「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」

 Knockin' on Heaven's Door

 (1999/11/14)


ボブ・ディランってどんな人?

 今から14〜5年前のこと、欲に言う「エイドもの」っていうか、チャリティのお題目付けてロックのスーパースターたちが夢の共演ってのが大流行した時期があったんだ。もっとも当時のスター必ずしも今のスターとは限らないけどね。

 そのきっかけは、ブームタウン・ラッツというバンドのリーダー、ボブ・ゲルドフの音頭取りで実現した「バンド・エイド」なるブリティッシュ・ロック界のスーパースター総出演のレコード(CDじゃないのだ)。その次に続けと出たのがUSA・フォー・アフリカなるアメリカ・ポピュラー・ミュージック界のスター共演レコードだった。曲は「スリラー」で絶好調のマイケル・ジャクスンと、コモドアーズ脱退後はソロで人気爆発していたライオネル・リッチーの共作。プロデュースを担当したのが、自身のリーダー・アルバム「愛のコリーダが大ヒット、さらに「スリラー」も大ヒットと、やはり当時絶好調だったアメリカ・ポピュラー・ミュージック界の大御所クインシー・ジョーンズ。当時考え得るあらゆるスターたちをかき集め(来れなかったのはプリンスだけとか)、みんなにちょびっとづつ歌わせて花を持たせる作戦。その中でも見せ場というか聞かせどころは、ブルース・スプリングスティーンとスティービー・ワンダーの掛け合い、それにおいしいとこをさらうボブ・ディランのパートだったんじゃないかと思うんだな。

 彼ら(に加えてレイ・チャールズ)は明らかに他のスターたちとは格が違うというか、扱いがはっきり違っていたね。メイキング・ビデオ見ると、ボブ・ディランはスタジオ内で困惑していたことがわかる。彼、こんなクサいメロディの歌うたったことないから、どうすればいいかわからなかったんだ。凄いのは、あのスティービー・ワンダーが自らピアノを弾きながら、この大甘の歌を見事にその場でボブ・ディラン節に編曲してしまうこと。これが笑っちゃうほどディランなんで、本人も苦笑してた。

 で、何が言いたいかというと、並み居るスーパースターを差し置いて、あの大物スティービーにそっくり歌唱指導をやらせてしまう、ボブ・ディランの偉大さだよな。明らかにあのスタジオ内では、みんながディランにリスペクトしていた。

 または、カナダ出身の通好みのロック・バンド、ザ・バンドの解散コンサート(これもその後、ぬけぬけと再結成などしてくれちゃったけどさ)を収録したロック・ドキュメンタリー映画の傑作「ラスト・ワルツ」を憶えていらっしゃるかな?

 これ当時「タクシー・ドライバー」で若手の鬼才として売り出し中だったマーティン・スコセッシが監督を担当したことでも注目の作品だが、コンサートそのものはザ・バンドゆかりのロック界のスーパースターたちがゲストで登場し、ザ・バンドをバックに1曲づつ自分の持ち歌を披露というのが売りだった。クラプトン、ニール・ヤングなど錚々たる顔ぶれが出尽くした後で、真打ちは最後に登場とばかりに満を持して現れたのが、御大ボブ・ディラン。この時は今まで出てきたスターたちもステージに戻り、おまけとばかりに元・ビートルズのリンゴ・スター、そして当時ローリング・ストーンズに加入したばかりのロン・ウッドという東西両横綱の代表も参加(笑)して、さながらオールスター・バンドの様相を呈していた。

 そして、相変わらずの調子っぱずれで歌い出したディランの「アイ・シャル・ビー・リリースト」を聞いているうちに、ナマイキなガキであった私を含め映画を見たすべてのロック・ファンの胸には、「ロックは終わった。ロックは死んだ」という思いが理屈抜きで広がっていった。別にそういう内容の歌でもないのにみんなにそう思わせたのは、スコセッシ演出の素晴らしさもあったんだろうが、大トリを務めたディランの存在感じゃないか。あれはロック界最後の晩餐という感じだったよね。

 そんなディランの曲の題名をそのまま映画タイトルにしてしまった映画が、本作「ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」。別に知らなくてもいいことだけど、知っておけばまた興が増すというものではないかい。

 

海が見たくなった二人

 変なところから話始めちゃったんだけど、この作品は最近のイキのいいドイツ映画の流れの一環であることは間違いない。イギリス映画が若手の新鮮な作品群で活性化したのと同じようなことが、ここドイツでも起こってるんだな。「バンディッツ」、「ラン・ローラ・ラン」、そしてこの作品と、それぞれの映画としての出来の善し悪しはともかく、共通して流れる新鮮さイキの良さには、これからグングンのしてくるなという予感を抱かせてくれるね。

 でもこの映画、作品そのものは何ら奇をてらったところやテクノロジーに溺れたところのない、オーソドックスな映画なんだよね。なのにこの疾走感、爽快感。これは一体何だろう。

 お話は全く性格も素性も違う男二人が、同じ病院へ診察を受けに行き、そのまま入院させられるところから始まる。この二人、片やワイルドなマーティンは脳腫瘍、もう片方の人がよくて気弱なルディは骨髄腫。キャラ的には「ブロークダウン・パレス」で言えばマーティンがクレア・デインズ、ルディがケイト・ベッキンセールって感じと言えばピンとくるかな? ともかく二人とも不治の病で末期症状。もうすぐ死ぬことは間違いない。それまで会ったこともない、会うはずもなかった二人が同じ病室に入ったことから話は始まる。俺はもう死ぬんだよ。えっ?俺もさ。…じゃあ酒ぐらいかっくらったって問題ない!

 ガンガン飲んでいい気分に意気投合の二人。そして、ゴキゲンのマーティンの口から出てきた言葉が、二人の運命を変えた。…天国じゃあ海の話をするのが大流行なんだぜ。ホント? 何で知ってるの? まだ死んでないのに。

 死んでからあの世でみんなの話に参加出来なきゃ意味がない。まだ海見たことないルディはこれ聞いて焦った。だから、いつもは引っ込み思案のルディも、マーティンの海を見に行こうというトートツな提案に一も二もなく乗ったわけ。

 でも、ちょっと遠出には足がいる。というわけで、病院の駐車場から車を拝借することにした。しかし、この車がいろいろと厄介のタネになってくるんだな。

 これに先だつ映画の冒頭で、やくざのボスが二人のシケたチンピラに金を運ばせようと、用意したのがこの車。この二人、会話聞いてるだけでも相当なアホで、特に片方は「ラン・ローラ・ラン」で甘ったれたことホザいてたローラの恋人役やってた奴。アホな訳だ。いで立ちからして「レザボアドッグス」丸出しの黒づくめとくれば、そのアホぶりもうかがえようというもの。

 ボスにイヤというほど車から離れるなとクギを刺されたのに、何ともアホな理由で病院までやってきて、あげくの果てに、例の死にかけの二人に車盗まれた。ボスにどやされた二人は、この後、マーティンとルディを血眼になって追いかけるハメになる。

 また、マーティンとルディは衝動的に病院を抜け出してきちゃったんで、お金も何にも持ってきてない。ルディなんて靴もない。そこで、まずガソリンスタンドで無賃給油をしようとするのだが、たまたま車の中にあった拳銃をチラつかせることになり、行きがかり上、強盗をやらかすハメになる。あらららららら…ま、いーか。どうせ俺たちもう死ぬんだし。

 それでもお人好しのルディは何かと気にはしてたが、新しい服を選び、さらにお金をつくるためにマーティンが銀行強盗をするころには、もう動じなくなる。この銀行強盗で警察にも追われる身になり、立派なお尋ね者。不道徳だって? その通り。でもまぁ待っていただきたい。

 この映画のいいところは、この二人がこんな行き当たりばったりでやりたい放題やっていくところ。そのことに対して、社会への反逆とか体制への挑戦といったように自分たちが立派なことしてる気がさらさらないのがかえって小気味いい。この点「バンディッツ」の女たちって、やたら自分たちがやらかしてることを正当化して、偉そうだったでしょ。自分たちは正義なのだ…みたいにさ。バカだな、そんなことどうだっていいんだよ。あんなケチなへ理屈なけりゃ、彼女たちもっとよかったのにね。この二人にはそんな気全然ない。ポリシー、スローガン・ゼロ! 最終的に海が見たいだけでそれ以上の野心も何もないし、別に自分たちのやってることが正しいとも思ってない。だから見ていて気分がいい。おまけに銃弾が雨あられと降り注ぐのに、誰一人として死にはしない。それがとっても後味良く爽快なのだ。そう! これは大人のおとぎ話なんだね。

 途中、お互いの願い事を紙に書いて見せたりするんだけど、これが、マーティンは母ちゃんにエルビスと同じピンクのキャデラック買ってやりたいとか他愛もないもの。ルディなんて、二人の女とセックスしたいという願いなんだからトホホ。他に何か願いはないのかよ。でも実際のところ、今際のきわの願い事なんて、そんなものかもしれないな。それに、確かにちょっとはそれ興味あるよなぁ。私は、とりあえずは相手は一人でいいけどね。ホント、たった一人でいいのにな…。

 

泣く子も黙る千両役者登場

 ヤクザと警察の両方を向こうに回した二人だが、ダメで元々のケツまくり開き直り戦法がなぜか功を奏して、必死に逃げ回ってる訳でもないのにホイホイと敵の包囲網をかいくぐる。二人は盗んだ車のトランクに入った大金にも気づいて、これもついで…とみんなにバラ巻き始めるのだ。

 でも、そんな修学旅行の枕投げ大会なみにバカバカしくも楽しい二人の逃避行にも、少しづつ暗い陰がさしてくる。マーティンの脳腫瘍が、どうもかなり悪化してるみたいなのだ。時々、痛みに苦悶するマーティンを見てると、さすがのルディも先を急がずにはいられない。

 マーティンの母ちゃんにキャデラック届けたときには、危うく警察に捕まりそうになった二人。これをうまいこと逃れて、次は例のルディの願いをかなえるため、ケバケバピカピカの風俗店に颯爽と乗り込む。いやぁ、まさに至福のときだなぁ(笑)。

 ところが身も心もついでにアソコもすっきりしたとこで、彼らは例のヤクザ連中にふん捕まってしまう。この風俗店、こいつらヤクザの経営してたとこだったんだね。飛んで火に入る夏の虫。でも、虫はムシでも、こいつらウスバカゲロウだったのが見込み違い。

 間抜けチンピラ二人組にボスまで出てきて、金はどうした、ありかを言えば命だけは助けてやる…とのありがたいお言葉に、マーティンもルディも、ついでに見ている私まで思わず吹き出さずにはいられない。全部なくなっちゃったという答えに怒り心頭のボス。しかし、そこでさらに上の大ボスが現れた。それは映画ファンなら誰でもうれしくならずにいられない瞬間。泣く子も黙る超大物、ルトガー・ハウアーの登場である。

 ホント、ここで待ってましたと大向こうから声がかかりそうな、鮮やかな登場ぶり。彼の登場はこのわずか1シーンだけだが、まさに千両役者としての貫禄十分。そしてこれが、「恋におちたシェイクスピア」のエリザベス女王役ジュディ・デンチにも匹敵する、何ともおいしい役なのだ。

 ハウアー大親分、テレビの報道などでこいつらの余命いくばくもないことは知っていた。それがわかってればヤボは言うまい。

 さっさと行きな、さもないと間に合わなくなるぜ。

 くぅ〜っ、キマった! さすが大物ハウアーだぜ。「ブレードランナー」で訳わかってないハリソン・フォードに、身をもって命のかけがえのなさ、人生を全うすることの大切さを叩き込んだあのハウアーだからこそ、この一言ぐっと重みも増してこようというもの。

 夜明けの海、砂浜を歩いていくマーティンとルディ。実はルディをコケにしてたマーティンも海を見たことなかったらしい。この時、彼らの目に海はどう映ったんだろう。「タイムトラベラー」でのブレンダン・フレイザーの派手な喜びようも、ちょっと脳裏をかすめる。彼らは大海原への畏敬の念のあまり、砂浜にただ黙ってうずくまってしまうのだ。

 

おとぎ話のその後は…

 調子がよくてテンポがよくって可笑しくて…このあたり、例えば先ほども挙げた同じドイツの「ラン・ローラ・ラン」、オランダの「アムス→シベリア」、イギリスの「トレインスポッティング」あたりに始まって「ロック・ストック&トゥー・スモーキング・バレルズ」までを含む若手作品群、ちょっと違うけどフランスの「ドーベルマン」「TAXI」、また私も最近見る機会があって、その出来にビックリしてしまったわが国の「鮫肌男と桃尻女」…さらにその源流を探ればアメリカのクエンティン・タランティーノの諸作品(もっとも、タラはちょっと悪ノリしすぎているように見えるのだが)にまで至る流れ…本作はこのような全世界同時多発的な若い感覚のハジけた映画の潮流の、まっただ中に生まれた作品ということができるだろう。さしずめ、ついこの前まではタクシーの運チャンをしていたという脚本・監督のトーマス・ヤーンの立志伝などは、今後も典型的シンデレラ・ストーリーとして語り継がれて行くであろうエピソードだ。しかしながら、なぜかこれらの作品群にもっともありがちなものが、この映画では影をひそめている。それは何か? それはいかにも若手監督たちが好むような、映像のための映像のようなお遊び感覚だ。少なくともこの映画の中には、かっこいい映像、否かっこいい“だけ”の映像は見受けられない。そして、その代わりにここにはちょっとしたおとぎ話の感覚がある。

 前に「ノッティングヒルの恋人」について書いたときにもちょっと触れたんだけど、おとぎ話ってのは一種の例え話。そして例え話ってのは当然、我々の身の回りのことをわかりやすく誇張して見せるもんだって言ったよね。

 考えてみれば、彼らがとにかく実現しようとしたことって何だろう。海を見ること? でも、それってそんな大切なことだったんだろか? そのことよりも、それを実現するために全力を尽くすこと。これが何より重要だったんではないかな。目的そのものより、自分を完全燃焼することこそ人生の至福ではないかと考える。黒澤明の「生きる」に出てきた小役人・志村喬が、余力を振り絞って公園づくりに奔走するのも、その生きている手応え、証が欲しかったのに違いない。そういや、マーティンとルディがたどり着いた海辺に、どこからともなく聞こえてくるぜ志村のオッチャンの歌声。♪いのぉちみぃじかぁぁし、こいせよぉおとめぇ…。あれ? これディランの歌だっけ?

 ひるがえって、我々が自分の人生を考えてみるに、そんな完全燃焼の充実を味わうってことはそう多くないだろう。いや、多い少ないというより、全くない奴だっているんじゃないか? どうして? いや、日常の生活の中で、実社会のしきたりとか、いろいろとあるわけよ、会社が、家庭が、夫婦が、社会的立場が…大人は大変なんだよムニャムニャ。結局そんなくだらない理由で、人はホントに大切なことを延ばしのばしにしている。でも、明日死ぬって訳じゃあないからな。マーティンやルディとは違うよ…。

 ホントに違うのか?

 私たちは、みんな死ぬのだ。オギャーとこの世に生を授かってからずっと、実は天国のドアをノックし続けているのだ。マーティンやルディとどこが違うんだ? 思い出してみよう。「八月のクリスマス」のハン・ソッキュ演じる写真館の青年と、「生きる」の志村小役人と、「ブレードランナー」でルトガー・ハウアーが演じていた、自分の死期を知らされているレプリカントと、一体どこが違うと言うのか。

 ならば残り時間の多い少ないに何の関わりがあろう。ぼやぼやしている場合じゃない。私たちは本日ただいまより始めなくてはいけないんじゃないのか。母ちゃんにキャデラック買うところから? 二人の女とセックスするところから? …まぁそれもいいけど(笑)、まずはここから始めようよ。海を見に出かけるところから。

 笑って笑って楽しんで、後に残る清々しさ。こんな素晴らしい映画が、実はもうすぐ劇場公開終了なんて。もう死んじゃった奴らがガキの回りにウロチョロ化けて出る映画もいいんだけどさ、何か忘れちゃいませんかってんだよな。

 お願いだよ配給会社さん、劇場主のみなさま。この映画のために天国のドアを叩くの、もう少しだけ、あとわずかだけ、待ってもらうわけにはいかないのかなぁ…。

 

 

P.S.: 神様ありがとう。待ってもらえた!

(東京・新宿のシネマカリテでは19日終映予定が、20日以降も続映に変更されました! さぁまだ見ていない人は、ただちに劇場に走れ!)

 

 

 

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