「プロポーズ」

  The Bachelor

 (2000/06/12)


 人間にとってここは節目、天下分け目の天王山…って時の言動って、すっごく重要なんだけど、その時には自分で自分がコントロールできてないってことはない?

 自分の素直な気持ちにまかせりゃいいなんてよく言うけど、それがいいかたちで出てくる奴ってのは、実は意外と少ないんじゃないか? 大概の場合は長い人生の中で変なクセついちゃったり、トラウマに歪んだりしちゃってる。本当にホントの気持ちは、心の奥底に厳重にしまい込まれてる。自分でもそれがわからなかったりするんだよな。そういう人間のためにはリハビリのための時間というか、気持ちのゆとりを持って接してもらいたいんだけど、多くの場合そういう時って待ったなしの状況で事が進む。だから余計オカシくなるんだよ。そのへんが極端なかたちで出るいい例が、恋愛や結婚にまつわることなんかじゃないか。

 人間が本当に自分らしくふるまうにはどうしたらいいか、本当の自分の気持ちを探し当てるにはどうしたらいいか…これは実はいくつになっても、きわめて難しいことなんだと痛感するんだね。

 それをとってもくだけた口調で分かりやすく見せてくれるのがこの映画、何とバスター・キートンの古典的傑作コメディ「セブン・チャンス」を現代によみがえらせた「プロポーズ」だと思うんだけど。

 

男はたくましい野生の馬(笑)なのか?

 映画は独身貴族を謳歌しているナイスガイ、クリス・オドネルくんによる、自分たち男ってものに関するきわめてムシのいい自説披露からスタートする。いわく、男とは荒野を自由に駆け巡る荒馬のごときもので、広大な大地を駆けに駆け、あたりに生い茂る色とりどり味もさまざまの牧草を味わう…とくる。この実にムシのいい男性イメージは見ていて思わず失笑ものだが、これを見れば彼が自らの男としてのアイデンティティーをどうとらえているかが良く分かる。オドネルはたまたま野性の馬を自らになぞらえたが、男たちは他にもオオカミだのライオンだのトラだの…要はそれぞれ自分に勝手に孤高のイメージをかぶせている。どいつもこいつも運動不足の栄養過多で青白くってブヨブヨしているくせに(笑)。このへんの男のてめえに対する評価の甘さというか、ウヌボレかげんは笑えると同時に、私自身にとっては耳が痛いところ。どこがオオカミだよ(笑)? 実際、男も女も自分たちの性別を語るときにはひどく偉そうでてめえに甘いんだよな。逆に女たちは女たちで、女が世界を支配していれば世界から戦争がなくなるなんてアホな事マジで言うしね。笑わせるなよ。逆に第三次世界大戦が起きてるんじゃねえのか(笑)?

 フェミニストに怒られそうなんで話題変えて(笑)、ともかくこの導入部におけるクリス・オドネルくんの言い分はあまりに噴飯もので手前勝手なものながら、ある種の本音も多分に含んだものと言えるんだろうね。自由で気楽、責任何にも持たなくていい。それは確かにエゴイスティックな考え方で異性をバカにしているものだが、大なり小なり女だってそんなとこだろう。所詮人間なんて自分がかわいいものなんだ。…少なくとも私は長いことそう思って生きてきたんだよ。

 そんなオドネルくんは今回も付き合ってる女が煩わしくなって、お払箱にしようと愚にもつかない言い訳並べているところ。ところがそんな場面に偶然居合わせた女の子がかなりイケてる! そのまま恋に落ちちゃったのが、「ザ・エージェント」でトム・クルーズの相手役を好感度120パーセントで演じたレニー・ゼルウィガー。観客もオドネルも、今度の彼女はどこか違う、これホンモノと確信しちゃうんだよね。僕もそう思いました。

 ただ、彼を含めて周囲の男たちには結婚恐怖症が蔓延しているんだよね。だから何とかそういうムードになることを回避しようとしながら、一人また一人と女の罠にハマっていくように思えてならないわけ。まぁそれ言うんだったら、罠は女も一緒にハマっているんだろうけどねぇ(笑)。

 ここらで、じゃあおまえはどう思ってるの?と言われると、僕はちょっとこいつらと違うんだよね。僕の場合は、自分の母親が父親を呪う言葉をガキの頃から延々聞かされた経験が原点にあるからね。自分の女や女房も腹ん中じゃそんな調子で来るんじゃないかという恐怖があるわな。まず、そんな歪んだモノサシありきだから、女を選ぶ基準がまず間違っている。女に何を求めるのかも、自分が何を与えることができるのかも、まるっきり他の人々とは違ったところで考えていたんだよな。宇宙人みたいなもの。でねぇ…宇宙人とはなかなか共存できるもんじゃないよ。「ミッション・トゥ・マーズ」に出てくるように、バレーボールやってる時に円陣組むみたいな、お手手つないでなんてことができるほど世の中甘くない(笑)。だから、恋愛だ結婚だということに関するガキの頃からの私の見解は、ある程度の年齢になったら宇宙人と共存しなきゃならないのか…という、苦渋に満ちた見方が濃厚だったわけ。楽しいわけないだろ?

 それと、やはり自分の父親に代表される男どもの未熟さというものも一方で見てきているから、自分はあんなふうになりたくない、女とサシでやってくにはまだ早いという気も心のどこかにあったんだろう。実は男も女も何だかんだ言っても、いつまで経っても未熟なまま、成熟には至らずに死んでいくものなんだ…なんてことは、夢にも思っていなかったんだよね。

 さらに身の回りの友人たちがそれぞれ相手を見つけ、しまいには結婚に至るプロセスを見ていっても、正直言ってあんまりうらやましく見えなかったんだよね。ヤだな〜としか思えなかった(笑)。

 また、自分の貧弱な女出入りの経験からいっても、いい思いなんてないもんね。何でもかんでもおまえが悪いってことになって、こっちも面倒くさくなって「はいはいはいはいはいはいはいはい」と延々と全面受け入れさせられる、あのアキラメの疲労感を思い起こすとね。本当はちゃんと相手に接しなきゃいけないんだろうけどウンザリしちゃって。言ってもどうせわかりはしないと思うと説得する気も価値もないって気がしてくるんだよな。耳を傾けようって奴もいなかったし。でも、元々はこっちのせい、相手の災難なのかも。そもそも最初の人選から間違ってるんだから、何をか言わんやなんだけど。

 自分がそんなところに身を投じても、どうせロクなことになりやしない。ドツボにハマったあげく、相手の女に自分の不幸の元凶扱いされる不名誉もできれば避けたい…正直なところ、これが僕の本音の部分だったんだろうね。だからクリス・オドネルとは考え方の根本が違う。でも、結果的には同じことしてる。

 で、そんなところに現われるんだよ、ここで会ったが百年目…レニー・ゼルウィガーが。

 

これぞ運命の女とわかっていても

 彼女こそ俺の女だ。こりゃ今までのとは全然違うというようなことなど、実は会って一日や二日でも簡単にわかること。しかし、われらがクリス・オドネルくんはそれがわかっていても責任回避したい。できればいい加減な生活を続けていきたいという気持ちを捨てきれない。こうしてオドネルのジタバタが始まるんだけど、彼の問題はこのジタバタではない。むしろ本人が観念したと思ってからトラブルが始まるわけ。レニー・ゼルウィガーにプロポーズする手はずだけキッチリつけたものの、結婚したくねえな〜って気持ちアリアリでそれをやるんだよ。そもそも、彼の中での本音がどこにあるのか、彼自身全然わかっていなかったんだよな。どうすべきかも知らない。さすがに素晴しいゼルウィガーちゃんも怒りましたよ。激怒して家に帰る。ションボリしたオドネルは、しかし事態が最悪になってもまだ、自分がどこで何をしくじったのかわかっていないんだな。

 自分が自分でわかっていない、コントロールできないってのは、実はよくありがちなことだよね。例えばプロポーズうんぬんは別にして、ゼルウィガー級の「これこそは…」と思わされる相手が登場してきた場合を考えてみよう。オドネルとは全く違うパターンで考えてみても、彼女のすばらしさを確信しながら果たして戸惑うことってないだろうか? いや、夢中に口説き落としているうちはいいとして、相手が首を縦に振ってきたとき、今までの悲惨な経験が影を落としてついこう思いやしないか?…「これは話がうますぎる…イヤな予感がするぞ」って。

 そんな事考えるのはバカげてる、わかっているのに、いろいろ試したり突っかかってみたり…。相手がよほど気のいい女ならまだしも、下手すりゃ怒るだろうし。いや、怒るならまだいい。こちらの気持ちが信じられなくなって落ち込まれたり…ひどい仕打ちをしてるとは思うんだよ。でも…やれやれ、何て面倒くさいんだ。

 違う違う! 面倒くさいのは彼女じゃない。物事を素直に見れなくなってしまった、こっちのイジケて曲がった根性こそが困りものなんだがねぇ。

 人間、なかなか竹を割ったようにまっすぐには、いかないもんなんだよな。 

 ところが、よりによってそんな時、彼の祖父が死去する。演ずるは「ナイル殺人事件」などで全然ハマッてないエルキュール・ポアロを演じていたピーター・ユスティノフ。この怪優が全開バリバリで妙ちきりんなジジイぶりを発揮してるけど、これが男だったら種づけしろ!…みたいな訳わかんないことをまくしたてている老人。で、この祖父が死んで遺言ビデオを残すのだが、これが問題なのだ。何と1億ドルもの全財産を譲ると言ってくれたはいいが、それには注文があった。30歳の誕生日の午後6時までに結婚しろというけったいな注文が。それって明日じゃないか!

 冗談じゃない!とつっぱねようとするオドネルだが、そうはしたくともできない事情があった。全財産の中には彼が現在経営している会社も含まれる。仲間と経営しているこの会社を手放すことになれば、オドネル自身が素寒貧になるだけでなく、他人のものになったこの会社がその後どういう扱いを受けるかもわからない。家族同然の従業員たちもどうなるか…。さぁオドネルくん、後には退けなくなった。

 思いあまって事情を隠したまま、もう一度ゼルウィガーにプロポーズしようとするオドネル。しかし、いくら何でもイヤイヤなのがミエミエのプロポーズで、彼女は今度こそ修復不可能なほど怒ったまま、仕事で立ち去ってしまう。万事窮す。

 かくしてオドネルは、彼のビジネスパートナーたちのたっての希望を聞き入れ、まるで気乗りしないまま、かつての華麗なる(?)女性遍歴をたどって花嫁になってくれそうな女をクドキ落としに出かけることになる。お供に司祭のオッサンを連れて、オドネルが過去つき合った女性を一人ひとり訪ね歩くプロセスは、何とあのマライア・キャリーからブルック・シールズまで登場する豪華メンバーでつづられた、一種の地獄巡りにも似た様相を呈してくる。俺も我が身に振り返ってみると、これと同じようなことをしなくてはならないとすれば、まさに悪夢以外の何ものでもないね。

 案の定、どれもこれも失敗する。それも何ともイヤ〜な目に遭いながら(笑)。

 

「セブン・チャンス」とはどんな映画なのか?

 では、バスター・キートンのオリジナル「セブン・チャンス」(1925)では、このへんをどう描いているだろうかと言えば…?

 イントロダクションは近所の若くて美しい女性に恋した青年キートンが、その朴訥とした個性が災いして彼女に求愛できずにいるのを、彼女と家の前でしゃべっているショットの夏・秋・冬・春の連続ショットで表現して笑わせる。だんだん彼女の飼い犬がでかくなってるのがミソ。ここでの主人公キートンの結婚への障害は、「プロポーズ」のオドネルみたいな独身主義や自己中心主義ではなく、単純な引っ込み思案なんだよね。ここが大きな違い。75年の隔たりが、この設定の違いを生んだと言える。

 そんな一方で、彼の事業が左まえになっているという設定があり、そこに遺産が転がり込んでくるのだが、こちらは700万ドル。27歳の誕生日の午後7時までに結婚しろということになっていて、それは今日だ…ということになるんだよね。

 で、まずお目当ての彼女を口説いて最初は成功するんだけど、その後で遺産の話をしちゃうもんだから彼女はつむじを曲げて怒ってしまう。かくして、地元のカントリーハウスにいる知り合いの女性を物色するハメになってしまうわけ。この時、その場に居合わせた知り合いの女は全部で7人。だから「セブン・チャンス」なのだ。

 ここでのお楽しみはケッタイなナンセンスギャグだったりドタバタ。「プロポーズ」の現代の男性女性気質みたいな見方はまったくない。そういう意味で今回のリメイクの面白い点は、リメイクしようと脚本を練り上げていく段階で、必然的にそうした男女論、恋愛論、結婚論になっていったところなんだろうね。

 結局、キートンもオドネルも手近な素材で解決することに失敗。ビジネスパートナー兼友人は、新聞にでかでかと花嫁募集広告を打つことになって、この映画最大の見せ場がやってくる。

 ただ「プロポーズ」ではその有名な「見せ場」の前に、終始あわただしかったこの映画の展開の中で唯一静かな場面が出てくる。オドネルの女地獄巡りにずっと無言でつき合ってきた司祭が、自分の経験を語る場面だ。何とこの司祭、結婚の経験があった。妻が亡くなってから聖職に就いた彼は、オドネルに結婚生活のすばらしさを説く。「君の奥さんになる人は、いつまで経っても若かった頃の君を覚えていてくれるよ」…単純バカのオドネルくんは、やっとやっと自分の手に入れかかったものの素晴らしさ、失ったものの大きさを悟るのだが、もはやそれは手遅れ。

 だが、それは本当に手遅れなのか?

 

花嫁の大群の果てに

 「セブン・チャンス」「プロポーズ」両者共通のヤマ場となる、花嫁の大群が押し寄せるシーンは、意外なほどに似ているのが面白い。教会の中で居眠りこいてしまう主人公が、目覚めてみると花嫁たちに囲まれているというくだりからソックリだ。「セブン・チャンス」はおそらくロサンゼルス近郊で撮影された可能性が濃厚だが、「プロポーズ」では坂が多く傾斜がめだつ街の景観が買われてかサンフランシスコが舞台となっているという違いはあっても、アクションの設定に同じようなものもあり、かなり前作を勉強した跡が見られて好感が持てる。

 「セブン・チャンス」では見せ場がどんどんエスカレートして、最後に峡谷で転がり落ちてくる岩石を相手の大アクションになるが、それはあくまでアクション・コメディ俳優としてのバスター・キートンならではの見せ場で、今回のオドネル版にはない。その代わりに1000人の花嫁が集結する中でオドネルとゼルウィガーが結ばれるシーンは、真っ白な花嫁衣装が街を埋め尽くすさまを、上からの俯瞰ショットでとらえてカラー映画ならではの美しさ。この作品の作り手たちは、やっぱり映画というものをよくわかってるね。

 「プロポーズ」はこれでめでたし。では「セブン・チャンス」はどうだったかというと、ラストにもうひとひねり加えてあるのだ。

 自宅に駆けつけるキートン。待っていた彼女と結婚にこぎ着けようとするが、見ると刻限の7時を過ぎているではないか。ガッカリ。結婚も取りやめようとする。おいおい?金にならなきゃ結婚したくないのか? そんな露骨に態度に出してひどいんじゃないのか?

 お話はその後、時計が狂ってたというオチでハッピーエンドになるんだけど、僕にとってはこの一瞬ハッとさせるような結婚とりやめの時のキートンのセリフのほうが重要だ。

 彼を責めるような悲しそうな彼女に向かって、キートンは言う。

 「失敗と不名誉だけの僕の人生、とっても君に背負わせられない」

 いざという時に男が女に見せるためらいは、無責任ばかりじゃない。愛する女に自分のクズみたいな人生を押しつけたくないという、愚かしくも真摯な思いもそこにはあると信じてほしい。

 

 

 

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