪われるのではないかと、神経過敏になっている彼がいる。

 後年、出版された彼の本が、古本となってカナダで教育されている黒人少年の手元に入ってから、物語が動き出すわけだが…このように、この映画ではいくつもの時制が交錯し、同時進行する。で、これがミソなんだね。

 さっきのカナダの話に戻ると、環境保護活動などをやっているジョン・ハンナ、デボラ・カーラ・アンガー、リーヴ・シュレイバーの三人のカナダ人が、ブルックリンの黒人少年ヴィセラス・レオン・シャノンを引き取って、自分のところで育てながら高い教育を受けさせようとするくだりが、かなりのウェイトを持って描かれる。

 で、この黒人少年レオン・シャノンが、ある日、古本市で手に入れたのが「ハリケーン」の本だったのだ。これはまさに運命的な出会いだった。ハリケーンがこの本を書いたとき、この少年のことなど知るよしもなかった。当然、少年に読ませる気もなかった。それなのに本は…彼が書いた「言葉」は、少年に届いてしまった。「書いた言葉」には、そんなパワーがあるんだね。

 僕にもこのホームページを始めて駄文を並べているうちに、いろいろ思ってみなかった出会いがあった。たぶん人生を左右するような出会いも…。でも、それはみんな自分の「書いた文章」がもたらしたものなんだね。この映画の中でも、少年の育ての親のカナダ人が「本が人を選ぶということもあるんだよ」なんて言う一幕があったが、確かにその時、僕の「言葉」がある人を選び出していたということはあるのかもしれない。

 そして少年のほうも、この本に一気に引き付けられていった。悲惨にも少年院送りにされた時から狂い出したハリケーンの一生。そして、実はその時から彼を目の敵にするダン・ヘダヤ刑事。翻ってラッキー以外の何者でもない自分の暮らしに気づくレオン・シャノン少年は、徐々にハリケーンに人ごとではないものを感じていくんだね。…一つ間違えば、僕もこの人のようになったかもしれない。

 このように、この作品は一見デンゼル・ワシントン扮するハリケーンのワンマンショーと思われ、確かにそういう一面もあるにはあるが、実はこのカナダで育てられた黒人少年の部分が非常に比重高いのだ。この映画は孤独に戦ったハリケーンの物語というより、実は黒人少年たちと知り合うことによって変化していったハリケーンの心の物語とも言えるのである。

 

希望を持たなければ自由だ

 すっかりハリケーンに傾倒したレオン・シャノン少年。感激して獄中のハリケーンに手紙を出すが、その時点までにハリケーンにはさまざまな葛藤があった。理不尽な投獄に対して抵抗する不敵な自分、すっかりおびえ切った自分、憎悪を煮えたぎらせる自分。…そして長い間にすべての希望を押さえつけ、絶望しきることにより失望に無縁となり、精神の自由を得るに至ったハリケーンだった。

 そう、誰かに怒るのは、その誰かに少しでも期待があるからだ。何にも他人に期待しなければ怒りも失望もないだろう。僕も長年ずっとそう思っていた。牢獄に閉じ込められたハリケーンとは比べるべくもないが、深い失望を味わった人間なんて大なり小なりそうしてる。希望を持たねば失望もない。そうすれば自分は自由だ。これは、まさに僕がずっと考えていたことだ。

 時にそんな僕でも誰かに、何かに希望を見い出してしまうことがあった。そして、つい気を許し、心を開いてしまうことも…。結果はやはり苦い失望だけ。希望を持たなければ、こんな苦痛を味わわずに済んだのに…もう二度とごめんだと固く心に誓う。

 ハリケーンもそう思っていたに違いない。だから、外界からの接触を一切断っていた彼は、レオン・シャノン少年からの手紙も見るのに気乗り薄だった。しかし、そんな彼が結局手紙を読んだのも、これは何かの運命か。

 そう…だれかが「その言葉」に耳を傾ける時がやって来る。そして、どんなに頑なになった心にも、こじ開けられ、光が差し込む時が来るものなのだ。

 

ノーマン・ジュイスンの帰還

 希望かなってハリケーン=ワシントンの面会に行くレオン・シャノン少年。そこに現われた威厳あふれる男の姿に、少年はすっかり感銘を受ける。そのうち少年の熱心さに打たれて自分たちもハリケーン救出に乗り出すカナダの三人の育ての親たち。しかし、再審のための試みがすべて挫折に終わると、耐え切れずにハリケーンは連絡を断った。

 そんな彼の心を再びこじ開けたのは、やっぱりレオン・シャノン少年だった。そして新たな証拠固めを進めて、連邦裁判所での最後の戦いにすべてを賭けるのだった…。

 この映画の主役、デンゼル・ワシントンの演技は確かに素晴しい。彼を見るだけで飽きない。だが、この作品を語るにはもう一人の男に目を向ける必要がある

 この映画はノーマン・ジュイスンの監督作品なんだよね。この人は1960年代に多彩な作品を手がけて才人ぶりを発揮した人。リベラルな社会派テーマまで、洗練された娯楽映画の語り口で見せるあたりが見事だった。だけど、近年はちょっと元気なかったかな。で、ジュイスンと今回の主役ワシントンっていうと、最近のある事件を思い出すんだね。それは「マルコムX」映画化に際してのトラブル

 最初「マルコムX」映画化を進めていたのはジュイスンだったというのは周知の事実。ところがスパイク・リーもこれをやりたがって、例によって例のごとしの個人攻撃を始めたんだね。白人にマルコムを映画化できるわけないという例の論法。これはジュイスン、かなり傷ついたと思う。

 だって、彼は1960年代の人種問題が紛糾していた頃、「夜の大捜査線」を堂々ハリウッド・メジャー映画として制作したサムライなんだぜ。そんな彼の誇りを知ってか知らずか、スパイクのチビは彼を偽善者呼ばわりしたんだから。てめえはナイキのCFつくってるくせに(笑)。で、ジュイスンは静かにこのプロジェクトから手を引いたんだね。だけどでき上がった作品見たら、果たしてスパイクが監督してよかったのやら(笑)。あいつがやったのは、ただマルコメ味噌の坊やの野球帽みたいのを売りさばいたことだけ。

 だから、ジュイスンはその傷ついたプライドを取り戻す機会を待っていたと思う。しかも、今度は決して偽善のレッテルを自分に貼らせてはならない。1960年代のリベラル魂見せてやる!

 だから主役はデンゼル・ワシントンでなければならなかった。しかも、本でハリケーンのことを知って助け出そうとする黒人少年がいて、それをバックアップするカナダ人の白人男女三人がいて…という、一見まどろっこしい構成が必要だった。もちろん、この作品は実話で、カナダ人がそこに介入したというのはジュイスンの創作ではない。だが逆に、ジュイスンがこれを映画化に踏み切ったきっかけは、このカナダ人の存在にあったことは間違いないだろう。ご存じの通り、ノーマン・ジュイソンはカナダ出身の映画監督なのだ。

 そういう意味で、黒人少年と一緒にこのカナダ人男女三人がハリケーンを面会する場面は、象徴的な意味を持つ。このカナダ白人男女がハリケーンに同情するような発言をするとき、ハリケーンは決然と言い放つ。「あんたらには決して分かりはしない!」 それは、「マルコムX」準備の時に、ジュイスンがスパイク・リーから投げつけられた言葉の痛みの再現だろう。

 そんなジュイスンが、俺には確かにわからない、わからないけども何とかしたいのだという、断固としたステートメントを再びあえて掲げようとするのがこの作品といえる。だから、この映画はある意味で、限りなくジュイスンのプライベートフィルムに近いとさえ言えるはずだ。

 例えばこのカナダ人の男女は、どの程度ハリケーン救出に熱心だったのか? 何でそんなに無償の行為を一生懸命にやったのか? 映画ではそこのところが全くわからない。それを説得力あるかたちで描けなかったのは、この映画の欠点だと言えるだろう。

 しかし、それでも何とかかんとか力業で、彼らの善意を観客に信じ込ませて最後まで見せてしまうのは、ジュイスン自身がこのカナダ人たちを信じて疑わなかったからだ。彼らにジュイスン自身の思いを託したからだ。…俺は本気で思っているんだ、信じろ!

 いよいよ終盤の連邦裁判所で、判事役にあの「夜の大捜査線」のロッド・スタイガーが出てこなければならなかったのも、こうなれば明らかだよね。千両役者スタイガーの登場には、思わず胸が熱くなったよ。

 ハリケーンのリターンマッチとなった連邦裁判所での戦い。しかし、スクリーンの外でももう一つの戦いがあったはず。

 「ザ・ハリケーン」…それは1960年代を潜り抜けてきた男ノーマン・ジュイスンの、自身の映画人としてのプライドを賭けた巨大なリターンマッチだったのである。

 

 

 

 

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