「橋の上の娘」

  La fille sur le pont

 (2000/01/31)


ここで会ったが百年目の恋って?

 実は先日、友人が女と別れたんですよ。その相手というのが、まぁ知り合いに紹介された女性でしてね。素敵な女性でしたよ。私も会いました。仲間うちみんなで隅田川花火大会なんか見て。で、半年ぐらい何だかんだつきあってた。

 でも、ダメだったんですね。今年の正月早々に破局したみたい。いろいろ原因探ればあるのかもしれないけど、結局最大の理由というのは平凡でありふれたもの。お互いが合ってなかったんですね。

 確かにこういっては何だが、彼のほうにノリというか勢いがなかった。いくぞっ、よしきたっ…っていうわけでもないけど(笑)、何だかそういうテンポみたいなものってあるじゃない、男女の仲を進める時って。自分を振り返ってみても何かあるよね。

 逆に、これはベストマッチっていうのは、「機関車やえもん」の絵本じゃないけど、なんだっ坂、こんなっ坂…みたいな無理矢理えっちらおっちら行くもんじゃなくて、あれれれ…行っちゃったよ、おい(笑)みたいな、不思議な事の進み方みたいなもんがあるんじゃないの? 理屈抜きのような。

 ここで会ったが百年目みたいな運命的な出会いが、誰にでもあるのだろうか。確かにいい歳をした男が言うセリフではないね。実際私もそんなもの信じられなかった。だって今、地球の人口は40億? 50億? ともかく、出会いはその中での単純な確立の問題になってくる。例えば日本の東京に住んでいる私と、遠く離れたアフリカのナイロビに住む彼女との出会いなんてものは成立しがたいよね。

 でも、もうちょっと自分の生活実感で考えてみると、それは例えどこでもあんまり変わりなくて、逆にどんなに離れていても出会ってしまう二人は出会ってしまうのではないか。昔、知人に聞いた話では、そういう相手に出会ってしまったときは、あるいはそう自覚したときは、理屈でなくてそうわかるんだそうだ。当人にはどうしようもないんだとさ、運命だから(笑)。

 誰にもどうすることもできないような不思議な力。愛のマジカル・パワーを描いて、実は「ワンダーランド駅で」なんかよりずっと説得力ある映画。それが、パトリス・ルコント監督最新作「橋の上の娘」なのだ。

 

君はこんなに素敵なのに、ツイてないなんて…

 映画が始まって早々、一人の女の子がカメラ目線で身の上話を始める。女の子はヴァネッサ・パラディだ。ずいぶんこの娘、歯並び悪くなったな。シュワちゃん並み。

 この様子ではテレビの公開番組の生放送って感じ。じゃあ彼女、有名人なのか? いやぁ、テレビに出てるって言っても有名人とは限らない。彼女の様子から見て、一般視聴者から選ばれて出演してるに違いない。どっちかと言えば生まれも育ちも、おまけに今の暮らし向きも、あんまりよろしくない感じ。しゃべってる身の上話というのも、私は身持ちが悪くて運に見放された女ってな感じで…早い話が誘われればイヤと言えないサセ子ちゃんが、ドツボにはまって先の展望全くなしって調子の話をボソボソしゃべる。これを延々長回しのショットで見せきる。

 これが「橋の上の娘」のオープニング場面。モノクロ・シネマスコープで撮っているのも珍しいが、お話がまた何とも不思議なもの。何と中年のナイフ投げと、その的になる相方の女の子の物語なのである。

 場面変わって、タイトル通り橋の上。手すりの外に身を乗り出して、ヴァネッサ・パラディがいる。やっぱり行き詰まっちゃったのね。今にも身を投げようというその時、ボソッとやってきたのがサエない中年男ダニエル・オートゥイユ。彼が問題のサーカスのナイフ投げで、パラディに向かってつぶやく。どうせ死ぬつもりだったら俺の「的」にならないか?

 これいいね。俺もやろうかな。橋のたもとで身投げ寸前の女を口説くのは打率がいいかも。どうせ人生あきらめちゃてるなら俺のオンナにならないか。別にいいだろ、死んだと思ってつきあえよ。何? 俺とじゃ死んでもイヤ(笑)?

 オートゥイユの説得も私の口説き並みに説得力がなかったか、パラディは身投げ。あわててオートゥイユも川に飛び込み、彼女を助け出す。自殺もできないほどツイてないと泣きが入るパラディに業を煮やしたオートゥイユは、彼女を連れて病室を抜け出す。

 「運がないだって? 君はこんなに素敵なのに!」

 当直の看護婦をつかまえて、看護婦・オートゥイユ・パラディの3人の前にそれぞれ角砂糖を置く。これぞ今後の人生を占う角砂糖だとパラディに念じさせるオートゥイユ。やがてハエがぶ〜んと飛んできて、誰の角砂糖にとまるかと思いきや…パラディの前に置いた角砂糖にとまった。どうだ!君はやっぱりツイてる!

 オートゥイユはパラディを連れてあわただしく旅の準備。「運はやってくるもんじゃなくて、自分でつくるもんだ!」などとまくし立てながら、彼女に考える隙を与えない。しっかし、今までこのオートゥイユの映画を何本も見たけど、こんな妙に前向きな発言してる彼見たの初めてだなぁ(笑)。だいいちフランス映画って前向きな奴出ることめったにないもんな。

 道中、列車内でパラディがまたまたサセ子の面目躍如たるところを見せるが、オートゥイユはやれやれ…といった表情で、ゴムをつけたか?なんてことを気にするだけ。なぜならこの男はいかにもプロらしく、「的」とは寝ないのがモットーだから。彼はパラディに、希にみる「的」としての資質を感じ取ったみたい。

 衣裳まで選んでお金はたいて、パラディの世話をみるオートゥイユ。サーカスに押し掛けて採用しろと迫る。しかしくたびれ中年男の時代遅れなナイフ投げじゃあな、と雇い主は冷たい。ならば…と提案したのが、目隠しでのナイフ投げ。今度はパラディが驚く番だ。目隠し? 聞いてないよォ!…なんてセリフを吐いておびえる彼女をリラックスさせるため、オートゥイユはまた軽い運試し。しかし、それはパラディを安心させるための、ちょっとしたトリック。

 舞台に立つ二人。パラディの前にはカーテン。見えない的に向かってナイフを投げるオートゥイユ。的に突き刺さるナイフの激しい音が、ドルビー・ステレオで鮮やかに観客に迫る。いつの間にか流れてくるのはマリアンヌ・フェイスフルの超ハスキー・ヴォイスの歌。そこでパラディとオートゥイユの間に流れるのは、極度の緊張とそこから生まれる興奮だ。

 初めて成功の甘い味を知ったパラディに、さらなる運試しをさせようとするオートゥイユ。ホテルのカジノで、一人でルーレットをさせる。バーで飲んでいるオートゥイユには、その様子がなぜか手に取るようにわかる、まるでテレパシーのように。ゆっくり…そうだ…そこだ、そのまま…いいぞ……やった! 勝ちまくるパラディに乾杯するオートゥイユ。

 大勝ちして喜色満面で帰ってきたパラディに、オートゥイユは照れくさそうに白状した。「ごめんよ、今まで言ってたことはウソだった。俺は今までツイてたことなんて一度もないんだ。いつも他人ばかりだった」…でも、君となら、君と俺の二人ならきっと…。

 

二人が1たす1以上のものになる瞬間

 ツキまくるパラディとオートゥイユは、運命的なものを感じたのだろうか。旅の途中で、またサセ子の悪い癖が出かかる彼女だが、いよいよのところで男を突き飛ばし、オートゥイユのもとに戻る。あたしの欲しいのはそんなものじゃないわ。欲しいのは…。

 線路わきの小屋になだれ込む二人は、そこで二人だけのナイフ投げのショーを演じる。また静かに流れ出すマリアンヌ・フェイスフルの歌。ここでは彼女の歌ってことが肝心なポイントだ。

 マリアンヌ・フェイスフル…彼女は元々いいとこのお嬢様だった。それがアイドル歌手になって、当時飛ぶ鳥落とす勢いの若きヒーロー、ローリング・ストーンズのミック・ジャガーと出会う。ギラギラと妖しく発光しているようなスウィンギング・ロンドンのまっただ中で、ドラッグとセックスとスキャンダルにもみくちゃにされ、最期にはミック・ジャガーにも捨てられ廃人同然になって社会のメインストリームから姿を消した彼女が再び表舞台に登場してきたとき、血を吐くようなハスキー・ヴォーカルで愛の痛みを歌う特異なシンガーとなって生まれ変わっていた。

 そんなフェイスフルの壮絶ともいうべき愛の歌に彩られたナイフ投げシーンは、それだけでただならぬものを感じさせる。それは二人にとってセックスにも等しい行為? そうかもしれない。いや、それ以上だ。二人がお互いの存在で1たす1以上のものになれる、そんな瞬間なのだから。

 しかし、仕事で豪華客船に乗り込んだ二人は、そこで船上結婚式を挙げたギリシャ人の若者と知り合う。彼は典型的マリッジ・ブルーに襲われていた。運悪くまたまた例の病気にとりつかれるパラディ。パラディはギリシャ人と駆け落ち。二人のコンビもここで解消。

 そして、二人の運命はまた暗転する。

 パトリス・ルコントっていうと、日本では何と言っても出世作となった「髪結いの亭主」が有名だよね。それの他にも「仕立て屋の恋」とか最近では「リディキュール」とか、言ってしまえば「文学的」なテイストの作品で知られている人。でも、ルコントにはもうひとつの魅力がある。元々コメディ映画からキャリアをスタートさせている彼ならではの、「タンゴ」「ハーフ・ア・チャンス」などの娯楽要素たっぷりの映画群。ホントは本国ではこっちのほうが、この人の持ち味なはず。ただ、その両者に共通するのは、回りくどい表現や屁理屈を極力排除した、ある種の明快さ。わかりやすいこと、ストレートなことが、この人の身上と言える。今回は今まで書いてきたように、かなりせっぱ詰まった愛の物語なのに暗さを感じさせない。モノクロ画面に懐メロをがんがん流すって作戦は、まるでウディ・アレン映画のようなユーモアすら感じさせる。それが救いだし、映画を寓話として見せるのにも役立ってる。

 さて、二人は別れたらまたドツボに逆戻り。全く別行動でどんどん落っこちてく二人だが、心の交信はテレパシーみたいに続いている。これ、いいねぇ。電子メールみたいだ。電子メールよりいいかも。どんなに離れていても、二人をつなぐハートのメール。そして、やっぱり俺たちいっしょじゃなけりゃ…と。

 それで、二人はどうなるんだって? それは聞くだけヤボと言うものじゃない(笑)。

 

 

 

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