「季節の中で」

  Three Seasons

 (2000/02/14)


どんな国にも普通の人々の暮らしがある

 今から18年前に日本で公開された、「モスクワは涙を信じない」って映画のことをご存じだろうか? 今ではなぜか忘れ去られている作品だが、旧ソ連で当時ブッちぎりの大ヒットを飛ばした作品で、そのヒットぶりと言えばアメリカでの「タイタニック」なみ、わが国での「踊る大捜査線 THE MOVIE」なみ。そう、今いちばん旬な話題で言えば韓国での「シュリ」なみのメガ・ヒットと言えばおわかりいただけるだろうか? なにせでかい国で、当時のあの国の映画人口はかなりのものだったし、この作品はアメリカのアカデミー外国語映画賞をとって海外輸出もされたはずだから、ひょっとして映画史上最も観客を動員した映画のベスト10ぐらいには入ってるかもしれない。

 お話は実にたわいのないもので、仲良し三人娘の中年に至る人生行路を描いたもの。泣き笑いのあげくハッピーエンドになって、カメラがヒロインの住む高層団地の窓からサーッと引く。すると夜景に無数の窓の灯が見えて、そこにシャンソンみたいな歌で「モスクワは涙を信じない、信じるのは愛…」(いい歌詞だよねぇ)とうたわれる。どうです? 見たくなってきたでしょう?

 その時、スクリーンに映る窓の灯を見ながら、これらの窓のひとつひとつに、映画で描かれたような泣き笑いのドラマがあるんだよなぁ…と、何とも言えない感慨を持った。この映画はペレストロイカなんかより何より、この国にも我々と同じ人間の暮らしがあるってことをいち早く西側に伝えた作品じゃなかったろうか。

 時は今、西暦2000年。あらゆるしがらみを乗り越えて、ベトナムはホーチミン市より人々の哀歓をしみじみと伝える人間群像劇が到着した。「季節の中で」…それはアメリカ資本で実現したが、まぎれもなく普段着のベトナムの顔をかいま見せる、普通のベトナムの人々が主役の作品だ。

 

演ったカイテルも、演らせた監督もエライ 

 お話の発端は、まず田舎から出てきたキエン・アンって女の子のエピソードから始まる。でっかいお屋敷の奉公人としてやとわれた彼女。その仕事は、早朝に屋敷の敷地内にある沼一面に咲くハスの花を摘み、それを街に売りに行くことだ。この花摘みが優雅なもので、何十人もの使用人の女たちがボートで沼に漕ぎだし、みなで歌を唱和しながらゆったりと行う。この場面なんか、まさに我々が普段イメージするベトナムって雰囲気。だが、沼の向こう側の離れには、ここの屋敷の主人がもう何年も外界とのつながりを絶って引きこもっているとか…。

 ベトナムの人力車・シクロ引きのハイは、過酷な肉体労働の合間にも読書を欠かさない実直な男。そんな彼はある日、ヤバい目にあって逃げ出してきた娼婦のランを助けることに。「商売」でホテルまで出かけるランを送った彼は、なぜかそのまま彼女の戻りを待つ。そのかいあって、夜、彼女を家まで送るハイ。彼女はつぶやく。「涼しくて大きなホテルのベッドで眠るのが夢」…何かが起こりそうな予感

 ホテルの前でイスに座り、一日中ボーッとしている中年アメリカ人ジェームズ(これが何とハーベイ・カイテル)。彼はベトナム戦争時に米兵として駐留し、今回、この国の女との間にもうけた娘を探しに来たが、まるで手がかりなし。

 そして、ストリート・キッズのウディは、自分の背格好には大きすぎる木箱を抱え、ライターや時計などを観光客などに売りつけて生計を立てている。

 映画はまずこれだけの主要登場人物を手際よく紹介する。この後、彼らがそれぞれニアミスしたり離れたりを繰り返す。

 ある日、あんまり気持ちよくみんなで歌をうたってたんで、勢いあまって自分の村に伝わる歌をうたいはじめてしまったキエン・アンは、新入りのくせに…とたちまち周囲のハス摘みババアの冷たい視線を浴びるはめになる。な〜んか「トゥルー・クライム」のクリント・イーストウッドみたいに職場で針のムシロ状態。イーストウッドなら回りの白い目なんざシカトで、部屋が禁煙だろうがタバコ吸いまくりだが、キエン・アンちゃんはさすがにそうはいかない。しかし、その歌を聞きつけた例の謎の地主が、夜中にキエン・アンちゃんを呼びつける。不気味な予感…。しかし、かなり重い病にかかっているようなこの地主、車イスで暗闇から現れると、彼女に昼間うたった歌を再度うたってくれと頼む。

 後日、好奇心にかられて離れに忍び込んだ彼女は、地主の真の姿を知る。それはハンセン病でただれた悲しい姿。かつては美しい詩をつづっていたこともあったが、指が落ちてしまった今となってはそれもかなわないと知るや、キエン・アンは自分が地主の指になってやろうと考える。翌日より、彼女による詩の口述筆記が始まった。

 酒場で飲んだくれているジェームズのところに商品を売りに来たストリート・キッズのウディ。ゴキゲンのジェームズは、まだ子供のウディにビールを勧める。ちょっと飲んだだけでフラフラのウディ。ところがウディが我に返ると全財産の商品を満載した木箱がなくなってる! おまけに自分に飲ませたジェームズまで消えた! 自分はジェームズにハメられたとすっかり思いこんだウディは、必死で街の中を探し回る。

 すごいのは、この中でみんなに知られている俳優はご存じハーベイ・カイテルだけ。アメリカ資本のこの映画の中で、英語を話すアメリカのスターといったら彼だけなのに、そのカイテルが主要登場人物中のワン・オブ・ゼムでしかないこと。これを演ったカイテルも偉いが、演らせた新人監督、ベトナム系アメリカ人のトニー・ブイはまさに天晴れ!

 

シクロ引き版「無法松の一生」 

 何より私が気に入ったエピソードは、何と言ったってシクロ引きのハイと娼婦のランの、恋と言うにはあまりに淡〜い恋物語だ。

 いつしかホテルの前で彼女の帰りを待つのが日課となったハイ。ランも憎まれ口を叩きながら悪い気はしない。そこで語られる彼女の少女時代の思い出が心に残る。

 結局、厳しい現実やつらい毎日ってのは、確かに生活水準の違いでそれぞれ比較にならないかもしれないけど、大なり小なり人間生活につきまとうものだよね。それはホーチミンで生きる人間にとっても、ニューヨークに生きる人間にとっても、それなりに変わらずあるはずだ。もちろん東京だって同じ。今、私が自分の将来や生活や仕事について悩み、考えているのと同じように、シクロ引きのハイも自分の生活何か変えたいと内心考えているんだ。どこか別の世界とかM78星雲のお話だったら、別にそこの奴がどうなろうと何考えてようと知った事じゃないけど、彼なら共感できるよ。よくわかる。

 徐々に心が近づいてきたような気がするハイとラン。だが、さらに彼女に近づこうとするハイに、ランは冷たく言い放つ。「私がシクロ引きと結婚すると思う?」

 ケッ、タカビーな女…と真に受けて怒っちゃあいけない。俺も昔はそれでつまずいた。可愛い女の突っ張りじゃないの。男なら黙って受け流してやるべきなんだ。現にその後、客にボコボコにされてみじめな姿もさらす彼女。つらい思いはみんな同じなんだよな。若かった頃の俺にはそのへんがわからなかった。待ってあげなきゃいけない。時間を与えてあげなきゃいけない。でも、さすがハイは粋も甘いも噛みしめた大人の男。黙って彼女を見守る。黙ってシクロを引く。

 しかし黙ってるばかりじゃないんだね。やる時はやる。急に何を思ったか、それまでやらないと明言していたシクロ・レースに参加。男のガッツ見せてくれました、ダチも手伝ってくれての堂々の一位。このくだりは昨年のイラン映画「運動靴と赤い金魚」のマラソン・シーンを彷彿とさせて熱くなります。

 その賞金つかんでランの元へ。つれない彼女に「金ならある」と迫るハイ。おいおい、やっぱりオッサンもそれかよ? あんたも好きねぇ。

 ホテルの部屋で「さぁ、おっぱじめる?」といささかヤケクソ気味のラン。ところがハイは、彼女にピンクのネグリジェを渡して着替えろと言い、彼女が眠るのを見たいとたのむ。彼女が「涼しくて大きなホテルのベッドで眠る」のを見たい…と。翌朝、ランが目覚めたとき、指一本触れぬまま彼は消えていた。もったいねぇ〜…じゃなくて(笑)男だねぇ。俺だったら一応させてもらうかな(笑)? ハイはまさしくシクロ引き版「無法松の一生」!

 

厳しい現実から歓喜のエンディングへ

 普通、こういう厳しい現実の中で生きる主人公たちの姿を描いたとき、だいたいロクな結末になったためしがない。この映画見てたときも、そんなイヤ〜な予感がそこらじゅうにあった。例えば…ハーベイ・カイテルが娘を見つけたとき、とんでもない境遇に落ち込んでてどうにもならないじゃないか。ちょっとした偶然でスレ違いになって会えないんじゃないか。ハーベイ・カイテルが、木箱を盗まれたと思いこんでる男の子ウディに刺されて死ぬんじゃないか。

 あるいはキエン・アンが同僚のハス摘みババアたちからイビりまくられるんじゃないか。ハンセン病患者の地主に手ごめにされるんじゃないか。

 いちばんありがちなのが、シクロ引きと娼婦の恋は結局成就しないんじゃないかっての、誰でも予想したんじゃない? お金にぎって彼女に迫ったときは、やっぱりね…と思っちゃったもん、俺。

 ところが、この映画の凄いとこは、これらを無理矢理力業でハッピーエンドに持ち込んでいることなんですよ。最後はみんなあふれるような歓喜のまっただ中にいる。これは大変なことだ。

 現実をリアルに表現したらツラい結末になるっていうけどね、ツラいものをやっぱりツラかったですって言うのって、何の意味があるんだろ? そんなのおまえに言われなくても、よくわかってるよって言いたくならない? ただ単にツラいだけの現実なんて、自分のが一つあれば十分だろ? でも、実は良心的とされるリアリズム映画の大半が、こうした非生産的なクソ・リアリズム映画なんだよな。で、そういうほうがホメられる。ミニシアターなんかで、どこそこ映画祭グランプリなんてモテはやされるような作品に限って大概そうなんだよね。

 でもね、こうした現実から希望を見いだそうとするほうが、ずっと意味があるし実際つくるのも大変だと思うよ。試しに君も何かストーリーつくってごらん。ラストに主人公か中心人物殺しちゃうと、お話終わらせるの楽だろう? そういうクラいエンディングにすぐ持ち込むのは、ホントはヘボの証明なんだよ。ツラいものをただツラいって垂れ流していくドラマづくりって、結局ネタにつまったら若手刑事殺したがる「太陽にほえろ!」の七曲署みたいなもんじゃん? そう言う意味で、この映画は脚本・演出の技術的な面から言っても、かなりがんばってると思う。出てくるエピソードのすべてが生かされたとは言えないし、中には先細っちゃうものもあるが、何しろこの歓喜のエンディングが素晴らしいから、そんなの気にならなくなる。

 特に印象深いのは、やっぱりハイとランのエピソードだ。真っ赤な花が咲き乱れ、花びらが降るように散っている街路。真白なアオザイを着て別人のように清楚な佇まいのランを、ハイがシクロに乗せてやってくる。そこでハイはランを見つめて言うんだ。

 「君らしく生きればいいんだよ」

 俺もいつかこんなセリフを言えたらな。赤い花びらの散る下で。

 

 

 

 to : Review 2000

 

 to : Classics Index

  

 to : HOME