「フェリシアの旅」

  Felicia's Journey

 (2000/04/10)


善意や愛情の名の下に

 愛の名の下に犯される罪って考えてみたことあるかい? 

 例えば親が子供に手を上げるときって、だいたい子供のしつけのためって理由づけがあるんだけど、全部を冷静に観察していくとそのうち何割が純粋にしつけと言えるんだろう? 俺たぶん半分ぐらいは親のストレス解消で当たってしまっているはずだと思えるんだよね。親自身は認めないだろうけど。

 俺ってだいたい人より高い立場になるってことが30過ぎまでなかったから、そんなこと気にする必要なかったんですよ。だけど、自分が後輩とか持つ身になって相手の立場をどうにでもできるポジションにいるようになると、その後輩のため…と称して自分の意思や好みを押し付けたり、単に楽しみのためにイビったり(本人にも周囲にもそれとわからずイビることなんて簡単なんです)、自分でも知らず知らずのうちにやってるんですよね。しかも、すべては後輩のため…という言い訳が立つ。そんな「先輩」たちが集って飲みにでも行くと、自分はいかに後輩や部下を教え導いてやったかをお互いに競う、イビり自慢大会みたいになって、知らない第三者が見てると見苦しいことおびただしい。親が子に、教師が生徒に、先輩が後輩に、上司が部下に、年上が年下に、夫が妻に、…逆に妻が夫に、大人になった子供が歳老いた親に…。そして、そのいずれもが善意や愛情という名の下に行われ、やってる本人もそう思い込んでるから始末が悪い。まぁ一種の精神病だけど、これは誰もがかかる精神病なのだ。僕も…そうあなたもね!

 考えてみればひどい犯罪や仕打ちって、本人にそれとわかっていたら、そうそうできるもんじゃない。テレビや新聞にぎわせてる犯罪なんかでも、大半は本人悪気なかったってことなんじゃないの? いい例があの新潟の少女監禁事件で、あれ犯人の変態おたく野郎は絶対悪いことやってる自覚なかったと思うよ。そのわかってなさ加減は、県警のお偉いさんたちが事件ほっぽり出してマージャンやっても悪いと思ってなかったのといい勝負(笑)。

 そうでなくても、相手のためなんて思っていろいろやってたのが、実は自分の個人的楽しみのためになっちゃった…なんてことはザラにある。だって、人間100パーセント人のためなんてできない。何か熱心にやってるときって、たいてい自分の喜びが入ってるもんなんだよね。だから、こんなに人のために、何かのためにやってあげてるなんて偉そうに考え始めた時は、ちょっと立ち止まって考え直したほうがいい。恐らくどこかで脱線が始まっているはずだ。

 そんなことチラッと考えちゃったのは、アトム・エゴヤン監督「フェリシアの旅」を見たからなんだよね。

 

アイルランドから迷い込んだ子猫一匹 

 古くてでっかいお屋敷に一人で暮らすイギリス紳士…これがボブ・ホスキンス演じる主人公。何でも几帳面で自分の趣味を貫いて、まぁ言うことなしの立派な人物ではあるんだけど、どことなく不気味。一人でテレビの料理番組見ながら豪華なディナーなんかつくってるんだけど、この料理番組が何か古いモノクロの代物で、それをビデオで何度も見てるみたい。この番組おすすめの調理用品を愛用してるみたいなんだけど、壊れたらスペアがいくらでも用意されているあたりも、な〜んか変な感じ。

 そこにアイルランドから迷いこんできた子猫一匹。フェリシアことエレーン・キャシディはアイルランドの田舎でヤボっちく育った少女だったが、初めてできた彼氏にノボせたはいいが勢いあまって妊娠。働きに出ると言ったまま帰ってこない彼を探してイギリスくんだりまで来たところ。芝刈機の工場で働くなんてしょーもない言い訳信じるほどウブな彼女、あっちウロウロこっちウロウロするけど当然のごとく彼は見つからない。実際はこの彼氏、アイルランド側からは敵にあたるイギリス軍に入隊してしまったんですよ。そして彼女は、この紳士ホスキンスにブチ当たってしまったというわけ。

 いろいろ親切に相談に乗ってあげたり、車に乗せてあげたり、あげくの果てには自宅に泊めてあげたり…。何だかんだと彼女の面倒みてあげるホスキンス氏。最初は気味悪いと思いながらも、とにかく頼る相手が他にいないもんだからついつい彼に気を許すキャシディちゃん。しかし、世話を焼いていると称して、ウソはつくわ彼女のなけなしの金は巻上げるわ、やりたい放題のホスキンス。でも、彼には彼のそれなりの筋の通った論理があるわけ。彼女をはらませて捨てた男なんてロクな奴じゃない。よそでウロウロしてても彼女のためにならない。俺ならば、彼女に本当によくしてやれる。ただし、彼女が俺の言うとおりにして俺の流儀を受け入れるなら。…つまり、寂しい俺の暮らしのうるおいとして、俺と一緒にずっといてくれたらばの話だが…。そのためには、どんなウソをつこうが金をとろうが許される。全部彼女のためなんだから。

 ホスキンスの車にはビデオの隠しカメラなんかセットされていて、そこには今までホスキンスが出会った家出少女たちの映像がゴマンと収録。どの子もどの子も、ホスキンスが保護し、その後殺した家出少女たちだったのだ…。

 

一方的な善意の押しつけこそが問題

 人間の関係ってのはねぇ、対等じゃなけりゃ健全じゃないと思うんですよ。だから、親しい友人でも偉そうに説教し始めたら、私ならそこで友達づきあいやめます。先日も友人が結婚寸前までいって結局やめることになって、仲間うちの一人が「俺たちが無理矢理でも縁談まとめなくちゃあいつはダメなんだ」などと暴言を吐いてましたけど、これこそ噴飯もの。聞いてて、もう少しでテーブルひっくり返そうかと思いましたよ。おまえのこと思ってるから…じゃねえよ。思っていればこそ口をつぐむ関係ってのもあるんだ。大人の関係ってのはそうだろう。逆に私も、どんなことがあろうと相手に対してそこんとこの礼儀は崩さないようにしようと思います。だから、説教、同情だけはしたくないねぇ。困ってて、助けを求められたら協力はするけどね。たとえ相手がどんなにツラい思いをしていても、変に一方的な善意の押し付けはしたくない。それがかえってお互いのためだと思うんですね。それは自分の身になりゃわかると思うんだけどね。

 相手にとってよかれと思ってやってるんだなんて思い始めた段階で、結果的にどんな奴でも悪意の人間と五十歩百歩の存在に成り下がってしまうと思うんですよ。いや、かく言う私だっていつそうなるかわからないし、現にそうなりかかるとこだったんだから、人ごとなんかじゃあ決してないんだね。

 例えば、人と人とのトラブルに介入したがいいが、いい大人がみんな善意のつもりで片方に肩入れしたあげく、誰も一言だって異論反論をはさめない状態になって余計事態がこじれる。情報は双方がそれぞれの都合のいい話だけふれ回る。最初は本当に相手が悪かったかもしれないけど、いつの間にかどっちもどっちになってしまう。こうなりゃ元々どうだったかなんてどうでもよくなる代理戦争状態。こんなこともよくあるよね。出発点がいくら善意でも、いや善意だからこそ問題なんですよ。

 いや、もちろん私には一方的に他人のことを悪いなんて言えやしません。私だってそういうのにはハシャいで参加したがるクチだし、現に荷担したからね。訳もわからんくせに。

 起きてしまったことは仕方がない。誰もが陥る罠だから。これを元の道まで戻っていくのには勇気がいる。「ストレイト・ストーリー」じゃないけど、自尊心が痛む旅をしなくちゃならない。でも、そこが正念場なんだね。

 善意と愛情、それはまかり間違えば、結果のうえでは悪意と紙一重なのだから。

 

我々を告発する殺人者の目

 ホスキンスが連続少女殺人鬼になってしまったわけは、劇中ちゃんと説明されるわけではない。お料理番組は彼の母親が出演していたもので、彼も時々出演させられていた。しかし、それは彼にとっていい思い出では決してなかったようだ。母親は仕事優先、家庭が仕事場。子供時代の彼が、食いたくもない生の肝臓を「生のレバーは身体にいいのよぉ」なんて母親から無理やり口に入れられ吐きそうになるくだりには、そんな愛という名の「押し付け」の片鱗がうかがえるよね。

 一方キャシディちゃんのほうはというと、親父は彼氏との関係を心配する父親…という役割を演じていながら、その実は父親としてのエゴや、世間体や、イギリス軍に寝返る男など許さんという愛国者としての建て前とかが本音で、ちっとも彼女のことを愛してなどいないのだ。もちろん彼氏だってセックス目当てで愛なんてあるわけもない。われらが主人公二人、ホスキンスとキャシディは、二人とも愛のない…いや、愛という名の下に他人を傷つけて平気な人間たちの世界に生きてきたのだ。

 しかし、このままだとホスキンスだってそんな連中と同じことをやってしまう。その寸前のところで、ドラマはちょっと粋な幕切れを用意するのだ。

 カナダのアトム・エゴヤンは、日本紹介第1作の「エキゾチカ」より興味深く作品を見てきた作家だけど、いつもトラウマに囚われた人間たちの、ミステリアスなドラマを好んで描いてきた。今回はもっと一歩踏み込んだドラマを描いて、観客に何かを問うてくる。そこに怖さと成熟を感じます。

 お話のクライマックス、ホスキンスが睡眠薬たっぷり配合のココアなんかお盆にのっけて、二階のキャシディが寝ている部屋へ階段を上ってくる印象的な長回しショットがあるんですよ。そこで階段の踊り場までやってきたホスキンスは、ちょうどカメラを直視するような格好で立ち止まり何十秒かじーっとしている。奇妙な気分になりますよね。だって、ホスキンスは今まさに殺人を実行しようというその時、カメラ=我々観客のほうをじっと覗き込む。これは観客である我々にとって、本当に怖い瞬間ですよ。

 それは殺人者である彼が、おまえは俺のことを異常者と言えるのか、おまえの中に俺と同じ病気は潜んでいないのか…と、まさに挑むように見つめてくるからなんでしょうね。 

 

 

 

 to : Review 2000

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME