「サイダーハウス・ルール」

  The Cider House Rules

 (2000/07/17)


忘れがたい、ささやかな「罪」の味

 僕が禁煙してる話って、前にしたよね。

 …もとい、禁煙じゃなくって単に吸うのやめたって話(笑)。1995年の誕生日からこっち、一切タバコ吸うのをやめてしまった。

 一切?

 う〜ん。実は例外があるんだけどね。ある時、ほんの何本か吸ってしまった。それだけなんだけどね。

 本当は僕は物事に例外を設けることを嫌う人間なんだよ。だって、例外つけたらキリがないでしょ?

 それ以前に、このタバコを吸わないってことについても、僕なんかだらしない人間だから「禁煙」じゃなくって単に「吸わない」ってことにして、自分を言い聞かせなければやめられなかった。ウソでも自分の部屋にタバコを置いて(とっくにシケって吸えっこない)ライターまで用意してる(とくにガス抜けてる)のも、そういう言い訳のためなんだね。「やめる」と決意しちゃったら逆にやめられなくなりそうだから。

 だから、吸わなくなってからは全くトコトン吸わなかった。その後一本でも吸ったら、たちまちこの誓いも崩れ去りそうだと思っていたんだね。だから、どんな席でも頑なにタバコは拒んだ。自分の意思がいかに弱いか身にしみて感じていたからね。

 そんなある日のこと、僕はそんな長年の自分の誓いを破ってしまったんだよ。実はまぁ正直に言うと女にそそのかされたわけなんだけど(笑)。挑発されたんだよ。それで、ついグラッと来ちゃって(笑)。まぁ、この日は特別。吸ってもいいかな…と。

 実際、その後に喫煙の習慣が復活したかといえば…ノー。ほんの小さな、大した事もない、たわいのないお楽しみだっただけだ。何だかあんなにムキになってタバコを拒絶していたのがバカらしくなった。まぁ、どんな事だって、見直してみればそんなものかもしれないね。

 それにしても、僕が長いブランクを自ら破ってタバコに火をつけた瞬間の、ちょっといたずらっぽく満足げだった彼女の微笑みは、今でも忘れることができない。

 この事について(他の事もそうだったが)頑なでそれまで一切異論を許さなかった僕に、一緒に煙をくゆらせながら彼女はこう言ったのだった。

 「たまに決まりを曲げてみると、楽しいもんでしょ?」

 優しく、どこか寂しげな微笑みが印象的だった彼女は、僕にタバコを勧めた時も決して無理強いした訳じゃなかった。僕が吸わないからと言って責めた訳でもバカにした訳でもなかった。そもそも、人のことを決して裁いたりすることのない人だった。

 あの夜、彼女は僕に何を伝えたかったのだろう? 硬直しちゃった物の考え方はよくないってことか、それとも人間には曖昧な部分があったほうがいいってことか、ちょっとレールをはずれたからって駄目になっちゃうような誓いなんて無意味だってことなのか。あるいは、自分の決まりに振り回されるなんておよしなさい…って言いたかったのかもしれない。それとも…?

 もし再び問い直す機会があれば、その意味をぜひ知りたかったんだけどね…。

 

わがごひいきマイケル・ケインを見る映画として

 ジョン・アーヴィングという作家の小説は今まで2作映画化されてきたが、いずれもハズレがなく、僕も個人的にとても好きだった。

 まず、ジョージ・ロイ・ヒルが映画化した「ガープの世界」。これはロビン・ウィリアムズ、グレン・クロース、そしてジョン・リスゴーの出世作となった。

 そして、僕はこっちのほうがさらに大好きなのだが、ジョディ・フォスター、ロブ・ロウ、ナスターシャ・キンスキーらが主演したトニー・リチャードスン監督の「ホテル・ニューハンプシャー」。

 いずれも人生についてのまなざしに共通するものを感じる。次から次へと主人公たちの身に降りかかる事件は大半が悲劇的なものだ。しかし、あまりにもつるべ打ち的にどんどん襲いかかってくるせいか、はたまたその合間合間にはさまるエピソードがスットボけてユーモラスなせいか、ストーリーだけを文面に書いてみると悲劇以外の何者でもないはずなのに何となく淡々とホンワカしてる。しかも、どこか突飛で寓話的で決してリアルではないのに、人生の実感に満ちている。何とも不思議な感触の作品なんだよね。実際の本を読んでいないからわからないんだけど、映画におけるアーヴィングの世界ってのはこんな手触りだった。

 ところが、実はこのアーヴィングの世界に極めて近い感触を、僕はまったく違う映画から感じ取ったのだった。それは何と日本映画の旧作、成瀬巳喜男監督の「おかあさん」。田中絹代が主役の「おかあさん」を演じるこの作品、娘の香川京子の目を通して描く母を中心としたある一家の物語だが、ある日突然父親が死ぬわ、生活苦で末っ子がもらわれていくわ、とにかく不幸がどんどんアッと言う間に次々起こるが、それを激しく嘆いている間もなく次の事件が起こる。しかも合間に何となくほのぼのエピソードがはさまっていくから、全体の印象は悲劇ではなく淡々としたもの。そして、胸に迫る人生の実感と哀感…。もしジョン・アーヴィングがこの映画を見たらきっと気に入ると思うし、アーヴィング・ファンならぜひだまされたと思ってご覧になってはいかがだろう

 それはともかく、そんなアーヴィング・ワールドに新たな一作が加わるとあって、僕はこの作品、すっごく期待していたんだよね。しかも監督は「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」「ギルバート・グレイプ」のラッセ・ハルストレムとくれば、その何ともデリケートな味わいが、このアーヴィングの世界にぴったりではないか。それに、実はごく初期にハルストレムは、あの「アバ/ザ・ムービー」も撮ってるんだってね? それだけでも、僕は彼を高く評価しちゃいます(笑)! 本人は忘れたい過去かもしれないけど(笑)。

 今年のアカデミー賞でも高く評価されて、アーヴィング自身(何と今回は彼自身による脚色だ!)とともに、助演のマイケル・ケインまで受賞というめでたさだからね。

 特に僕は、このマイケル・ケインに大注目だった。彼は、僕の大のごひいき俳優なんだよね。とにかく彼は何でも出る。仕事断わることがないんじゃないか? 出演本数は膨大なもので、そのジャンルも多種多彩。その中に傑作は数少ないけど、そこがまたご愛敬(笑)。そんな彼が僕は大好きだった。アーウィン・アレンのパニック大作に呼ばれても、「ポセイドン・アドベンチャー」や「タワーリング・インフェルノ」じゃなくって「スウォーム」とか「ポセイドン・アドベンチャー2」に出ちゃうケイン。ピーター・ベンチュリー原作の映画化作品に出ても、「ジョーズ」じゃなくって「アイランド」。やっとその「ジョーズ」に呼ばれたかと思えば、もはや鮫もカスしか残ってないようなシリーズ4作目「ジョーズ87/復讐篇」。しかも、その「復讐篇」の撮影のために欠席したオスカー授賞式で、初の助演賞を獲得しちゃう。授賞式蹴ってまで出る映画かよ(笑)。ジョン・ヒューストン、ドン・シーゲル、ジョン・スタージェス、ニール・サイモンら巨匠名匠の作品に出演してはいるが、いずれも彼らのフィルモグラフィーでは冷遇されているものばかり。たまに当時イキのいい若手ブライアン・デ・パーマが放った大ヒット・スリラー「殺しのドレス」に主演すれば、ケインは堂々たる主演スターなのに、なぜか変態サイコ殺人鬼役というオカシサ。

 この人は名前も知られ、ハリウッドで主役もバンバン張ったスターで、かつ本拠のイギリスでも名優の誉れ高い人であるはずなのに、なぜかこれと言ったヒット作傑作もほとんどない。しかも、それなのに第一線でがんばり続けてドンドン出演作を増やしてた不思議な人。どうしてヒット作なしにスターであり続けていたのかと言えば、それなりに名前も知られて大作感が出る割に、実はギャラ安かったんじゃないかな(笑)。だから、いっぱい映画に出なけりゃならなかったんだよな(笑)。だって、すごい時には年に5本ぐらい主演作来たよ。日本未公開も入れたら実際の数はどれくらいになるんだろう? 全盛期のアラン・ドロンだって、こんなにすごくなかったんじゃないか?

 だが、そんな彼も「ハンナとその姉妹」での思いもかけぬオスカー助演賞獲得が仇となった。やっぱ、こういう人は偉くなっちゃいけなかったのかな。彼のエージェントが欲でも出してギャラを上げたのか、出演作が激減してしまった。僕はがっかりしちゃったよ。しかも、やっとたまに作品くるかと思えばスティーブン・セガール映画「沈黙の要塞」の悪役だぜ。そりゃないよな。

 そんな彼が久しぶりに大役を演じてる。しかも、大好きなアーヴィング映画。しかもしかも、それで2度目のオスカーを得たとくれば…これは見るしかないだろう。

 「サイダーハウス・ルール」はだから、僕にとってまさに待ち遠しい映画だったのだ。

 

ある孤児の青年の旅立ちの軌跡は…

 本作の主人公トビー・マグワイアくんは、田舎の孤児院で生まれた孤児。この孤児院はちょっと風変わりながらも孤児院にすべてを捧げて働くマイケル・ケイン院長を中心に、やさしい看護婦さんたちジェーン・アレクサンダーとキャシー・ベイカーをお母さん役にして、大きな家族のような優しさに包まれて日々が過ぎていた。

 この孤児院には、当然子供のできない夫婦が養子をもらいにちょくちょくやってくる。しかし、われらがマグワイアくんは、もらわれていっても毎回ここに舞い戻ってくるはめになるのだった。しかたなくケイン院長は自らが父親代わりになって、マグワイアくんに医術を教えてやる。この孤児院で行われる主な医術とは…それは非合法的な医療行為。つまり堕胎である。しかし、青年になったマグワイアには、この堕胎手術がイヤでイヤでたまらない。いくら大好きで尊敬するケイン院長が「これは人助けなんだ」と言い張ってみても、どうしても納得できないのは青年ならではの潔癖さなんだろうね。

 それ以外には安心と暖かさだけに包まれた孤児院だけど、マグワイアには夢があった。それは、ある年齢になると誰もが見る夢…広い世間を見てみたい、自分の可能性を試したいという夢だ。

 ある日、この孤児院に車で一組のカップルがやってくる。軍服姿のポール・ラッドと恋人シャーリズ・セロンの二人の目的は、当然堕胎。とは言っても、手違いで妊娠させてしまったセロンのことを、ラッドは深く愛していた。「この次は生もうな」と声をかけるラッド。

 セロンの入院中に二人と親しくなったマグワイアは、彼等に自分の夢を託す気になった。彼女の退院とともに自分のちっぽけな荷物をまとめたマグワイアは、二人の車に同乗して孤児院から去ることにした。

 別れはいつも切ないもの。マグワイアの自立をどうしても認められないケイン院長は、素直に気持ちを伝えられない。しかし、身を切られるようにツラい別れの寂しさにブルーになってたマグワイアの心は、すぐに広い世間に飛び出した解放感に包まれた。ラッドが親切にも自分の実家のリンゴ園で働いていいと言ってくれたので、行き場所もできたわけ。

 そのリンゴ園で、暮らしはラッドの母親のケイト・ネリガンの世話になり、リンゴ摘みの仕事はデルロイ・リンド率いる黒人チームの中でやることになった。男で一人で娘を育てながらチームを統率するリンドは、そのリーダーシップといい責任感といい、生活水準こそ低いものの一種の高潔さを感じさせる人物で、マグワイアは一目で惹かれた。最初黒人チームの中でたった一人の白人とあってどうなるか危ぶまれたものの、すぐにとけ込んで仲良くやるようになった。休日には、軍人として出征しているラッドの留守に一人寂しくしているセロンのお相手として、一緒に遊んだ。

 しかし、いいことはいつまでも続かない。いつの間にかマグワイアとセロンは、ラッドの不在をいいことに一線を越えてしまった。さらに、リンゴ収穫人チームのリーダーのリンドにも恐るべき秘密が…何と、彼は人知れず一人娘を犯して妊娠させてしまった…。マグワイアの中で、今何かが大きく変わろうとしていたのだった。

 

一体、誰に人が裁けると言うのだ?

 ご覧になればわかるけど、この作品の豪華メンバーには目を見張るんだよね。前出のケインはともかく、若手注目株のマグワイアは「アイスストーム」「カラー・オブ・ハート」に続き好演。今や売れっ子のシャーリズ・セロンまで登場。彼女は劇中ヌードを見せるけど、これが本当に変な意味なしで美しいんだよね。この映画といい、フランケンハイマーの「レインディア・ゲーム」といい、彼女いい仕事してますね! そして、マグワイアの孤児院仲間役のキーラン・カルキンは、「シーズ・オール・ザット」にこれと、大器の片鱗を見せて注目。「ロミオ・マスト・ダイ」にも出ちゃうデルロイ・リンドは、頼れる男の風格と、その反面のもろさと狂気を見事に演じてさすが。この役なんか単なる汚れ役にしようとすればできちゃうだけに、実にうまいなぁと見惚れる。

 だけど、そんな中でもピカイチなのが、やっぱりマイケル・ケイン旦那。院長としての威厳と、人里離れた孤児院に閉じこもる風変わりぶり。堕胎を善とする独自の倫理観、そして孤児たちに注ぐ無償の愛、そしてマグワイア独立の時に見せた独善。理事会にハッタリかますときの茶目っ気と、傷つき疲れた自らをエーテルで癒す孤独。肺炎で苦しむ孤児の死に涙するシーンのケインは、これは長年ファンをやってきた僕でも見たことのなかった表情で、思わず涙してしまったよ。圧巻以外の何ものでもない。

 それにしてもねぇ、「サイダーハウス・ルール」とはいいタイトルだよね。これは例のリンゴ園で働く労働者用の小屋に貼ってある規則なんだけど、ベッドでタバコを吸うな…とかいう夜のムード歌謡みたいなものならいざしらず、屋根に上がって昼飯を食うなとか、屋根の上で寝るなとか…ほとんどどうでもいい意味ナシの規則になっちゃってるのがミソで、劇中でもリンゴ収穫人グループの連中にバカにされているが、だいたい「ルール」なんてこんなものじゃないか?

 何年か前、日本で初めての屋内の人工スキー場ができたんだけど、実はそこのリフトには風力計が付いているんだとか。考えてもみろよ、「屋内」の人工スキー場だよ。何で風力計いるの? 何でも法律でスキーリフトには風力計を取り付けるよう義務づけられているので、役所に無理矢理取り付けさせられたとか。本当にバカだな、こんなこと指示した担当者の名前と住所と電話番号と知能指数を公表しろ(笑)!…ことほどさように、ルールなんて盲信すると現実から離れていく。

 ルールなんてなくなれとは言わない。だけど杓子定規に何でもこれに当てはめようとすすもんじゃないね。それは、法律なんかだけじゃなくって、僕ら一人一人の中にある既成概念もそうだ。

 ケインの院長の堕胎は良いことじゃない、でもそれを必要とする人だっている。自身それに厳しいまなざしを送ったマグワイアですら、結局同じことをせざるを得なかった皮肉。そして、マグワイアは結局無免許医だが、その彼が院長を引き継ぐほうがいいなら、何を文句が言えよう? ラッドの不在時に結ばれてしまったマグワイアとセロンも、それぞれ恩人と恋人に背いた訳で誉められたことじゃないが、どうしようもないことだった。結局セロンは下半身不随で帰還したラッドの世話を一生するという決心をして自らのオトシマエをつける。それは、堕胎で一度自らの生んだ生命を拒絶した彼女が、新しい生命を生むことをあきらめたことをも意味する。立派な人物だったはずのリンドが自らの娘を犯したことは決して許されるべきではないが、彼女の手にかかって殺されることで彼なりのオトシマエ=贖罪を果たした。そして彼女が父を殺したことを警察に黙っておくことは、法の上では正義ではないが、ものの道理というものだろう。人生は一筋縄にはいかない。人がそのシケた頭で考え出した「ルール」ごときで、何とかできるほど単純なものではないのだ。一体誰に裁けると言うんだ? 最終的なオトシマエは、自分の心の中の掟でつけなきゃいけない。

 我々は決して、屋内人工スキー場に風力計なんて付けちゃいけないんだ。

 

 僕が何年かぶりでタバコを吸ったあの日、彼女があの紫の煙に託して僕に言いたかったことは、今なら少しはわかる気もする。

 私を裁こうとはしないでね、私も、あるがままのあなたを受け入れるから…。

 自らの手で再びタバコに火をつけ、ほんのわずかの罪を味わった日…僕は今でも、そして一生、あの日を忘れはしない。

 

 

 

 

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