「マグノリア」

  Magnolia

 (2000/02/28)


「ナッシュビル」の影がチラチラ

 巨人ファンでもそうでなくても、今時の若いプロ野球ファンの中で、長嶋茂雄って本当に凄いって思っている人何人いるだろう? 今の長嶋しか知らない人にとっては、金にあかせてポンコツのスター選手っぱいとってきては全部スカつかんでるオッサン、おかしな監督采配と発言で目立つ人…ぐらいのイメージしかないのではないか。でも、確かに全盛期のあの人は凄かった。それはアンチ巨人だったからこそ、私にはよくわかる。

 あるいは先日、久々にDVDで1998年のローリング・ストーンズのライブ見たんだけど、実際このライブだけ見て(このライブもある意味でもの凄く魅力的なんだけど)ストーンズがいかに凄いかを理解できるか…というと、それはどうかな。昔を知らない人だったら意外とこれ見て退屈しちゃうかもしれないと思った。私は夜中に大興奮だったんだけど。わかってもらうには、ストーンズがアメリカのアトランティック・レコードと契約してから10年間ぐらい、日本で言うとワーナー・パイオニアからリリースしていたころの作品を集中して聞いてもらわないと難しいんじゃないかな。

 それの引き合いに出しては何だが、映画ファンにとってはロバート・アルトマンがそれに当たるんじゃないか。やたら凄いと名前だけはビッグ。偶像扱いされてスターたちも彼の新作にははせ参じる。映画評もすごぶるいい。だけど例年のベストテンとかになったとき、アルトマン作品の名を挙げるものは誰もいない

 そう言えば「ザ・プレイヤー」でアルトマンがハリウッドに凱旋してきたときが凄かった。大評判。私も喜び勇んで見に行ったが、見終わった印象は「?」。悪い映画じゃないし面白いところもあるが、いいときのアルトマンはこんなもんじゃなかった…の印象強い。ブルース・ウィリスやジュリア・ロバーツやらといった大スターがアルトマンにペコペコしてるのもおかしかった。だって、こいつずっとホサれてたんだぜ。

 何だか今じゃアルトマン映画ケナせないような風潮になってきてるから映画評もいつも絶賛だけど、ホンネじゃ誰も好きじゃないからすぐ話題にならなくなる(笑)。俺がはっきり言ってやろうか? 今のアルトマンはクソだよ。もう抜け殻でしかない。最新作「クッキー・フォーチュン」なんか「復活」後のアルトマンにしては面白いほうだけど、それほど見なけりゃならないというほどの映画でもない。リブ・タイラーは予想通りショート・ヘアのほうが可愛いなとかいいとこもあるけど(笑)。

 じゃあアルトマン、いつがよかったんだと言われれば、これは迷う余地がない。1980年の「ポパイ」で大コケしてハリウッドを追われる前に限る。それも映画の出来の善し悪しにムラがありすぎのこの「巨匠」、どれか一本をと言えば、あの伝説の名作「ナッシュビル」にとどめを刺す。

 アメリカのカントリー・ミュージックの殿堂、日本で言えば演歌のメッカともいうべきナッシュビルの街を舞台に、さまざまな登場人物が入り交じり交錯する人間群像ドラマの最高傑作。あまりに緻密な脚本とドラマ構成。最後、それらが屋外コンサート会場に集結して迎える大団円。圧巻としか言いようのないエンディング。思い出すと今でも身震いがくる。これは言葉で説明してもよく伝わらないな。とにかく見てなかったら見て欲しい。否、見るべきだ。この時はアルトマン、別人のように冴えわたっていたな。

 この後、同じように集団ドラマ「ウェディング」を発表。これは「ナッシュビル」ほどの集中力を欠くものの、やはりアルトマンの一番いい資質が良く出た作品だったんじゃないか。

 だから、「復活」後のアルトマンが「ショート・カッツ」や「プレタポルテ」なんて人間群像劇を発表するとうれしくて飛んで見に行く。でも、あの時のオーラというかマジックは、何となく失われているんだよな。

 私はこの人間群像劇というドラマのスタイル元々大好きなんだよね。だから、それぞれの人物に掘り下げが少ないなんてバカな批評を見ると頭に来る。それはそういうこじんまりした映画がやればいいの。人間群像劇の映画は、ヨーロッパの教会か何かの天井画みたいなもの。全体を俯瞰して見るものなんだよ。それは、さも「宗家の三姉妹」がメイベル・チャン監督の最高傑作のように見せかけてる岩波ホールみたいにウンザリするね。メイベル・チャンは何と言っても「誰かがあなたを愛してる」ですよ。これは疑いの余地がない。「宗家〜」なんて、あんなに並ばされて、もったいつけて見せられるようなタマじゃない。

 それはともかく、こうしたスタイル実はアルトマンの専売特許ではなくて、何人かの映画作家も試みてはいる。ジョン・セイルズの「希望の街」なんか、うまくできたほうで私は好きだな。1時間短編を10本ワンセットにしてるクシシュトフ・キェシロフスキ監督の「デカローグ」も、それぞれは全く独立したエピソードながら、同じ団地を舞台にして、それぞれのエピソードの登場人物が1シーンぐらい交錯して登場したりするので、このジャンルの変則的な仲間に入れてもいいかもしれない(キェシロフスキはその後「トリコロール」三部作でも似たようなことを試みてる)。最近じゃ「200本のたばこ」がその青春映画版として、なかなかうまくつくってるね。ラスト、ある一つのパーティー会場に登場人物が集結するあたりの手並みも鮮やか。

 そんな私が人間群像劇の面白い新作があると聞いたら、黙ってるわけにはいかないでしょう。それも「ブギーナイツ」が若手ながらしっかりした出来で好感持てた、ポール・トーマス・アンダーソン監督の最新作「マグノリア」。でもこの映画見るときでも、やっぱりそこには人間群像劇の決定版「ナッシュビル」の影が、あちらこちらにチラチラしてくるんですよね。

 

多彩な人物が次々登場

 いきなり大昔のフィルムみたいなのが出てきてギョッとする。ここで3つぐらいの本編とは関係ないエピソードというか小話が紹介されるが、それがどれもこれもホントかよ?と疑いたくなるような「偶然」のお話。いや〜、昔のモノクロ・フィルムみたいの出てきたときには、この映画も「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」のテレビ特番みたいになるのかと思っちゃった。それぞれのエピソードは何とも面白くも下らない(笑)のでここには書かないけど、実はこれが後になって大きな伏線となってくる。要は、世の中不思議な偶然ってあるもんですね…ってこと。

 曇り、湿度×パーセント、南西の風○メートル…なんて、本編が始まってすぐに出てくるから、またまたあれっ?って思ってしまう。この映画、どこまでも観客の意表をつく。

 舞台はロサンゼルス近郊。後でチラシを見たら「マグノリア・ストリート周辺」だって。それで「マグノリア」なの?

 冒頭、あのスリー・ドッグ・ナイトのデビュー曲にもなった「ワン」に乗って、多彩な登場人物が次から次へと紹介される。もうその順番なんか忘れちゃったし、それをここで再現しても意味ないから適当に挙げていくよ。まず、いい奴なんだけど無骨でヤボっちい警官、これが「ラブ・オブ・ザ・ゲーム」でケビン・コスナーの女房役であるキャッチャーを演じたジョン・C・ライリーで、彼は毎日、電撃的な女性との出会いを求めてるんだけど、「シュリ」のソン・ガンホみたいな伴宙太的キャラクターだから、なかなかねぇ…。ところがある日、騒音の通報で踏み込んだアパートで若い女メローラ・ウォルターズに出会い、柄にもなく惚れてしまう。しかし、彼女ホントはかなりのヤク中で半ば売春婦まがいの自堕落な生活を送っている。そうなった発端はどうも父親との軋轢によるものらしいが、その父親というのがテレビの長寿番組である子供クイズショーの司会者フィリップ・ベイカー・ホール。嫁さんは「未知との遭遇」が懐かしいメリンダ・ディロン。ベイカー・ホールはガンで余命いくばくもないのだが、それを知っても娘のウォルターズは剣もほろろ。一体この父娘に過去にいかなるトラブルがあったのか? 一方、ベイカー・ホールが司会の子供クイズ番組では新しいスターが誕生しようとしていた。天才少年スタンリー・スペクター。今日の番組では記録がかかっているのだが、この子も内心では父親のぞんざいな仕打ちに少しやるせないものを感じていた。この子に先だって、この番組で天才少年の名声を得たのが、「ファーゴ」で事件の発端となる誘拐事件を仕掛けたウィリアム・H・メイシー。ただし、天才少年必ずしも天才中年にあらずで、今じゃ最低のセールスマン。今朝はついにクビを宣告されるありさま。何でこの俺が…と我が身の不幸を恨まずにおれない。また、その子供クイズショーのプロデューサーが余命いくばくもなく寝込んでいて、これが「ジュリア」のダシール・ハメット役が有名なジェーソン・ロバーズ。妻は「ブギーナイツ」も「ロスト・ワールド」も出ちゃうジュリアン・ムーア。彼女は朝からビリビリしてるが、死にかかった老人の夫とセクシーでまだ若い妻という取り合わせに、やっぱり何かを感じてしまうのが人情というものでしょう。でも、彼女の真意は一体…。そして、ロバーズにつきっきりの看護人フィリップ・シーモア・ホフマンが聞いたロバーズ最後の願いは、かつて前妻とともに捨てた息子を探し出してくれというもの。その息子とは、今では男根崇拝者のごとく振る舞い「女をねじふせる」セミナーでもてない男たちから大金をボッたくる、イカサマくさいカリスマ男トム・クルーズ…。ふ〜っ、これで大体紹介できたかな?

 

 

 

 

 

ここからは

映画を見てから読んでください

 

 

 

 

 

 

今まさに人生の岐路に立つ人々

 ところが、これらの人物たちが時間の経過とともに人生の岐路に立っていくのが、この「マグノリア」のミソ。

 自信満々クルーズは、インタビュアーから過去をほじくり返されてうろたえてしまう。ジュリアン・ムーアは死に行く夫を見ていることが耐えられなくなるが、それは夫を愛していなかったし何度も裏切ってきたから。しかし、罪の意識にさいなまれる彼女は、皮肉にも夫への愛に気づく…。そのロバーズは前妻を捨てたことを懺悔するが、今更何も戻っては来ない。元天才少年メイシーは朝っぱらからクビになったあげく、惚れた美青年バーテンダーが金の力で初老のオヤジにケツを振るのを見てやりきれない気持ちになり、ヤケクソの計画を実行に移す。現在の天才少年スタンリー・スペクターは、番組の本番中に無理矢理ガマンさせられてお漏らししてしまう。司会者ベイカー・ホールはついに病気の進行で番組中に倒れるし、娘との間にかつてあったらしい性的虐待のことを妻に問い詰まられたあげく家出されてしまう。その娘は警官のライリーに見初められ心動くものがあるのだが、やっぱり自分の汚れた過去と現在について打ち明ける勇気が持てない。ライリーはと言えば、不審者を追跡しているうちに「警官の命」である拳銃を紛失してしまう。

 この映画の中盤以降は、こうした危機に直面した人間たちが次から次に登場して、息もつかせぬ展開になる。そして、それらのエピソードがどれもこれも実感あふれているんだよね。その危機的な状況にブチ当たった登場人物の感情のひとつひとつが、私には思い当たることばかり。思わず苦笑してしまうけど、私にも「人生の岐路」がいっぱいあったということだね。見ていて胸が痛くなる。あの追いつめられていく感じ。

 ここで今打ち明けるのも恥ずかしいのだけど、私も小学校のころお漏らしをしてしまったことがある。当時、私は猛烈なイジメの餌食にされていた。授業中にトイレに行きたくなった私は、今そんなことを言えば袋叩きにあることを誰よりもよく知っていた。授業は半分以上終わっているはずだ。もう少しの辛抱…。そんな無茶なガマンをして漏らしでもしたら、もっとひどいイジメにあうのに…と思うあなたは、一生に一度のイジメもあったことのないハッピーな人間だ。あの時の絶望感は一生忘れられない。いや、普段は忘れたふりをしているのだけれど、何かというと、ぽっかりと私の心の中に真っ暗ででっかい口をポッカリと開けて待ちかまえている。わかってもらえやしないだろう…世界が終わってしまうかのようなあの感じ。今、何かの折りにこの事が話題に出ることがあっても、私は冗談めかして笑いながら話す。でも、私の心の中は今さら癒しようもない傷口が、開いたままになっているのだ。

 そんな傷口があっちこっちにゴマンと開きっぱなし。「マグノリア」という映画は中盤に至って、私の中のそんな傷口のひとつひとつに、ゆっくりと塩を塗り込んでいくように進んでいく。正直言って見てるのがつらくなった。見た後そんなことは誰にも言ってないのだけれど。でも、どうせ所詮はわかってはもらえないからね。

 あんな時、こんな時、何かが起こって欲しかった。誰かに助けて欲しかった。心に癒しが欲しかった。だけど何も起きなかった。だから自分が強くなるしかなかった。あるいは自分の感情を隠すしかなかった。何もなかったと自分を偽るしかなかった。

 でも、この映画では何かが起きるのだ。

 

 

 

 

 

 

ここから先は映画を見てから!

 

 

 

 

 

 

こうありたいと願う「祈り」

 あんまり意表を突いた「ヤマ場」なんで、あっけにとられてしまう。思わず天晴れと天を仰ぎたくなるこの展開は、さすがポール・トーマス・アンダーソン監督と舌を巻かずにはいられない。たぶん、脚本もこの「ヤマ場」を最初に思いつき、後からその他の人物や状況を設定していったに違いない。そういった意味でも技有りの一本だ。だが、当然そういう作り方だから、一発芸というか瞬間芸みたいで全体が歯車のように絡みついて創り上げられた緻密さには乏しい。

 正直言ってこの「ヤマ場」でなければならない必然性はないし、それぞれもこの登場人物である必要性はさほどない。そして「ナッシュビル」を引き合いに出すのも気がひけるが、それぞれが道ですれ違うほどのからみにも乏しいのだ。ましてラストに全員が集結することもない。エピソードのすべてがキチッとした終わり方をするわけですらない。バランバランの状態で開けっ放しのドアみたいに終わってしまうのだ。このへん脚本の不備だろうか。

 それと、これは「ブギーナイツ」にも共通することだが、脚本のツメが甘いせいか演出のゆるみか、とにかく上映時間が長くなりすぎる。

 ただねぇ、見ている間はこれ長いことは長いんだけど、エピソード自体はそれぞれ結構丁寧に描き込まれていて、我々観客は人物に感情移入したり好きになったりしているから、もっと長く見ていたい…と本気で酔わされてしまうんだね。不思議なことながら。

 それと、それぞれのエピソードの結びつきの希薄さやエンディングの話の投げだしっぷりにしても、私はこれ「ナッシュビル」より劣る…みたいな話をして論じるべきではないだろうと思えるんだね。

 実はポール・トーマス・アンダーソンは何かのインタビューで、この「マグノリア」が「ナッシュビル」のパクリであると堂々と認めているらしいのだ(パクリったって、人間群像劇ってスタイルってことだけなんだけどね)。だとしたら、登場人物がそれぞれあまり結びつかずラストに集結すらしない、この映画のスタイルって実は確信犯的な仕業と考えるべきではないか? 決して脚本の不備ではないだろう。

 では、なぜこうなったか?

 冒頭で「偶然」ってヤケに強調してたねぇ。まぁ、こんな不思議なことも、あることはある…と。ってことはねぇ、万が一つにあるかもしれないんだけど、逆に本当はほとんど百パーセントに近いと言っていいほど、それは起こらないのだということでもあるんだよね。

 何かが起こって欲しかった…だけど、何も起きなかった。それが現実=リアルってもんなんですよ。

 それがわかりすぎるほどわかっているアンダーソン監督、だからこそこの癒しの映画に、その万が一つの偶然性を放り込んだのだろう。そして、ある意味ではやりっぱなし開けっ放しみたいなドラマ構成で終わらせたのだろう。これが緻密なJRの新幹線のダイヤみたいに、ロジカルでメカニカルに組み上げられた構成だったら、こうした企みがイヤミになってしまうではないか。この作品こそは、もしこうなれば…こうでありたい…と願う、祈りのようなものなのだから。

 だからこの映画、果たして傑作かどうか断言はできないけれど、「好き」であるというということだけは間違いない。ある意味じゃ、人生は理屈じゃないよ…と言っているこの作品だからこそ、評価も理屈でつけず、ここは自分の感情で評価するべきなんじゃないだろうか。

 わかっているさ、そんな「何か」なんて起こりっこないってことは。だからこそ私たちは、その「何か」を心のどこかで求めてやまないのだ…。

 

 

 

 

 to : Review 2000

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME