「ファイト・クラブ」

  Fight Club

 (1999/12/19)


いい歳してもガキのまま、悶々と…

 てめえが男であることが情けなくなるときってないかい? 俺しょっちゅうなんだけど、特に先日はそれを強く思った。それも、親父が入院した例のあの病院で。

 お袋もかなりまいってたけど、俺ときたひにゃ自分じゃあ強く振る舞っているつもりがやたらビビッて、あげくの果てに医者のやり方にもいろいろ文句言って、結局何の役にもたってない。完全にウロたえてやんの。情けね〜。もしつきあってる女がいて、これ見たら一発で愛想尽かしそう。まぁ、だからそんな女もいないんだけどね。それ後で考えてみると、やっぱり俺なんて無駄に歳とってただけで、精神的には全然大人になってなかったんじゃないかと唖然とさせられるんだわな。そして、別に俺だけじゃないと開き直る訳じゃないけど、たぶん女房子供がいて、いっちょまえのツラした男たちの大半でも、実はそんな状態なんじゃないかと思ってしまう。俺も含め、こいつらデカいツラだけはするけどね。実は大人になってないし、どこかひ弱。

 かと思えば、前にこんなこともあった。ある日、地下鉄のストが朝解除されて、出勤のため大混雑の車内で。こともあろうに痴漢行為に及んだ奴がいたと思いねえ。みんなそれでなくてもストと混雑でイライラしてる。そこに「きゃ〜、チカン!」と女の子の声。さぁどうなるか?

 すると。「てめ〜」といきなり周囲を男たちが取り囲んで、チカンくんをボコボコ。最初の頃はチカンくんの顔が群衆の中に見えていたのが、ズルズルと潜っていってしまい、あとは取り囲んで蹴りを入れてるサラリーマンたちの姿が見えるだけ。チカンと言った女の子は怯えてどこかにいなくなってしまった(笑)。あれ、あの後どうなったんだろ? でも白状すると実はちょっと俺も参加したかったけど(笑)。結局、あれが誰でもよかったんだね。

 世の中こんなに発達して出来上がってきちゃってる中で、男たちは(女もそうかもしれないけど)なかなか大人になれないでいる。あるいは大人にならないでも、何とかなってしまう。そして、みんな飼い慣らされちゃっておとなしくなっちゃってるんだと思ってたら、いやいや…。でも、男の激しさまだ健在と言ったって、事と場合によるよな。去勢されちゃってるのも考えもんだけど、こんな歪んだかたちでしかパワーが出てこないんじゃあちょっとね。

 まして、今は世の中荒みきっている。それでも回りの連中は結構うまくやってるように見えて、自分たちだけ何だか割りをくっている気持ちがどうしてもぬぐい去れない。先の見通しも「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」の森の中みたいに真っ暗だ。いつまでたっても抜け出せないところまでそっくり!

 ニーッポンの未来は…おう、おう、おう、おう、どうしてくれるんだオブチてめえこの野郎! 男たちにはやっぱりLOVEマシーンが必要?

 こうした男たちが内面に煮えたぎるような何かを、機会さえあればそれを外に向かって噴き出させたいと内心悶々としていたら? 頭ん中まだまだガキのままなのに? 何だか男たちは今、ある程度年齢のいった奴から比較的若い奴まで、そろいも揃ってみんな不健康な気分に浸っている感じがするしね。

 抑圧されてる気持ち、マヒさせた感覚…それって溜めたあげくに解き放とうとしたら、一体どんなことが起きるんだろう。そんな歪んだ男の気分って一体何なんだろう。ブラピ最新作「ファイト・クラブ」って、実はそんな映画なのだ。

 

 

まずここでお断り。この映画をまだ見てないのなら、

この後の文章は読まないほうがいいと思うよ。

 

 

ナレーターはエドワード・ノートン

 「ファイト・クラブ」って映画のことは、公開前からかなり話題になってたよね。それも、何回見てもよくわからない無茶苦茶な予告編のことで。どうも、ブラピとエドワード・ノートンがアンダーグラウンドでけんかクラブを始めるみたいなことだけはわかるけど。後は、飛行機が飛んでる最中でぶっ壊れたり、ビルが爆発したり、キャスト名が出てくる背景に水虫薬のCMに出てくるようなCGが出てきたり、もう何が何だかわからない。そして、カタカナで「ファイト・クラブ」って書いてある石鹸がドーンって出てくる(笑)。何じゃこりゃ?

 本編の始まりもそうだ。タイトルバックが例の水虫CGで、これ何だろうと思っていると、カメラがどんどん引いていって、エドワード・ノートンの口の中に銃口が突っ込まれてるの図であることがわかる。さっきの水虫CGはノートンの脳味噌の中身を表現したCGなんだな。ふ〜ん。そしてノートンがブツブツと独白し出す。ノートンはイスに縛り付けられていて、坊主頭の誰かに銃を突きつけられていたんだ。

 ここはガラーンと空いた高層ビルのあるフロア。窓からは街の夜景がきれい。でも、ノートンがブツブツ言ってるのをよく聞くと、何だかこの街のいくつものビルに爆弾がしかけてあるらしい。すると、そんなノートンのナレーションが終わるか終わらないかのうちにカメラがビューッと窓から外に飛び出していって、それらのビルの地下に突き進んでいき、その地下駐車場に停めてあるワゴン車に爆弾が積まれているのを見せる。その間、ほんの数秒。あっという間。

 こんな冒頭の短い時間の間に、見ている間に一つのルールが提示される。1、この映画の語り部はエドワード・ノートンである。2、この映画のビジュアルは徹底的にノートンの意識に基づいて構成される。…わかる? カメラはホントにノートンが言ったものをすべて見せようとするんだ。というかナレーションだから、正確にはノートンが頭に思い浮かべたものをすべて映像化するということになるんだけど。こんな映画見たことない。でも、ここんとこが後々重要なんだね。

 で、キツネにつままれたような気分の我々に対して、そもそもどうしてこうなったかをノートンが説明し始めて回想シーンになってから、映画の見た目はようやく普通の劇映画のスタイルに戻ってきた気がする。でも実はそういう気がするだけで、ホントはそうじゃないんだけどね。

 エドワード・ノートンは平凡なホワイト・カラーの青年。バカ出世バカ儲けはしてないものの、自室に北欧家具セットを揃えて悦に入るくらいのゆとりはある。平凡だが素晴らしき我が人生。だが、そんな彼に人知れず悩みあり。それは不眠症だ。そして、彼自身何となく無感動に人生を過ごしてるなと漠然と感じてはいる。

 そんな無気力無感動な毎日が変わり始めたのは、さまざまな病気にかかっている者たちのセラピーにひそかに潜り込むようになってから。

 やれガンだ白血病だ何だといろいろな病気と戦う人々が、お互いの支えとなるために集うセラピー。そこにあたかも患者のごとく装って潜り込むノートンは、生と死のはざまにいる人々のリアリティの中で気持ちよく泣いて、気持ちよく眠りを取り戻す。生きてる実感を感じるのか。クセになりそうって? そりゃもうクセになってるって。

 ところがノートンは、いつの間にかそうしたセラピー三昧の中で、必ずブチ当たる連れがいることに気がついた。それが不思議な女ヘレナ・ボナム・カーターで、女のくせにタマキンのガンのセラピーに来たり、何だろうがお構いなしに出て来ちゃうからマズい。どーもあの女がいると泣けない。泣けないからまた眠れない。業を煮やしたノートンはボナム・カーターつかまえて、おまえみたいなニセモノは真面目なセラピーに来るななんて偉そうに言うんだけど、そりゃやっぱりニセ患者のノートンごときに言われたくはないわな。ともかく、この妙な女とこれまたミョーな関わりを持ったノートン。

 そんなある日、商用で飛行機に乗るノートンは、隣の席に乗り合わせた石鹸売りのセールスマン、ブラッド・ピットと意気投合する。このブラピは消費文明に人間は毒されててうんぬんとかブツブツ言ってるが、とりあえずあんまり意味なし。でもホントのところ、この二人意見が合ってるようには見えないんだけどなぁ。

 ところがノートンがマンションのわが家に帰ってきてみたら、あららら…自宅は爆弾で吹っ飛んでパー。ご自慢の北欧インテリア・セットも木っ端みじんの丸焦げ。呆然としていたノートン、なぜか気をとり直すと飛行機で知り合ったばかりのブラピの名刺の電話番号にアクセスしようとするんだから、人生はわからない。

 ビール飲んでブラピに一晩つきあってもらったノートン。さらにノートンを家に泊めるのと引き替えに、ブラピはとんでもない提案をする。

 俺を殴ってくれ。

 ビビるノートン。正気じゃないね。でも仕方なく殴ると、ブラピもすかさずノートンを殴る。うずくまるノートンも一言。もっとぶって…。おいおいおい、危ねぇんじゃねえのおまえら? かくして二人は真夜中の路上で殴り合い…っていうか、殴られ合いだなこりゃ。終わった後で、またやろうぜとは…おいおい。

 ところが、物好きはいるもので…そんな二人を見てか、殴り殴られ仲間が一人また一人と増えていくから世も末というもの。ノートンは豪華マンションあとにして、ブラピの根城の倒壊寸前みたいな廃屋に居を移した。

 

ブラピのカリスマけんかクラブ

 朝起きてから夜眠るまで、現代人っていうのはとにかく絶えず何らかの抑圧を感ぜずにはいられないよね。こんなことを言ったらまた語弊があるし物議を醸しかねないけど、ある年齢の男たちってそれでなくても社会の抑圧をより強く受けているんじゃないかと、少なくとも自分たちは内心勝手に思ってるはず。女には女の言い分ご意見おありだろうし、それ全くごもっともなんだろうけど、男は男で何だかてめえらは割をくってるとずっと感じてる。それが現代ってもの。

 こんな状態を乗り切っていくためには、敏感さ繊細さをある程度切り捨てて行かざるを得ない。人間的なデリケートな部分、生き物としてのベーシックな部分…感覚やら生命力やら、人間味と言われる部分まで切り捨てざるを得ない。そういった尖った部分を削り取り、鈍化させて、ニブらせていかねばならなくなる。つまりマヒさせていく、去勢させるわけだ。

 でも、それって人間としての豊かさの部分だ、感動の部分だ、生き生きとした活気の部分だ。それがほとんど抑えられていくとしたら、人間としての生きる喜びって何なんだ。

 それに本来あるものを抑えつけている訳だから、どうしても内面に不満はたまり続けているわけ。それがいつもくすぶっているんだ。こんな世の中どうかなっちまえばいいのに…。そんな気分に、実はそう大して深い意味なんてない。例のチカンを袋叩きにしたサラリーマンたちに、理由なんていらなかったのと同じ。でも、確実にそんな荒んだ気持ちは自分の中に育っていく。それが怖いんだね。

 で、中身は実はいつまでもガキ…。

 そんなヤバい気分の男たちが夜な夜な集まって大暴れのファイト・クラブ。ノートンもこれでずいぶん人生充実してきた気がしてきた。そんな男たちを統率するブラピのカリスマ性もいや増すばかり。カリスマ美容師どころの騒ぎじゃないぜ。でも何だかメンバーが増え、組織が強大になっていけばいくほど、やたらクラブの規則だ何だかんだと高圧的になってきたのがチト気になるな。このサイト見に来てくれるみなさんにはもうすっかりおなじみの、「思いっきりテレビ」のあのダンナみたい。

 ノートンが憂鬱になってきた理由は他にもある。あの目障りな女ボナム・カーターがなぜかこのノートンとブラピの住処に転がり込んできたこと。しかも朝から晩までブラピとボナム・カーターはセックスやりまくり。何であんな女を…とボヤくノートンだが、ホントは自分がやりたいんじゃないの? あれ、ノートンってこの女にまだ手をつけてなかったんだったっけ?

 でも、ブラピにしたってボナム・カーターとやりまくるだけで、彼女と楽しく語らっているなんて気配もまるでない。ましてファイト・クラブのことを彼女にバラすなと、ノートンにクギを刺すしまつだ。

 

おニャン子クラブとモーニング娘。との違いはだな

 やがてノートンのあずかり知らぬところで、ブラピはファイト・クラブをさらに強固なものにした「軍団」みたいなのをつくりだす。その統率の堅さ、服従の強さ、何だかまるでナチみたい…というより、三島由紀夫の「盾の会」みたいだわな。御法度な世界。そしてドンドン計画はエスカレートしていって、アメリカ中でファイト・クラブを組織して、各地同時多発テロみたいなものを計画してると知って、唖然とするノートン。その中心となるのが、クレジットカード会社の爆破とか言ってるが、ここらへんで私もちょっと待てよ…となってきた。

 金融機関のビルを爆破して金融システムを大混乱させれば、物質文明から人間性を解放できる…なんて、あまりに単純素朴すぎて、各球団の4番バッターを全部持ってきちゃえば優勝できるって本気で信じてる読売ジャイアンツなみのガキの発想。でも、いやしくもテロリストや政治結社が、いわゆるひとつの長嶋茂雄なみの発想じゃあ困るんですね〜。

 してみると、こいつらコワモテな顔してファイト・クラブで男らしさの復権を実践したつもりになってるが、ホントは元々、まだ男にも大人にもなってないんじゃないの? そういや「クラブ」ってネーミングからして、「桜っ子クラブ」だって、「おニャン子クラブ」だってガキのもんだあな。これが女子大生になると「オールナイターズ」とくる(古い)。同じ素人かき集めてデッチ上げた集団でも、中澤裕子一人ドーンと置けば、もう「モーニング娘。」になって「クラブ」は付かない。例えバラして「プッチモニ」になってもね。大人の集団なんだわな。

 そう言えばブラピとノートンの会話の中に、それぞれの親父との不毛な会話に触れたものがあったよね。親父が学校行けと言うから行って、卒業するとなったら親父が就職しろと言い、就職したら嫁もらえと言う。こんなあたりに成長過程における決定的な父性の欠如が感じられたよね。でも、これって今の男たちには大なり小なり共通する部分じゃないか。男のちゃんとした見本が見れないから、男になれないとは言わないが。皮をムクとかアレをやるとかすりゃ男になれるってもんでもない。実際なれないよ、そんなことじゃ。内心、私にもわかっているんだ。男としての重荷を背負わず逃げ回ってきた私自身、大人の男などと言う資格などないことを。

 ヘレナ・ボナム・カーターはじめ、女を徹底的にはずそうとする姿勢も、潔癖性というより、ガキが男同士の遊びのときに女の子をはずしたがるのに似ている。ボナム・カーターが入ってくると、そんな男同士のお約束の世界にとどまっていられなくなると、本能的に感じてたんじゃないか?

 女の子を意識したとき、男の子は男に、大人にならなくちゃいけないと感じるものだから。

 だから、ラストは改めて向かい合う男と女だ。ここからまたやり直すしかないんだ。そんなラストシーンに、実はとんでもないモノがサブリミナル効果で写っているらしいんだが、真の男になる…いや、ここまで来たらもう性別は関係ない。真の大人になるための現代の通過儀礼を描いたこの映画ならば、それは単なるギャグや思いつき以上のものかもしれないな。

 男よ、真の大人たれ。それは決してファイトなんかで証明されることじゃあないはずだ。

 

 

 

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