「ワンダーランド駅で」

  Next Stop, Wonderland

 (2000/01/10)


大丈夫かボサノヴァ?

 前にも書いたと思うんですが、私は柄にもなくラブ・ストーリーが好きなんですよね。その中でも、私は勝手に「赤い糸もの」と呼んでいるんですが、運命に導かれる恋人たちを描いた映画が好き。映画ならではのマジックが、いちばん生かされているジャンルだと思うから。映画のマジックって、SFXやCGのことじゃないと思っているから。えっ? エス・イー・エックス? う〜ん(笑)。

 このジャンルじゃ、香港映画の「ラヴソング」が最近の出色。俺、実はあの「ターミネーター」も、SFアクションのかたちを借りた「赤い糸」映画だと思ってるくらいなんだな。

 2000年正月は、この「赤い糸」映画が2本も公開されるから楽しみだったんですよ。1本はスペインの監督さんによる「アナとオットー」でしょ? そしてもう1本が、ここにご紹介するアメリカの、「ワンダーランド駅で」というわけですよ。

 ところが、映画館入って上映が始まるまで心地よいボサノヴァが流れているのを耳にしたときから、ちょっと不安になった。そういやこの映画、全編ボサノヴァが流れているのが、売りの一つになってたっけ。

 いやいや、別にボサノヴァが悪いって言ってんじゃない。ラブ・ストーリーにおしゃれなボサノヴァ、どこが悪いのよって? 待った待った、ちょっと待っていただきたい。

 ハートに直接アタックしてくるようなラブ・ストーリー…。やっぱり、心底鳥肌立ってくるような感激を味わいたいのなら、そうじゃなくっちゃね。でも、そのためには、語り口にもある種の素朴さ純朴さがないと、ロマンチックなパワーが出ない。一方、ここで流れるボサノヴァってどんな音楽かって言うと、本場南米での音楽としてのポジションは知らないが、日本にしてもそれ以外の国にしても、一種洗練されててオシャレで…早い話が取り澄ましてって気取ってて、ちょっとピュアとは程遠いもんじゃないかい。

 しかしそれじゃあねぇ。きどった男と女がチャラチャラするような映画じゃあ、気持ちよく酔えないじゃん。

 ここらへんとこ一体どうするんだ、というのが、実は私にとってのこの映画最大の見所であった。

 

すれ違いを繰り返す、岐路に立つ二人

 映画の開巻まもなく心地よいボサノヴァが流れ出すが、画面じゃそれどこじゃない。ヒロインのエリンの家から、今まさに同棲中の男が別れを告げて荷物を運び出す真っ最中。この男、地球を救うとか言ってるわりには徹底的にてめえ勝手な、典型的環境野郎。でも、こんな男とズルズルつきあってたヒロインの男の趣味っていうのもどうかと思うんだけど。

 彼女は看護婦で、お袋サンというのがこれまたてめえ勝手に生きてるキャリアおばはん。常に自分の物差しを娘に押しつけることを愛情と信じて疑わないこの母親は、自分が狂い咲きしてるもんだから娘にも当然オトコをあてがわねばと信じてる。娘はでもこんな母親にキレる寸前。

 そんな彼女が通勤にお出かけにと重宝してるのが地下鉄。そして、ここにその地下鉄を利用する男が一人。水族館でボランティア・ダイバーとして働くアランだ。もう若くないアランは水道配管工をしてきたが、本来の夢である海洋学者をめざして、水族館で働きながら勉強している。ゆううつなのが父親のバクチ好き。ヤバい金を借りまくっては、その借金のツケがアランに回ってくる。

 おわかり? このヒーロー&ヒロインが最初からまったく違う世界に住んでいて、お互いに相手を知らずに、すれ違いを繰り返す。そして、二人とも自分のそれまでの暮らしを変えたいと熱望し、出会いを求めてる。じゃあ、二人はいつ出会うのか?…というのがお楽しみなわけ。

 

人ごととは思えないヒーロー&ヒロイン

 ヒロインは過去のいろいろな経験から、ロマンティックな運命論みたいなものを徹底的に嫌う。そんな彼女に業を煮やした母親は勝手に「オトコ求む」の新聞広告を出したもんだから、彼女マジギレ。しかし、同僚との語らいの中で、出会いかたは問題じゃない、どうやって関係を続けていけるかが問題だ…という言葉に何かを感じた彼女は、この広告に応募してくる男たちに会ってみようと思う。

 何だか最初の頃は、なぜか映画見ていてヒロインのほうに感情移入してしまうんだよね。特に母親との関係。母と娘の関係は母と息子の関係と違うんだけど、どうもあのイヤ〜な感じに自分の人生と共通するものを感じてしまってね。そのうち、ヒロインの母親とは関係ないところまで考えが及んでいく。

 私は元々一人っ子なもんだから、子供の頃からどうしても母親っ子と見られる。それが何ともイヤだったんだね。そんなこととはつゆ知らず、母親は子供の頃から私に父親の悪口を並べ立ててた。親父は当時の典型的亭主関白オトコ。まあ、昔だからそれで通っちゃってて、幸運だった最後の恐竜みたいな種族。朝から晩まで働いて忙しかったから、我が家は母子家庭同然だった。

 確かに親父は問題のある亭主だったのかもしれないが、極端に悪い男かと言えばそれほどでもなかっただろう。ただ、朝から晩まで親父の悪口聞かせられる私としては、まだ判断力のない年齢だからたまったものではない。オトコの欠点も痛感させられながら、同時に女とは陰でこんなにも男をバカにしてるのかと骨身にしみた。だから、父親のような男になるまい…と思いながら、年齢が上がるにしたがって世間並みの男に近づいている自分に気づき、凄くイヤでイヤで仕方なかった。母親が呪った男性像…でもそれっていうのは典型的な男の姿でもあったんだよな。それは必ずしもいいものではないにしろ、100パーセント否定するかというと、ちょっとどうかと思うよね。一方、そんな女たちってイヤだと感じ始める気持ちも、止めることはできなかった。本人の気持ちとは裏腹に世間で何かと母親っ子と見られることへの反発もそこには加わってたし。でも、そんなこと大なり小なり誰にでもあることなんだろうけど。

 それが、母親も父親もただの自分と同じようなフツーの人間に過ぎないと、ホントに腹の底から痛感できるまでには、とてつもなく長い時間がかかった。そして、ようやくここへ来て、自分がさまざまな呪縛から遅まきながら解き放たれてきたのではないか…という気があるんだよね。そして、ある日私がそう感じなくなったとき…私にそんなことを感じさせない女性が現れたら、その時が…な〜んて思いながら、もういいトシこいてしまった。でも、今でもそんな予感がしているんだよね、正直な話。そして、それは単なる予感じゃないって…甘っちょろいかね?

 一方、アランの弟や周囲の友人たちは、たまたまエレンの「オトコ求む」広告を見て、これをネタに楽しもうと一計をはかる。こんなロクでもないおふざけにうんざりのアラン。でも、アランが熱っぽく配管工から海洋学者になる夢を語っても、みんなシラけてバカにするだけだ。親しくつきあってきて価値観を共有してきたはずの友人たちが、ひどく遠い存在に感じられるとき…これも、俺としてはつい最近痛感したことだから、人ごとではないな。

 エレンは、応募してきた男たちとかたっぱしから会うんだけど、どいつもこいつも見事に俗物ぞろい。でも、確かに女に接近するときの男ってこういうもんかもしれないね。自分でも思い当たるフシあるよ。何か自然じゃない。つくってる。少しでもいいとこ見せようとしてるんだけど、それが何かゆがんでる。まぁここあたり、典型的なフェミニズム映画だったら男のダメなとことを一方的に暴き立てる場面てなことになるんだろうけど、ちょっと違うのは男たちのうちの一人が彼女にぶつける一言だ。

 「なら、何で君はこうして俺に会いに来てるんだ?」

 めいっぱい冷静なポーズはつくってみても、実は寒〜い彼女の事情もあるわけなんだよな。

 

運命の出会いを実況中継

 この映画、こんな感じでミクロな部分で実感こもった描写が続出。それを手持ちカメラでドキュメンタリーみたいに撮っていくから、確かにリアル感はいやでも増す。いわばテレビの実況中継みたいなノリ。しかも、一見全く関係のないようなヒーローとヒロインを交互に見せる二元中継の様相を呈していく。それは野球の試合をさまざまな角度のカメラから、ズームや移動で追いかけ、同時進行でカメラを切り替えて見せていくのに似ている。ロマンティックどころじゃないね、この冷静さ。

 だから、何となくおしゃれなボサノヴァでも流して見せていかなきゃ、実感こもりすぎてて気がめいっちゃうのかもしれないね。偶然とはいえ作戦勝ち。そんな意味でも、これはアメリカ映画には実に珍しいデリケートな作品だ。

 お話はその後も紆余曲折あって、すったもんだしたあげくストーンと一気に二人を引き合わせて幕となる。それは、あんまりにも唐突過ぎるんで、正直言ってそれまでのていねいな描写に比べてあんまりじゃないのと思わされることもないわけではない。

 でも、これから先の話を延々見せてどうなる。重要なのはそんなことじゃないでしょ。

 出会って感じる、その何かが重要なんだからさ。

 

 

 

 

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