「アメリカン・ヒストリーX」

  American History X

 (2000/03/27)


ロスのマクドナルドで遭遇した人種問題

 先日、私が初めてロサンゼルスに行ったときの話をしたよね。あのシラジラとしたカリフォルニアのサメた雰囲気。ホントに活気がなくてドンヨリとして、好きになれない街って感じでね。その3年後にニューヨーク行ったときとは好対照だった、そんなロスでのお話…だから1987年の正月ということになるね。

 ロス滞在も2週間ぐらいになって、とっくに友人たちも帰国して一人ぼっちになると、無性に日本の食い物が恋しくなるのが悲しいサガ。ロサンゼルスってリトル・トーキョーもあるし日系人も多いから、日本食なんかいくらでも食えると思うでしょ? 確かに「日本食」と称するものはある。天ぷら、すきやき、ラーメン、おにぎり…でもその大半がバカ高い値段で、アホらしくって金なんか払えない。どうしてもって言えば食えるけどね。

 問題は、これらの食い物を一応日本食と言ってはいるんだけど、正確に言えば日本食とは言い難い味なこと。全然味覚が違うんですよ。ラーメンなんかスープがキャラメルみたいな味だからね。しかも欲しくもないのに超大盛りのアメリカン・サイズ。食いたくねえって言ってんだろ!

 だから、日本食をどうしても食いたい私の心は、いつまでも癒されない。で、どうしたか? こちらでも日本と同じ味が食えるというのが、たった一つあったんですね。それはマクドナルド!

 すがりつくように近所のマック(ちなみに関西ではこれをマクドって言うんだってね?)に飛び込んで食べたチーズバーガーの味は、今でも忘れられない。まさしくこれぞ日本の味(笑)。アメリカン・スタンダードがグローバル・スタンダード化している好例だが、まったく「世界のことば」ってキャッチフレーズはダテじゃないよ。いや〜まったく、あの味は五臓六腑にしみ渡った。情けないけど、俺はとっても国際人には程遠いわな。

 聞くところによれば、成田離婚とか嫁さんが早々にダンナに愛想つかして別れる夫婦が激増している理由は、新婚旅行の行く先が海外になってきたことと関係あるらしい。わが日本男児は海外じゃからっきし頼りなくてだらしない。それを嫁さんが見て、早々に見切りをつけるのだとか。以前、女を追ってニュージーランドに行った際に、その女が友人と二人で、私をノコギリでゆっくり切り刻むようにいたぶった会話の中でさんざ聞かされた話だ。もちろんその場の私は、「日本の男はいかにダメか」ということを思い知らされる「日本の全男性代表」としての役回りであったことは言うまでもない。いや〜黙って聞いてるとイヤになるほど、女って異性である男をとことん嫌ってるぜー。俺もその後何年も女を身近に寄せ付けたくなくなったけどね。

 話が大きく脱線しちゃったね。ともかく、そんな私のロサンゼルス・マック(あるいはマクド)体験だが、一度だけ心底ドキッとしたことがあった。店内で食べようとして、チーズバーガーとコーラをトレーに乗せ、ガラ空きに席のド真ん中にすわったわけ。その時には、まだ誰も座席に着いていなかったから、どこに座っても自由と少なくても私は思っていたわけですよ。ところが私が着席するや否や、お客がバタバタと席に着いていって、実に奇妙な構図が展開していったんだよね。

 食べ始めた私は「日本の味」マクドナルドのおかげか、やけに自分がアットホームな気分になっていると気づいた。なぜか? 自分の周辺が黄色一色、東洋人ばっかりになっていたからなのだ。ただし、みんな言葉はバラバラ。英語、中国語、韓国語、ベトナム語(?)…肌の色こそ同じだが、後はまったく共通性のない雑多な集団を形成していたのだ。さらに回りを見回してみると、白人は白人、黒人は黒人と固まってテーブルを囲んでいた。多民族国家と言ったって人種間の交際範囲は極めて狭い、ナワバリ国家なのだと改めて実感させられた一幕ではあった。

 では、なぜ私の回りが黄色人種のテリトリーとなったのか? それは何も知らない私が、不用心にも空席の真ん中にドッカと腰を下ろしてしまったからだ。それで、私の周辺は黄色が座っていい場所だと、みんなが判断したのに違いない。それに気付いたら心の底までゾーッとした。これが自由の国、アメリカの実際なのか。

 そんな気がめいるような現実を想起させる問題作…「アメリカン・ヒストリーX」を見る前の印象としては、他の大方のみなさん同様、そんなもんだったと思うのだ。

 

ノートンのパワフル演技で観客はクギつけ

 物語は頭をスキンヘッドに丸めたエドワード・ファーロングのモノローグで幕を開ける。この日はファーロングの兄が刑務所から出所する日。父親を黒人に殺された兄は過激なネオナチとなり、あげく黒人の泥棒を殺して刑務所送りとなったのだ。しかし、それは極右白人の兄としてはハクがついたも同様。回りのシンパたちは彼を熱狂的に崇拝するようになっていた。もちろん、ファーロングもその一人。

 元々ひ弱な印象があるファーロングだからスキンヘッドにしても強そうじゃなくて、まるで一休さんかマルコメみそみたいに見えるが、その思想は筋金入り。今日も今日とて学校のレポートにヒトラーの「わが闘争」感想文か何か提出しちゃったもんだから、黒人の校長に呼び出されてコッテリ油をしぼられる。そのあげく、ネオナチ兄貴のことを作文にせよ…なんて言われて大いにクサる。この映画自体が、彼の書いたレポートと連動しているかに描いてあるのがミソ。そして、出所してくるファーロングの兄貴というのが、「ファイト・クラブ」などでも注目を集める若手演技派エドワード・ノートンなのだ。

 ここでのノートンは今までのイメージを一新。ムキムキマッチョでモロ危ないお兄さんになりきり。これはすごい。正直言ってわれわれ平均的な日本人は差別や民族対立に対する意識は極めて低い。そういうものがあるのはわかっていても、それを意識していることは極めてまれでだ。かく言う私もその一人。これはいい悪いではなく、実際そうだというお話。そんな中、どんなに迫真の場面が映画で進行していても、なかなか他の映画のようにはドラマに入り込めないところを、このノートンの異様な迫力のおかげで観客は画面に引き付けられ続けていく。まさに目を離せないほどのパワフルな演技だ。

 このノートン、仲間うちではハクがついて、さぞや意気揚々とシャバに出てきたかと思いきや、何だかショボクれてるし昔の仲間も煙たがっている。この変貌ぶりに、ファーロングは不思議でしょうがない。思わず兄貴ノートンがバリバリ右翼に走り、過激マッチョになっていった当時のことを思い出す。

 親父亡き後にようやく母親がつきあい始めた男を家に招いたある日のこと…ありふれた昼下がりがたちまち人種論争のるつぼになり、男はビビって去り、家族は傷つけあう。この場面の迫力はすごい。母親と付き合おうとしてノートンと意見対立してしまうユダヤ人の男に久々のエリオット・グールド。こんなところで顔を見るとはビックリ。

 やがてある夜のこと、家に黒人の泥棒がやってきたため、勢い余って殺してしまうノートン。このあたりの描写は、正直言ってノートンが演じていなければこれほどの説得力を持っていたかと思ってしまうほどの、力みなぎる熱演ぶりである。

 しかし回想の中ではそんなコワモテのノートン兄貴も、出所した姿は何だか弱々しく悩んでいるみたい。そこがファーロング弟には気にくわない。家に戻ったノートンは、ネオナチにのめり込もうとする弟ファーロングを諭す。さらに組織の集会に出かけるとリーダーに脱会を宣言し、弟に触手を伸ばそうとするリーダーをブチのめして逃げ出す。

 そんな兄貴に幻滅してなじるファーロング。しかし兄貴のノートンは、弟に自らの獄中体験を語るのだった…。

 シャバじゃせいぜいツッパっていても、牢屋の中じゃそのまんまは通用しない。ヤバ〜いお兄さんがズラリ勢ぞろいしている中じゃ、坊主白人は徒党を組んでるしかない。しかし、ノートンはマジで右翼と取り組んでたから、同じ右翼でもここにいる奴らのいいかげんさが我慢ならない。こんなヘナチョコ白人右翼ならいっそ一緒に洗濯場で働く陽気な黒人男のほうがまだいいじゃないか。…いつの間にかノートンの中で意識改革が始まった。しかし今までの白人のダチにいきなりソッポ向いたのがまずかった。シャワールームで、いきなり白人どもにボコボコにされ犯されるはめになったノートン。ズタズタになって寝込む彼の前に、ファーロングにレポートの宿題を出した黒人教師が現われる。ノートンはかつて彼の教え子だったのだ。

 「まだ俺は自分の思想を捨てたわけじゃあねえぞ」と、よせばいいのにまだ意地を張るノートンに、教師は決定的な一言を与えるのだ。

 「怒りは君を幸せにしたか?」

 それまで、海の向こうの対岸の火事と思い、ノートンの大熱演をたっぷり楽しんでいた私は、この一言で急に冷水をぶっかけられた気がした。…そう、その通り。

 怒りは俺を幸せにしたのか?

 

子供時代からため込んだ怒り

 小学校5年生のとき…だから1970年から71年ぐらいのときに、同じクラスにいたある性悪のガキのおかげで、私は精神がズタボロになる寸前まで追いつめられた。そいつはどう割り引いて見ても人をイビり苦しめるためだけに生まれてきたような奴で、その方法を考え出すことにかけては天才的といっていい冴えを見せるのだった。みんなは…というと、それを眉をひそめて見てはいるものの、誰も止めようとする者はいなかった。

 しかし今考えれば、私自身がみんなに愛されるキャラクターでなかったことも災いした。未熟児で生まれて運動ができず、みんなの遅れをとった小学校低学年。いきおい本の虫となってしまった私に、話の合う友人などいるはずもなかった。煙ったいという点で言えば、私をイジメていた奴も私も、みんなから見たら五十歩百歩というところだったのではないか。

 しかし人間、調子に乗るとよくないものだ。そいつはイジメの環を拡大しすぎ、ある子供の母親に告発され、次々悪事が露見してしまった。一家は街にいられず夜逃げ同然で消えた。因果応報。

 私は新潟の監禁されていた少女のように、突然イジメの集中砲火から解放された。「生還」した私に、みんなはやさしかった。まるで何もなかったかのように。

 この時、私の中の何かが死んでしまったのだと思う。

 人を信じたり、いたわったり、いとおしく思う気持ちが、おそらく死んでしまったのだ。

 なぜ、みんなが何もなかったかのように、手のひらを返したような態度をとれるのか不思議だった。あんなに人が助けを求めていても見捨てていた連中が…。ならばこいつらは、次もまた態度をコロリと変えて、何ら自らを恥じることなどあるまい。そんな奴らに心を許せるものか。私はこの物言わぬ連中にこそ余計に怒りを覚えた。

 また、イジメられるにまかせていた自分の腑甲斐なさにも腹が立った。イジメられているまんまの奴は、そいつ自身に問題があるんだ。私は決してあの道に逆戻りする気はなかった。だから、イジメられ当時付き合ってくれた、みじめな奴ら同士の仲間を何のためらいもなく捨てた。奴らには恨みがましい目で見られたが、気にしなかった。

 うつむいているからバカにされるんだ。内股で弱々しく歩いているからつけ込まれるんだ。オドオドしているから相手に優位に立たれるんだ。かと言って、私はエドワード・ノートンのようにマッチョに走れるほど強くはなかった。ならばどうする。

 いつも陽気にヘラヘラ笑ってやれ。他の連中ができないほど強気なギャグを飛ばせ。ただ楽しいだけじゃなく、ちょっと弱みを見せたらガンガンおちょくって脅かしてやれ。もちろん普段は他の誰より面白いことを言って、たっぷり楽しませてやれ。でも誰もヘタなことを言えないほど油断も隙も見せるな。そして一番大切なこと…誰も信用するな。

 気弱な私が見せた突然の変身、それは私から他人へのささやかな復讐だった。

 そんな私の正体をかいま見て、それを受け入れた数少ない人間だけが私の友となった。そして30年弱…。

 私は長い年月の果てに、堅固な城壁を自分の回りに張り巡らすことに成功していた。面白いことにごく少数の親しい人間を除いた回りの連中は、みな私があけっぴろげな人間と信じて疑わなかった。それが私の仮面なのに。

 私が機関銃のようにヒワイな言葉を連発すると、回りのみんなは大喜びだ。なんて下品な人なのと蔑んで笑う女たち。せいぜい私を見下すがいいさ。だが、俺の心は誰にも触れさせないぞ。私の中でもう一人の私が高笑いしていた。

 そして…私は一人ぼっちだった。

 人に取り巻かれ、人といつも一緒にいるのに孤独だった。あまりにも長く孤独だったので、誰かが私の庭に入り込んで来るのを恐れた。なぜなら、きっと美しい思いは色あせてしまうから。いい事も最後にはアラが見えてくるから。大切な人はどうせ最後に去ってしまうものから。失望はイヤだから、最初から笑いとばして追い返してしまうのだ。

 そして、大して気乗りもしないまま、軽い気持ちでホームページの運営を始めた。

 

ファイティング・ポーズをとり続けた果てに

 ネットの世界というものは、よくも悪くも奇妙なものだ。私は大好きな映画のことだということも手伝い、軽い気持ちでつい本音の部分を出してしまったのかもしれない。コンピュータのディスプレイの向こうに、信じられないほど多くの人間がいるなどと考えもせず。

 最初は…何も変わりはしなかった。

 だがいつの間にか、知らない間に大勢の人間と関わりを持ってしまった。しかも、自分の核心に近い部分まで見せるかたちで。

 最初は何とか今までのスタイルでやり過ごそうと考えた。それはある程度成功したかに見えたが、もうすでに見える人にはシッポは見えていた

 私はあわてた。何年もかかって築き上げてきた第二のアイデンティティーの崩壊につながり兼ねない。だが、それはまだ私にとって序の口だった。まさに絶妙のタイミングで、それは起こってしまった。

 私が全く身構える必要がない、無防備にしていいと、本能的に感じ取ったその時…。

 かろうじて残っていた城壁は、ひとたまりもなく崩れ去った。

 最近、昔から通っているマッサージ師に、交感神経がうんぬん…という話をよく言われる。元々、若いときに仕事で腰を痛めてから通うようになったマッサージだが、最近はもっぱら首の治療だ。マッサージ師に言わせると、私は首が固すぎて指が入らないとのこと。それは、常に緊張し張り詰めた状態だったからだと言われた。

 交感神経が働くときというのは、そんな緊張状態。一番典型的なのはケンカするときの状態がそれだと言う。私は子供時代から、ずっとそんなファイティング・ポーズを取り続けてきたのか。私は心底疲れ切っていた。

 身構えなくてよくなってから、私はまるで軟体動物のようにフニャフニャになってしまった。ただ、自分がどうしたいのかを子供がダダをこねるように伝えようとするだけ。それで、これから事をうまく運んでいけるのか。わからない。何かにブチ当たった後でわずかながら何かが前進した気もすれば、翌日はとても心もとない気がする、そんな繰り返し。でも、今の私にはそれをやっていくしかないのだ。

 私は他の人間が30年かけてやってきた道のりを、ほんのここ3〜4か月でやろうとしている。今だからこそ私もこれができるのかもしれないし、巡りあわせみたいなものもあるだろう。だが、やっぱり子供時代の「怒り」の代償はあまりに大きかった

 

 怒りの無益さを説く兄と、そこに何かを得る弟を描いた「アメリカン・ヒストリーX」の物語はまだ続くが、それはもうどうでもいい。怒りがもたらしたものの空しさを各自が感じとればいい。

 僕らはいつでも、そしていつまでも、優しい気持ちを忘れないでいようと決めたから。

 

 

 

 

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