「エリン・ブロコビッチ」

  Erin Brockovich

 (2000/06/19)


まだガキの僕を襲った「政治の季節」

 昨日、不在者投票してきたんだよ。この24〜25日の土日と東京を離れるんで、衆議院選総選挙の投票に行けないんで。わざわざ不在者投票するなんて…と、ある人に感心されちゃった(呆れられてたのかもしれない)けど、これは一応僕としてはやっておかなくてはいけない儀式のようなものでね。もちろん棄権する人をとやかく言うつもりはない。僕にしたって、後々政治に文句言う権利を得るために投票所に行くようなものだ。それほど政治に高い意識持っているわけじゃない。それに、なぜか「政治に高い意識持っている」って感じの奴って、ネット上のディープな映画マニアにも似てイヤな奴ばかりだね。あれはどうしてかな(笑)?

 まぁ、ケンカ売るのもこのへんにして、そんな僕にも「政治の季節」ってのがあったんだよね。それも、早熟も早熟。何と今を去ること30年近く前。僕の「政治の季節」って、僕がまだ小学校高学年の頃のことだった。

 僕を好きなだけいたぶっていた悪魔的なガキが街を去り、僕はイジメから奇跡的生還。クラスも目障りな異分子がいなくなった状態となった。その時の担任の教師は、いわゆる金八ふう「熱血教師」。自分がいかに過去の教え子たちから慕われてきたか、どうやってその子たちの能力を自由に引き出したかの自慢話をイヤというほど聞かされて、当時のウブな私たち生徒はすっかりこの先生に心酔させられてしまった。今のクソガキどもと訳が違う。もっとナイーブだったんだ。そして、時代は激動の60年代の残照をいまだ引きづる70年代初頭。この先生がバリバリの日教組の活動家なんてことは、わかるわけない僕たちだった。

 僕たちはこの先生(こともあろうに、社会科の教師であった!)に社会の不正と矛盾とそれに対する戦いとを吹き込まれていった。北京やプノンペンの学校がそのまま引っ越してきたみたいだった。小学校の頃からバリバリの思想教育。右翼が左翼がいい悪いというより、物事の判断もつかないガキに思想教育を施すことの恐ろしさ、醜さがおわかりいただけるだろうか? 僕は(いや、僕だけではなくクラス全体が)たちまち毛沢東語録を読みふける集団と化した。

 道徳の時間には教育テレビの番組を見ずに、何と当時実況中継されていた連合赤軍による「あさま山荘」人質監禁事件の放送をライブで見せた。当然、僕らは大喜びだった。でかい鉄のボールが「あさま山荘」にぶつけられ、激しい放水が行われる様子をテレビで見ながら、この先生はつぶやいたものだった。「追いつめたらいかん、彼らが可哀想だ」…先生の頭には連合赤軍の連中より、もう何日も閉じこめられている人質女性のほうが可哀想だなんて考えは、これっぽっちもないようだった。

 まして「権力の手先」機動隊の人間が何人撃ち殺されても、まったく動じる気配はなかった。まっこと左翼の鑑!

 これに対して、我が家の両親は典型的「長いものにはまかれろ」主義。「お上には逆らうな」が家訓の家庭だから、親父は息子が「思想教育」をされたと大騒ぎした。まぁ、その政治信条のいかがわしさなら「熱血教師」といい勝負なのだが(笑)。ちょうど僕が反抗期真っ盛りということもあって、ますます左翼にのめり込むのに拍車がかかった。

 そう、僕は泣く子も黙る「サヨク」少年だったのだ。

 僕らは体制に逆らい革命を夢見ていた。クラスの元生徒たちは今はみんな恥ずかしくて口をつぐんでいるが、みんな同じだったのだ。「反対!」と言える雰囲気はなかった。それに心から賛同したくなる美しさがあったんだ、サヨク思想には。なにせ理想主義だからきれい事で、実現しっこないだけに甘く切ない。第一、サヨク思想では、それを実践する自分こそ腹黒いというポイントが見逃されてる。人間は汚いんだよ。金も欲しけりゃオンナも抱きたい。人よりちょっとでも威張りたい。実は「革命」なんて言ってる奴ほどそうなんだ。まぁ、そういう点なら右の連中だって五十歩百歩だろう。

 そしてこういう思想にはカリスマがいる。レーニン、毛沢東、金日成。ウチのクラスなら担任教師。みんなその人のためなら平気で命を投げ出したくなるカリスマがいるのだ。きっと過去の教え子たちもそうだったのだろう。でなければ、毎日聞かされる話のように、今でも慕われている訳がない。

 サヨク思想にずぶずぶにハマった僕は感動のうちに小学校を卒業、中学に上がって最初の正月が来た。今でも先生を慕う気持ちには揺るぎもなかった。もちろん革命の志も。

 ところが、先生は年賀状を送ってこなかった。

 あんなに生徒の心をつかみ、昔から生徒たちにいつまでも慕われるづけている先生。それがこともあろうに、気の緩みからか卒業して初めての年賀状を送ってこなかったのだ。もちろん僕の方からは出したよ。でも来なかった。僕だけでなく他の誰にも来なかった。僕は唖然としたよ。普通の先生ならさもありなん。でも、あれだけ自分を素晴らしく生徒思いでいつまでも慕われていると言っていた先生がだよ! 些細なことだと思うかい? 結局、その正月どれだけ待っても先生から年賀状は来なかった。そして、先生の年賀状を待っている間に、ゆっくりメッキは剥げていった。すべてはウソっぱちだと気づくまでさほど時間はかからなかった。この先生、僕ら生徒が大事だったわけでも何でもない。自分の政治信条をバラまく手段としてガキを利用しただけだったんだね。単なるマインド・コントロールだったんだ。

 その後、あまり小学校の同窓会にも顔を出さずにいた僕が、次にその先生に再会したのは、同級生の結婚披露宴だったかと思う。そこでこの熱血先生、元・中学時代の担任でまだ若い女教師が自分を差し置いてスピーチをやったもんだから面白くなかったらしく、酒に酔っぱらって「まだ小娘のぶんざいで」とかののしりはじめた。もう聞くに耐えなかったね。左翼カリスマ熱血教師の底が完全に割れたって感じ。僕はこの酔っぱらいのサヨクの残骸をおとなしくするようたしなめた。スカッとするぜ、先公を叱るってのはな(笑)。

 これ見ても、この先生のお寒い本質がうかがえるだろ? 他者への思いやりや礼節を欠いていながら、ご立派な「社会の理想」についてうんぬん出来るのか? この先生の偉そうな「理想」とやらには、肝心要の部分が欠けている。ハートが欠けているんだ。

 政治を語る人間には、右でも左でも大概このハートの部分が欠けているんだよ、どいつもこいつも。これは、体制側の政治家から住民運動とか人権運動やってる連中に至るまで一貫してる。はてはネット上のどこかの掲示板で偉そうなコメントたれる奴らに至るまで。だからみんな投票行きたくないんじゃない? イヤな奴らと関わり持ちたくないからな。

 天下国家の話はうんざり。理想主義もたくさん。もっとちっぽけな話…ハートの話をしようよ。例えば、これから登場するこの映画の人物たちみたいに…。

 

ブロコビッチは無礼で無知なビッチ女

 無学で無教養で何の資格も経験もなし、3人の子持ちでバツ二の女…ジュリア・ロバーツ扮するエリン・ブロコビッチは、まさにそんな女として登場する。売り物は見栄えのするエッチな顔とでかい胸だけ。仕事探してもどこにもない。あげく車が追突されてムチウチ症。泣きっ面にハチ。アルバート・フィニー扮する弁護士を立てて裁判をやり、いい線までいったのに、相手側の弁護士に挑発されて頭に来て言いたい放題。すべてオジャン。あげくアルバート・フィニーの腕前が悪かっただの文句たれ放題。確かにお先真っ暗だが、ハッキリ言ってこの裁判の結果はジュリア・ロバーツの自業自得なのに全然そんなことお構いなし。もう、このへんでこのヒロインにつき合うのがウンザリしてきた。

 あげくの果てに仕事が見つからないのもフィニーのせいとばかり、彼の法律事務所に押し掛けて仕事に就かせてもらったはいいが、やっぱりこれといった使い道がないんだよねぇ。フィニーも頭抱えちゃってんの。服の趣味もセンスも最悪で安っぽい売春婦みたいなのに、注意されたらブーたれてうるせえうるせえ。何でもTPOってものがあるだろ? だがどこかの映画の批評とか読むと、「自分に似合ってる服着てどこが悪い…と言う彼女は潔い」とか言ってる。これ書いた奴、本気で言ってるのかよ? 確かに着たい服着ればいい、ただしそれは自分のプライベートでな。

 今どきはどんな女でもクソもミソも「偉い」ってことにしちゃえばウケるってことなんだろうけど。でも、この女はひどい。だって何から何まで自分が悪いことまで人のせいにする。自分がどうしてこうなっているのか考えようとしない。反省がゼロ。こんな女見て「勇気づけられます」なんて言ってる奴いるなんて考えただけでイヤになる。男女限らずこういうてめえが最高、いつも正しいって言い張るだけの輩がもっと増えていくのかと思うとね。オレはこういう奴らのせいで、どれほど苦々しい思いしたか判らないからな。

 アルバート・フィニーもつき合いきれないと思ったか、何かの書類をつついてて興味を持ったロバーツが、「現地調査」したいと言い出すと、いい厄介払いと行かせることにする。これが良かったか悪かったのか。とにかく運命の分かれ道だった。

 そこでロバーツが見たのは、大企業が工場周辺に住民に黙って有害な六価クロムを垂れ流ししている事実だった。

 何日かして事務所に戻ったロバーツは、自分がクビになっていることを知ってまた激怒。でも、事務所に何の連絡も入れなきゃ当たり前だと思うんだけどね。ごめんとも何とも言わず、黙って雇ってくれたフィニーもののしってオサラバ。しばらくして事実を知ったフィニーが彼女の家にわざわざやって来て、復帰を促すときも態度はデカい。あげく自分の給料引き上げを交渉するんだから、どこまでも根性腐ったずうずうしい女。あげくフィニーのことを「弁護士って人種は、どうしても人に謝ろうって気がないのかしらね?」とかイヤミ言い放題。おまえに言われたくねえんだよジュリア。

 この女は近所に引っ越してきたバイカーの男に自分のガキの面倒全部見させてるけど、この男の胸の内なんざてんで気にしない。あげく、「あたしはやりたいことしたいのよ!」とわめく。ならばこいつは、女に何でもかんでも押しつけてる男たちと何ら変わりはしない。だが、この女は泣く子も黙る公害問題の追求やってるからねぇ、「正義の味方」相手じゃ文句が言えないよ。それがまた鼻につく。

 とにかく何かあるたびロバーツはフィニーに毒づき、当たり構わず場をわきまえず大騒ぎする。それがいい事だとは俺には到底思えない。みんなが言うようにこの映画のヒロイン素晴らしいと思う人ばかりの世の中なら、あまり俺も長生きしたくないね。

 ただこの女、デリカシーと常識と知性はゼロだが、根性とやる気だけはあった。この女が大企業の横暴に怒る気持ちに嘘はなかったんだね。地域の住民たちを何とかしなきゃあという思いはマジだった。そんな真摯な気持ちともともと気取ろうったって気取れないキャラが、地域住民にとっては受け入れやすかった。法律プロみたいな冷たさがなかったのが、勝因となってくるわけ。つまり、ただの公害訴訟屋でも環境保護ゴロでもないし、偉そうで冷たい法律の専門家でもない。「ハートの入った告発者」だったのが、ロバーツと他の奴の違うとこなんだね。

 そして、だんだんこの女がこうなるに至った理由も何となくわかってくる。地元のミスコンで女王になった彼女、人生それが頂点で後はジリ貧の一方。すぐに結婚して子供もつくっちまったツケで、人生に対する何の用意もしていなかった。傷つけられもした。そんな過去の苦い思いから、傷つけられる前に攻撃に出るくせがついてしまったらしいと察しがついてくるわけ。そうわかってくると、この女の口汚なさもちょっと今までと違って見えてくる

 一方、さっさと引退して楽したいとのほほんと考えていたアルバート・フィニー弁護士の心の中にも変化が現われてきた。このロバーツの気味が悪いほどのテンションの高さに引きずられるように、あえて勝ち目のなさそうな戦いにチャレンジしていくことになるのだ。眠っていた情熱が蘇ってくるんだね。さすがブロコビッチ、歩くバイアグラ(笑)。

 この二人の絶妙のコンビネーションが映画後半の見ものになってくるわけ。

 

映画を陰で支えるアルバート・フィニー御大

 それにしても、「セックスと嘘とビデオテープ」のスティーブン・ソダーバーグ監督、最初は「KAFKA」とか撮っちゃって、いかにも…って道を歩んでたけどすっかり化けちゃったよね。あの素晴しくスタイリッシュなジョージ・クルーニー、ジェニファー・ロペス主演の「アウト・オブ・サイト」には驚かされたけど、今度はもっと驚き。何でこうなっちゃったの? 

 ただ細かく見ていると、所どころで効果的に手持ちカメラのブレを利用していたりして、映像のスタイリストぶりは意外にも健在かも。

 ジュリア・ロバーツはね、今でこそマネーメーキング・スターなんだけど、元々は庶民性が売り物の人だったはず。出世作「ミスティック・ピザ」の男好きのピザ屋の店員、「プリティ・ウーマン」の売春婦と、生まれも育ちもあまりよろしくないような、どちらかといえば下品な女がピッタリな女優だったんだね。だから、今回の役柄は久々に本家帰りした好演と言えるかも。わかってるんだよね、自分の持ち味が。

 だけど、実は今回の作品最大のスターは彼女じゃないんだな。彼女を支える初老の弁護士アルバート・フィニーだ!! かつて1960年代にイギリスの若い映画人たちの波に乗って現われた彼。当然その当時の「トム・ジョーンズの華麗な冒険」なんかを僕がリアルタイムで見ているはずもない。そして、僕が映画を見始めたころ、ちょうどフィニーはあまり活発に映画出演をしなくなってたんだね。

 で、僕がその名前を初めて意識したのは、1974年の「オリエント急行殺人事件」。実は本編を見たのはずっと後のテレビ放映でだが、公開時に雑誌やテレビスポットでずいぶん彼の姿を目にすることになった。それまでこの人の存在そのものを知らなかった僕だけど、この映画でのエルキュール・ポアロ役フィニーの出で立ちには驚かされた。かなりキツめのつくったメイク。だ、誰なんだこの男は? 錚々たるオールスター大作の中で、主役の名探偵を演じる未知の俳優。知らないのは僕だけだったのだけれど、初めてのフィニー体験がこのポアロ役なので、僕の中でフィニーって今一つつかみどころのない役者と認識されていたんだね。

 その後も「ウルフェン」、「シュート・ザ・ムーン」、「アニー」、「ドレッサー」などポツンポツンと公開されていった彼の出演作。これら主にアメリカ映画で大スターを相手に堂々主役を張る彼を見て、フィニーって僕が知らなかっただけで実はすごい大物なんだと思わされていったが、まだ彼のイメージって僕の中ででき上がっていなかったんだな。まぁ、かつては「いつも2人で」でオードリー・ヘプバーンの相手役を若々しく演じていたこともあるんだから、ポアロでフィニーを語るのはいささかキツいはずだよね。

 彼の鮮烈なイメージを初めて感じたのが、1984年のジョン・ヒューストン晩年の作品「火山のもとで」。メキシコを舞台に、べっとりと死のイメージを身にまとった男を、飲んだくれのヘベレケ演技で見せてすごい迫力。この映画そのものはもう細部を忘れちゃったけど、フィニーがすごかったということだけは覚えている。

 そして、遅ればせながらそんな彼のイメージが僕の中でついに強烈に焼き付けられることとなったのは、コーエン兄弟の1990年作品「ミラーズ・クロッシング」でのことだった。何と言ってもガブリエル・バーンが圧倒的にクールでかっこよかったこの作品で、フィニーが演じるのはバーンの親分であるアイリッシュ・ギャングのボス。このボスが、もういいかげんいい歳なのに、現場での勘は少しも狂っちゃいない。敵のギャングに自宅を襲われたフィニー御大、慌てず騒がずベッドの下に隠れてから反撃開始。レコードがガンガン大音響で「ダニー・ボーイ」を奏でる中、仁王立ちでマシンガンをバリバリぶっ放し、刺客たち相手に一歩も退かない貫祿ぶり。いや〜これには惚れました。素晴しい!

 今回の「エリン・ブロコビッチ」でも、一歩間違えばヒロインが大見栄切って独善的に終わるオリバー・ストーン映画みたいになりかねなかったけど、このフィニーの好演が作品をかなり救ってる。ロバーツ扮するヒロインと徐々に芽生えてくる心の交流や連帯感の表現はさすが大御所。フィニーの食えない演技は、この映画の過度のヒロイン賛美をかろうじて食い止めて見応えある。

 特に素晴しいのはエンディングだ。それまでてめえこそ満足に他人に謝ったこともないくせに、またまたボーナスの事でゴタクを並べるロバーツ=ブロコビッチ。そこに我らがアルバート・フィニー御大が、痛烈で愉快で心のこもった一撃を加えるのだ! 映画をすっかりさらってしまったフィニー、さすがの鮮やかな幕切れ。これはぜひ映画をご覧になってください。

 そして、そこであっけにとられて脱力のロバーツの表情もいい感じ。今まで世間の逆風にどうしてもファイティングポーズをとらなければならなかった彼女の、それは初めて体験する親愛のかたち、初めて味わう他人からのリスペクトなんだね。まったくの未知の世界。だから途方に暮れちゃう。この映画の優れているのはここだ。公害告発映画とかそんなくだらないものじゃない。もちろん青筋立てたフェミニズム映画なんかでもない。これも人間のハートに関する映画なんだよな。政治の映画なんてクソみたいなものじゃないよ。

 でもね、人間が長年身につけてきた鎧を取り去って、素直になるって大変なことなんだよ。それって完全に無防備になることじゃないか。今までボカスカやられ続けだった人間からすると、急に愛されたり信頼されたり敬意を持って扱われたら、本当に戸惑ってしまう。もう他人を信じるまいと決めていた奴が急に誰かから大切な人間だと言われたら、コントロール不能になってしまうんだ。ラストでどうしていいか分からなくなるロバーツ=ブロコビッチの表情には、それまで他人への失礼な態度や攻撃的な姿勢を終始崩さなかったにも関わらず、実は心やさしい素朴な人間だったはずの彼女の素顔がかいま見えてるんだよね。ここで僕も、この作品全編通じての彼女の無礼許そうと思った。こういう奴なら僕も昔からよく知ってる。彼らならこんな時、こう言いたがるはずだ。

 もう少し時間をおくれ、あなたの優しさに慣れるまで。

 

 

 

 

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