「シャンドライの恋」

  Besieged

 (2000/02/28)


ふた昔前のバレンタイン・デーに

 若い頃、女の気持ち(あなたが女性なら男の気持ち)がどうにもわからず、ずいぶん悩み苦しんだ憶えはないだろうか? 何ではっきりイエス・ノーを言ってくれないのだろう、何であんな気があるふりしてジラすんだろう、何であんなに残酷になれるんだろう? なぜ、なぜ…。

 私の場合は、もうそこでイヤになって去ってしまったり、相手に理詰めで問いつめたりしてしまったりした。今から考えれば無茶な話だ。はっきり言って私はそっちの分野では、まるっきりのヤボてんだったのだ。

 例えば今から20年前ぐらいのこと。私が血気盛んな若者だった頃。前年の年末頃から映画を見たり食事をしたりするようになっていた女の子がいた。どっちかと言うと彼女もあんまり要領がいいほうではなく、私と彼女のつき合いは、ハタから見たらもどかしいばかりのグズグズしたものに違いなかった。たぶんお互いの気持ちというのはわかっていたんだろうが(そりゃそうだろう。でなければ毎週のように一緒に出歩きはしない。)、次の一歩が踏み出せずにいたんだな。これは、その当時の若者としても奥手なほうだったね。

 これは体験的に言うんだけど、どうでもいい、意識しない相手に対しては、何でもズケズケズバズバ言えるもんなんだよね。だから、別にそんな気はなくてもおかしなことになっちゃって、ついでに変なことやっちゃったりして後でトラブッたりするんだけど(笑)。別に何とも思わない女に対してなら、口説き文句は100も200も平気で言える。不思議なほどうまくいく。心がこもってないほど、とんでもないこともできる。若い頃は無茶やったからね。でも、この女は…と思うと、いきなりビデオデッキのコマ送りみたいにギコチない態度になってしまう。不審人物その1になってしまう。いきなりストーカーや新潟少女監禁変態野郎みたいな挙動不審状態。でも新潟県警とは一緒にしないでくれ。あそこまで堕ちたくない。

 寒い冬のある日、意を決して彼女を口説いたものの剣もほろろ。そんなこと言われても困るわ…の一言でかたずけられてしまって立場がなかった。じゃあ今までのあれは何だったんだよ。あぁ、それ言わなきゃいいのにね。傷がますます深くなる。今思えば、この時の私の言動は私自身が見てもアブない感じ。

 それから1週間ぐらいは「あ〜あ」とため息ばかりついて過ごした。ダメと聞いたとたんに彼女と会う気なくした。連絡なんてするわけない。わざと空けておいたバレンタイン・デーに、友人から誘われてたスキー旅行の予定を入れた。フテくされ。

 その2月14日のバレンタイン・デー、スキー旅行出発の日。夜の出発を前に荷造りを急いでると、何と例の女の子から電話があった。

 「会いたいんだけど」

 こっちは何言ってるんだとイライラした。俺、忙しいんだけどさ…と心なしかトゲトゲしい口調で話す。それでも彼女の「どうしても」という強い口調に押されて会うことになった私。その時初めてカレンダーを見て、今日がバレンタイン・デーと知った。もう、この鈍感ぶりからして、決定的にまずかったのだ。

 もしや…と私も思わなかった訳じゃない。だけど、せっかくみじめな思いで1週間かかって彼女のことを頭から追いだしたのに、そんな危なっかしい希望の光をまた持ちたくない。だいいち、あの時あんなにキッパリ言われたじゃないか。私は子供の頃から文章を書いたり読んだりすることに関心あったから、「言葉」というものだけは妙に信じていた。そういう「言葉」が発せられたのだから、それは真実なのだと思った。まだ子供だったんだね。その次に「バレンタイン・デーだからって事情が好転すると思ったの? キャハハ!バ〜カ(笑)」と私に向かって言ってくる彼女のイメージが浮かぶ。そんなこと言うわけないのに。何であの時あんなイメージが浮かんだんだろう? ひとつだけ今言えることは、やっぱり私は自分がかわいくてかわいくて仕方なかった。そんな自分のちっぽけなプライドがつぶされるのに耐えられなかったってことだな。

 イライラしながら待ち合わせ場所に向かった私。私は完全に心を閉ざしていたから、彼女に思いやりのかけらも見せるつもりはなかった。一度こうなっちゃうと、昔から私は自分でも怖いほど頑なで冷たいのだ。妙に明るくハシャぐ彼女の一挙手一投足がいちいちカンに障る。

 カウンターで並んで座れるお店に行かない?…と言ってくる彼女に、そんな店はこの町にはねえよと、あんまりな対応の私。みなさん、これはフィクションだとお思いでしょう。いくら何でもこんな鈍感な奴はいない、この文章は全部つくりだろ…あなたはそう考えてますね。いや、これには全くウソ偽りはありません。だからこそ、私には苦く切ない思い出なのです。

 たぶん私には、口説いたとき絶対彼女はイエスと言ってくれるという自信があったから、そのメンツに泥を塗られた気がして、その後の彼女の言動を素直に見る余裕がなくなっちゃったんでしょう。

 喫茶店での彼女の話に、冷たく応対していた私。私は夜のスキー旅行の出発のほうが気になってしょうがない。あんまりな私の口調に、彼女突然わっと泣き出してしまったのです。これには私も驚いた。急にとってつけたように優しい口調になったけど、それは喫茶店で自分が女を泣かしたという周囲の目が気になってのこと。はっきり言って保身以外の何ものでもなかった。今思えば俺は何て卑劣な奴

 少しは場も和み、彼女も気が晴れたようなので店を出た。結局、今日のこれは何だったのだろう…と本気でボケたことを考えていた私。帰り道、私と彼女の行く手の別れ道に来た。

 「今日、一応バレンタイン・デーだから」

 彼女がガサガサと取り出したのは、M&Mの粒チョコ。あのマーブル・チョコレートみたいなやつ。実は前年の年末、彼女と「E.T.」見に行ったら、映画にこれ出てきたんだよね。彼女としてはシャレみたいなもんだったんだろう。でも、私にとってはこれが決定的だった。私にとって「E.T.」は、二人で見に行って思わず涙ぐんでしまい、彼女にバカにされた映画としか憶えてなかったのだ(笑)。プチンと切れてしまった私。

 もらったチョコの袋を見つめながら、私は冷たく一言宣告した。

 「人に物あげるときは、値札はがしといたほうがいいよ」

 また、わっと泣いていきなり駆け出した彼女。その後ろ姿を見て、やっと私には事情が飲み込めた。しまったと思ったけれど後の祭り。彼女は戻って来なかった。その後、彼女とはまだグズグズといろいろあったんだが、それはまた別の話。

 くだらないプライドの虜になったばっかりに…どうして何も見返りを要求することなしに、彼女を好きになってやれなかったんだろう、信じてやれなかったんだろう。それはたぶん、私がまだ若かったから…いや、しかるべき相手と巡り会っていなかったから…いや、単にバカだったんだよね。今ではまるで信じられないような、ふた昔前の物語…。

 いやはや、古〜いシケたガキの頃の身の上話を長々と聞かせてしまいました。笑いましたか、みなさん? でも、胸に手を当ててよーく考えてみてくださいよ。自分はこんなに愚かなことはしないと、果たして言い切れるか? そうそう、本題は当然これじゃございません。ベルナルド・ベルトルッチの最新作「シャンドライの恋」のお話

 「シャンドライの恋」は、私のまるで中学生並みの恋のお話とは全く違って、もっと大人の話に仕上がってます。そりゃあそうだ。ベルトルッチとあんなガキの情けない失恋話じゃ、まるで共通点なんかない。でも、不器用なまでの恋のパッションという点で、私にはいきなりこの昔の思い出が蘇ってきたんだなぁ。実はもう一つ心に浮かんできたことあったけど、そっちの方はナイショ(笑)。

 久々のベルトルッチの新作は、ここんとこずっとハリウッド化、大作化してきた彼の作品にしては久々に、母国イタリアはローマ(アフリカも出てくるけど)を舞台に、ささやかでこぢんまりした小品として仕上がった作品です。

 

お話は、たったのこれだけ

 いきなりアフリカ。原っぱでオッサンが不思議な弦楽器をつま弾きながら、吠えるように歌っている。雰囲気はさながら、アメリカ南部かどこかでギターを弾きながらうなるブルースマンという感じ。実際、こういうのってブルースのルーツではないか? そう言えば、昔、五木ひろしが演歌のルーツを訪ねてシルクロードを遡ったのを思い出す(笑)。

 この「シャンドライの恋」には、後にもアフリカのシークエンスがいくつか出てくるが、そこで「メリーに首ったけ」の歌手みたいに狂言回しに出てくるのがこの歌うオッサン。オッサンの血を吐くような歌声に乗せて、軍事政権の圧政に苦しむアフリカの小国という物語の背景を、街中にベタベタ貼りだされる独裁者のポスターの描写でサラリと示す。

 学校で授業中の教師が軍隊にしょっぴかれ、ジープで連れ去られていく。それを見送りながら泣き崩れる彼の妻シャンドライがサンディ・ニュートン。今度「ミッション・インポッシブル2」に出る新星だ。

 このくだりはいたって簡単ながら、「暗殺の森」「1900年」「ラストエンペラー」とファシズムを描き続けたベルトルッチだけに、そうした独裁政治に対する怒りをどこか忍ばせずにいられないように見える。

 場面変わって、ものすごい物音で夜中に目を覚ますニュートン。観客である我々には、ここがどこだかわからない。しかも、さっきの物音が何かもわからない。ニュートンが調べてみると、部屋に作りつけの戸棚が音の発生源のようだ。開けると…上からつながっているエレベーターのシャフトで、戸棚の中身が上げ下げできるようになってる。変わった戸棚だね。中の引き出しには楽譜用の五線紙が一枚置いてある。上からこの紙を乗せて下ろして来たのか。この五線紙、音符の変わりにでっかく「?」って書いてあるから、またわからない。何これ?

 実は今、彼女はローマにいる。医学を勉強する留学生として。でっかいお屋敷の住み込みの掃除婦として雇われている。屋敷は…というと、何だか陰気くさいイギリス人の男デビッド・シューリスが、叔母の遺産として受け継いだもの。今はこの屋敷には、上の階にシューリス、1階にニュートンしか住んでいない。その両者をグルグルとらせん階段がつないでいる。シューリスは仕事もせず、朝から晩までピアノを弾いてるいいご身分。じゃああの五線紙はシューリスから? 家主がストーカー? ニュートン何だかイヤ〜な感じ。

 そうそう、アフリカの場面が例のオッサンの歌で全編通しているのに対して、こちらローマのシーンはヨーロッパを象徴するクラシックのピアノ曲で全編埋め尽くされてる。セリフとか極端にないくせに、音楽はひっきりなしに流れっぱなし。

 そのうち五線紙に味をしめたか、シューリス調子に乗って花なんかエレベーターで送ってくる。気持ちワリィ! ニュートン思わずゴミ箱に花をブチ込む。やっぱ男の純情ったって通じないわな。

 でも、後でシューリスが何だかんだと彼女に頼みに来るふりして部屋のぞきに来ると、ちゃっかり花はグラスに差してあったりする。家主だから捨てるのはマズいと守りに入ったか、やっぱ女は打算なのか。それとも…?

 ある日、エレベーターで送ってきたのが指輪ときたから、ニュートンさすがにこれはヤバいとシューリスのところに怒鳴り込みに行った。シューリスはと言うと、部屋ん中にキャンドルとか飾っちゃってピアノ弾きまくり、女口説きモードに完全入っちゃってる。それ見てますますキレるニュートン。指輪をたたき返す。

 あわてたシューリスはと言うと、俺も人のこと言えないんだけど、こいつも女の口説きかたヘタなんだねぇ。いきなり「好きだ。結婚してくれ」と切り出す。「ぼ、ぼ、ぼ、ぼ、ぼ、ぼくとつき合ってください」って告白する中学生レベル。(いや〜今時の中学生だって、もうちょっとあか抜けてる。)「シュリ」の水槽ぶっ壊されて死にかけてる熱帯魚みたいに、ただただ口をパクパクさせてるシューリス。ビビッて逃げ出すニュートンをふんづかまえ、「君のためなら何でもする」なんて言ってるあたり、おまえそれじゃあ犯罪者だよ。悪ノリして「俺がアフリカに行ったっていい」なんてホザいたからいけません。ニュートンついに堪忍袋の緒が切れた。「あんたにアフリカの何がわかるの?」 ついでにダメ押しで「何でもするなら、アタシの亭主を牢屋から出してちょうだい!」

 が〜ん! ホントにこの場面で、こんな感じで音楽が鳴る(笑)。シューリスにとってショックは2つ。1つは彼女が亭主持ちだったこと。2つめはその亭主が投獄されているという、厳しい現実を彼女が抱えているということ。それに引きかえシューリスくんは、ずいぶん物事甘ちゃんに考えていたんだよね。トホホ。

 さぁ翌日からチンタイ見ながら部屋探しのニュートンだけど、そうそう好条件は東京ならぬここローマでも滅多にありはしない。シューリスもかなりこたえたはずだけど、何もなかった顔してピアノ弾いてる。

 だが、この日を境に奇妙なことが起こっていった。屋敷の調度品、骨董品、美術品が、次から次へと消えていくのだ。屋敷の掃除をまかされているニュートンにはそれがわかる。だんだん掃除の手間が減っていくんだものね。

 そのうち彼女の手元に、亭主の裁判がやり直しになって釈放されるかも…との手紙が届く。そう言えばシューリスは、彼女の故国の政治犯を支援している神父などとも頻繁に会っているようだ。ひょっとしたら…でも、まさか。

 やがて、ささやかな演奏会を自宅で開いたシューリスは、自らの思いを彼女にぶつけるかのように自作の曲を弾きまくる。やっぱりこの手の男は、こうした表現で自分の気持ちを打ち明けるんだよな。暗い奴…何か俺みたい(笑)。だけど、そういう時に限って相手の女は聞いてない。亭主が釈放され、あさってローマに着く…と知らせる手紙を受け取って、頭ん中が大混乱のまっただ中だったから。そうなんだよな、こういうもんだよ。思いは届かない…。

 しかし、シューリスが愛してやまなかったピアノが、ついに屋敷から運び出されるに到っては、さすがの鈍感女ニュートンも事情を察しないわけにいかなかった。ようやく彼の真心を直視した彼女は…。

 何とお話はこれだけ。ホントに、たったのこれだけしかない。これでもかなり詳しく書いてるんだけどね。

 

黙ってどこまでも愛し抜く男

 しかしこの映画のシューリスのこと、俺だって笑えやしない。この俺も40になったと言うのに、およそ自分の専門領域以外にかけては何にもわからない、いわば「使えない」男。それに、いくつになってもガキみたいに甘チャンなこと言ってるあたりまで、シミジミこの映画に出てくるシューリスといい勝負。違うのは、俺がピアノを弾けないことくらい(笑)。恥ずかしいけど本当の話だ。徹頭徹尾、シビアーな状況に身を置いていないおめでたさが、どこからどう見ても隠しきれない男。現実も人生も、なーんもわかってない男…

 これで、もしこの男に自分がこれは…と思い定めた女がいたとして、その女が心の奥深くえぐられた傷を癒えずにいまだ抱えたままだったらどうだろう? 抱えきれないほど重たい荷物を背負ったままだったとしたら? 甘っちょろい日常しか知り得ない男には想像だに出来ないほどの、ヘビーな現実を見てきたとしたら?

 男はただ黙って、女に対して安易な分かったような言葉を決して口にはしまいと、固く心に誓うだろう。そして自らの思いを、いつもの饒舌さではなく、ただ愛し続けることで証明しようとするだろう。例え女がその気持ちに報いるようには見えなくても、静かにずっと愛し続けるだろう。何か見返りを当然のこととするのではなく、性急に結論を求めるのでもなく、あくまでじっと愛し抜くために…。先に述べたふた昔前のバレンタイン・デーの私には、このことが理解できていなかったんだよな。まぁ、ガキだったからね。

 とにかく、「シャンドライの恋」はそんな映画だ。だから言葉が少ない。ムダな描写もない。ただ、そのテーマに沿って、一筆書きのようにストーリーが脇目もふらずに進む。恐るべき単純さ、恐るべき明快さで貫かれた映画だ。

 そういう意味ではヨーロッパの巨匠監督がつくった映画にしては珍しく、持って回ったような描写や屁理屈は全くない。そういうスノッブなお遊びには全く目もくれない。誰でもわかる、わかりやすい映画とも言える。

 思えばベルトルッチみたいな監督がどうしてアメリカで成功することができたのか…と時々不思議に思ったんだけど、よく考えてみるとこの人の映画って表面上のスタイルは何となくアートシアター系の文学臭で覆われているものの、中の本質は実にわかりやすいものではなかったか。スケールでっかいエピック映画の「1900年」「ラストエンペラー」は大作ならではのスペクタクル性と骨太のドラマ性に満ちていて、ハリウッドも納得の面白さ。一方のこの人の人間の内面にスポットを当てた作品群も、世間で言われているほど難解ではないんじゃないかと思ってる。「シェルタリング・スカイ」なんかも、いろいろ批評されながらみんな意味がわからなかったみたいだけど、変に芸術至上主義みたいな歪んだモノの見方を捨てたら、すごくわかりやすいんじゃないかと思う。ニューヨークからいわば発展途上国のモロッコにノコノコやってきたインテリ夫婦のお話で、この夫婦は自分たちを物見遊山の観光客とは違うと考えている。自分たちならこの国のプリミティブなパワーも理解できるはず…などと構えていたらモミクチャにされて、亭主はくたばり女房は現地の男のなぐさみもの。ボロボロになったあげく自分たちは「結局何もわかっていなかった」ということが骨身にしみるほどわかる。この映画が日本のスノッブな映画ファンたちに理解されなかったのは皮肉としか言えないね。

 「シャンドライの恋」も、そういう意味では一点の曇りもない。迷う事なきシンプルさ。でも、それはベルトルッチが本来持っていた明快性。それを取り戻しただけなんだね。

 そう。迷わないこと、ゴチャゴチャと言葉に頼らないこと…そうして手に入れたひとつの真実こそ、男の本懐と言えるのではないかな?

 

 

 

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