「イグジステンズ」

  eXistenZ

 (2000/05/08)


虚構の方がリアリティを持つ世界に住んで

 みなさんはネット上で知り合った人と、どういうつきあい方をしてるのかな?

 僕がネットで知り合った人の中でも、最も親しくなった人の場合を例にとろうか? 僕はその人と比較的早い段階で顔を合わせることになったんで、本名を知らせ合うのも住所を教えるのも早かった。まぁ、僕の場合はサイト上でデカデカと本名出しちゃってるんで、ちょっと他のみなさんと事情は違うかもしれないけど。あのFって変なハンドルネームだって、よその掲示板に顔を出すために適当に付けたものだもんね。

 ところがこの人と電話で話すようになるまでは長かった。この人がもともと電話嫌いということもあったんだが、こちらも何となく言い出せなかったんだね。無意識にそんな気分になっていた。まぁ一旦電話がかかるようになってきたら、堰を切ったようにドンドンかけるようになったけどね。

 もっともその内容はというと他愛のないこと。じゃあ何が今までと違うんだと言えば、それはそこに確実に相手がいるっていうライブ感なんだろうね。話しているうち丁寧言葉や敬語がタメ口になっていったり、そんなところもお楽しみ。相手が生きた人間である証拠だもんな。

 しかしその反面、電話で話すようになってみると、何でもズケズケズバズバとは言いにくい雰囲気も正直生まれてきたんだよ。このへんの違いが人間のデリケートなところかもしれない。相手とじかに向き合うとき、人はちょっと臆病にもなってしまうらしい。

 そしてそれとは別に、ネット上にはハンドルネーム以外では呼ばれたがらない人種、メール以外では語り合いたがらない人種というのも確実に存在するんだね。たぶん彼らはネットの中でこそ大胆になれて、かくありたい自分を演出できるんだろう。その気持ちは僕だってわからないでもない。そういう人にパーソナルな部分をお互い見せながら接しようと言うのは、やっぱりヤボというものなんだろう。だって、せっかく無機質なネームつけてるのに、そこに田中とか京子とかヌカ味噌くさい名前やら、茨城県とか佐渡島などと強烈な匂いを放つ地名が登場したら、そりゃー本人が確立したいイメージもぶち壊しだろう。それに、本人やネットでその人を知っている人間からすれば、そっちの無機質なネームのほうが実感ある名前なんだもんね。

 考えてみれば僕らはそうした第2の実感の世界、虚構の方がリアリティを持つ世界に住む最初の人間たちなのかもしれない。これは口でいろいろ言っていても、体験してみないと分からない世界だな。わかってないくせにわかったふりしてる、朝日新聞の社説的なアプローチじゃ所詮ダメだと思うんだね。

 ゲームの世界なんかはこういうネット上の虚構とはまた違うんだろうけど、それでもデビッド・クローネンバーグの新作「イグジステンズ」が触れているのは、そんなあたりに共通する気分なんじゃないか。

 

事の発端は新作ゲームのモニター

 人里離れた田舎の教会借り切って、新作ゲームのモニターが行われようとしていた。その名も「イグジステンズ」。根っからのゲーム好きたちを集めて開かれたこの秘密の集いにやってきたゲストは、この「イグジステンズ」の開発者にしてゲーム界の女王との異名をとるヒットメイカー、ジェニファー・ジェーソン・リー。彼女が登場すると場内は騒然。それくらい神格化された存在なわけ。ゲーム会社から派遣された新入社員ジュード・ロウは彼女の身辺をまもるように言われるが、それだけビッグな存在になると彼女の命を狙う輩までいるんだね。やがてゲームのデモンストレーションが始まるが、ここで使われるゲームポッドとやらが、何だか生き物みたいなグニャグニャ感でいかにもクローネンバーグ。それをヘソの緒みたいなケーブルでつないで、ジェーソン・リーもゲーマーの輪に加わってのデモがスタート。…と思いきや、最前列に陣取ってたネクラのゲーマーみたいな奴がいきなり拳銃みたいなものでジェーソン・リーを狙撃。彼女は傷つき、他の何人かが撃たれ、犯人も射殺され会場は阿鼻叫喚。ジェーソン・リーをまもれ、会社の人間も信用するな…との命を受けて、ジュード・ロウは彼女を連れて会場から姿を消した。

 といってもどうすりゃいい? ジュード・ロウはジェーソン・リーを連れてモーテルにシケこむ。彼女の肩から弾丸を抜いてみると、これが何と人間の歯。よくよく現場から拾ってきた拳銃まがいのものを見てみると、何だか動物の骨をつないでつくったようなシロモノ。ラーメンのスープのダシ取ったらうまそうなやつ。そういや人間の手首でラーメンの汁のダシ取ってた屋台が実際にあったよな。しかも、その屋台はうまいと評判だったらしい。これは実話だぜ。

 で、一息ついたジェーソン・リーは、ロウにゲームやろうと迫る。ゲームポッドが傷ついて、中に入っている新作ゲームのオリジナルが大丈夫か確認したいと言うんだが、そのためにはチト問題が。

 実はこのゲーム、脊椎の腰の部分に穴を開けて、そこにケーブル差し込んでプレイするというものなんですな。この穴開けてるってのが、どうやらいまや世間の常識らしい。でも、われらがロウ君はまだ穴が開いてなかった。ピアスみたいなもんよと軽〜く言うジェーソン・リー。ピアスというよりナニに真珠埋めるのに近い気がするがねぇ。あんたは親切な人よねぇ…と彼女に甘い声で誘われるロウだったが、俺の経験から言ってこういう女の甘い言葉に乗せられてロクなことなんか一度もなかったわな。

 で、まんまと乗せられたロウは、非合法に脊椎に穴開けるガソリンスタンドに出かけるんだが、これが人けのない汚ねえ田舎のスタンドで、ロウ君はすご〜くイヤな予感してくる。出てきたスタンドの主人はウィレム・デフォーで、もう画面に登場しただけで怪しげ。でも、最近「イングリッシュ・ペイシェント」とかマジな作品が多くなってきてたから、久しぶりに変な役でうれしそうなのが余計おかしい。これがまたジェーソン・リーを崇拝していて、選挙の時の田舎の議員みたいにいきなり土下座の変な奴。こんな奴に脊椎に穴開けられたくない。

 油で汚れたような穴開け銃みたいのでドーンとやられて、イスに座ったまま身動きできないジュード・ロウは生きた心地しない。しかしジェーソン・リーは穴開いたって大喜びで、マヒも直らないうちにケーブル接続しようとするんだからビョーキだよな。しかも、つないだとたんゲームポッドが火を吹いた。怒る怒るジェーソン・リー。あんたがいけないのよ! おいおい、俺は穴貸しただけだぜ…って何だかしょーもない会話だよな。しっかし、この女って徹底的にてめえ勝手な発想なのがヤだね

 真相はデフォーがわざと不良品の穴をジュード・ロウに開けたわけ。ジェーソン・リー殺してこの新作ゲームをおシャカにすれば金になるんだね。さぁ彼女の命もあわやというところを、下半身マヒのジュード・ロウが穴開け銃ブッ放してデフォーを倒し、あわてて逃げ出す。ここまでいい人だけどイマイチ頼りないって柄にもない役やってたジュード・ロウ、ちょっといいとこ見せたかな?

 逃げた2人は、ジェーソン・リーの古なじみのゲームエンジニア、イアン・ホルムの家に転がり込む。そこでゲームポッドとロウの脊椎の穴を治してもらって、ゲーム再開。あくまでゲームやらなきゃならないんだね、ロウ君。

 

痛みは悪いことなんかじゃない

 で、ゲームを始めてみると、ロウ君もジェーソン・リーもそのゲーム世界のなかのプレイヤーとして存在してるわけ。あまりのリアルさに唖然のロウ君っていうのは、古くはあのCG映画の先祖「トロン」から、セクハラ映画としてだけ話題になったけど実は後半SFみたいなバーチャル・リアリティ映画になった「ディスクロージャー」に至るまで一貫した、主人公たちの仮想現実への参加テーマのお約束だね。

 で、ロウ君とジェーソン・リーが放り込まれたバーチャル世界というのは、やっぱりゲームが関わってくる世界で、彼らはゲーム世界でゲームやるという、妙ちきりんな事になってくるわけ。

 で、そこでの仮想世界は…って言うとキリないんだけど(何だかエリツィンの中にゴルバチョフ、その中にブレジネフ…って感じでタマネギの皮むきみたいになるロシアの人形みたいだな)、ロウ君とジェーソン・リーはゲテモノ生物をゲームポッド原料のために解体する工場で働いている。昼飯に中華を食いに行くと、例のゲテモノ生物を調理したスペシャル料理が出てくる。それを不思議な衝動からガツガツ食ったロウは、生物の骨から冒頭に出てきた拳銃まがいのシロモノを作り上げ、今度はどうにもならない暴力衝動から店員を殺す…と、まぁ悪夢のようなイメージが連続するんですな。

 この手の映画の物語を詳しく説明するほどアホらしいこともないのだが、そのうち、どこからどこまでがホントかウソかわからなくなってしまうという筋立てになるわけ。これって非凡な展開に見えて、この手の映画にしてはすでに皮肉なことにありふれた展開となっちゃうんだよね。

 思えばデビッド・クローネンバーグって、今までどの映画でもスキャンダラスだったりアンモラルな題材を手がけていながら、できあがった作品って意外とマトモだと言う気がしないか? 家庭崩壊と男女の越えられない溝を扱った「ザ・ブルード 怒りのメタファー」、愛する人間の怪物化を直視しなければならない恋人の物語「ザ・フライ」、偶然に手に入れてしまった能力のために我が身を犠牲にしなければならない男の話「デッドゾーン」などなど。あの珍品「エム・バタフライ」にしても、悲しいまでに自分の中の愛の幻想に殉じる男の悲劇ではないか。確かにビジュアル的には独特の内臓感覚みたいなものがあって、それが熱狂的なクローネンバーグ信者を形成しているわけだが、そうしたグロな外見、そして一見スキャンダラスでアンモラルな題材をひっぺがしてみると、意外にスクエアなモラリストの一面が見えてくるではないか。それを薄っぺらく見られたくなくて、グロでアンモラルな鎧を着ているのではないか。その鎧のみが表層的に評価されている彼の現状は、ある意味幸運とも言えるし悲劇的とも言える。

 今回の作品に関して言えば、そんなクローネンバーグの資質が裏目に出た作品ではないか。どんでん返しの果てに行き着く結論は、ゲームとバーチャル世界の遊泳の中で人間がどんな実感も持てなくなること、それが例え殺しであっても良心の呵責なく行えるようになること…という、本当に新聞の社説並みに語り尽くされているコンセプトだ。この恐るべき月並みさには、正直唖然とさせられる。

 劇場パンフレットなどにもあるように、クローネンバーグ信奉者に言わせると、そういう見方をする人間は表層的に見ている人で、真の理解者はもっと深いところを見ているということになるのだろうが、それは「もっと深いところがあれば」の話だ。それでは、こういうことを主張する人々が何か具体的に別のコンセプトを発見しているのかというと、グチャグチャな内臓感覚がサイコーなんてかけ声しか出せてない。残念ながら具体的な異論は提示できていないのだ。そうだろう。ないのだ、初めからそんなものは。「ゲームと現実を混同すると怖いよ」なんて陳腐なテーマ以外には。

 では、意外にもマトモな結論に落ち着くクローネンバーグ作品が、なぜ今まではあの異様な迫力で我々に迫ってこれたのだろうか。こけおどしのビジュアルのおかげだなんて、ひいきの引き倒しみたいな意見を無視して考えれば、それはたぶん身につまされる厳しい哀しみのせいではないか。

 「ザ・ブルード」のときにはクローネンバーグ自身が離婚話のまっただ中で、映画を地でいく憎しみの渦に巻き込まれていたらしい。それ故の悲しいまでの恐ろしさだとしたら、何と凄まじい創作力だろう。「ザ・フライ」でも他の作品でも、僕がクローネンバーグ作品を見たとき感じてきたのは、いつも「哀しみ」だった。それも、ヒリヒリする痛みを伴うような実感あふれたものだ。

 で、今回の作品はというと、隠れモラリストであるクローネンバーグの主張も、それを覆い隠す内臓感覚もたっぷり盛り込まれていたが、この肝心のクローネンバーグ作品のハートとも言うべきものが欠けていたのではないか。実感、痛み、血を吐くような魂の叫びがない。それが興ざめの最大の理由ではないか。

 たぶんクローネンバーグは自身ゲームに熱中する人間でもないだろう。仮想現実によって傷つきもしなかったはずだ。痛みを感じてはいまい。だから、何ら実感のないハートのない作品に仕上がった。現実感覚を喪失する人間悲劇に作品が昇華しなかった。せいぜい「クローネンバーグ世相を斬る」なんて、細川隆元の政治放談程度のお話にとどまってしまった。それがとっても残念だ。だって、そんな現実感覚の喪失くらい現代人にとっての悲劇はないからね。皮肉なことに、肝心のクローネンバーグ自身が痛みを感じる力を失ってしまうなんて。

 だってそうだろう。この文章の冒頭で、ハンドルネームがどうのとかネットがどうのとか、おめでたいこと書いてたけど、そんなどうでもいいことは放っておいていい。そんなこと関係なしに、例えば実際のところ一体人間に他人のことがどれだけわかると言うんだ。不安定要素はいくらだってある。距離も性別も年齢も全部立派なバリアになり得る。いや、そもそも他人とはそんなものなのだ。相手がどう思ってるかわかる…なんて、時に信じたくもなるけれど、果たしてそんなことはあり得るのか。そりゃ一瞬は分かり合えた気になったりもする。でも次の瞬間にはそれがとても心細いものになって、確信が持てなくなって、だけどそこを必死で踏みとどまって何とか相手へのコンタクトを試みる。行く手に光がさすのを祈って…それが現実なんだ。現実だって?

 バーチャル・リアリティとは、今ここにある人間どうしの現実のことだ。これはゲームなのか、何かのゲームなのか、どんなゲームなんだ? 君は俺とゲームをやっているつもりなのか? このゲームで誰が勝つんだ? 誰が傷つくんだ? だからってこのゲームから降りることなんてできるのか? こんなゲームに関心はないなんてふりできるのか? このゲームなしに俺たち生きていけるのか? わからない、わからない、わからない、何もわからない。誰かわかっているのか。

 何も決まっちゃいないんだ。ルールが決まってるなんて思うのは傲慢だ。結果は確かに最悪にだってなり得る。だが何も決まっていないのなら、今よりマシってことだってあるだろう。どうせ思った通りになんかなりっこないんだ。ならばゲームはやってみる価値がある。

 痛みは悪いことじゃない、何かを感じる力があるということだから。

 

 

 

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