「バッファロー '66」

 "Buffalo '66"

 (1999/10/24)


渋谷パルコの広告塔、ヴィンセント・ギャロ

 今年も早や後半戦に突入。東京国際映画祭も含めて、1年でもっとも映画上映本数が多いシーズンにさしかかろうとしているけど、ここらへんでチト駆け足に今年話題になった作品を振り返ってみるのもいい。特に賛否両論だった映画なんか、改めて考えてみるのもいいよね。

 まず最大の話題作だった「スター・ウォーズ/エピソード1」。でも、なぜか肯定派も否定派も早々に話題にしたがらなくなってしまった。この映画が今ひとつ盛り上がらなかったのは、そのへんが原因かな? あと「エントラップメント」なんて小物だし、「マトリックス」かな? 賛否両方とも白熱したのは。でもこの映画の場合、肯定派はこれを「映画の概念を塗り替える革新的映画で、否定する奴は古い奴だ」でかたずけてしまうし、否定派はというとこれ支持する奴を単なるオタク呼ばわりするケースが結構多かった。それ何か違うんだよニャー。

 で、じゃあ賛否両論映画の最右翼はというと、これなんじゃないのかな。「バッファロー'66」。

 テクノロジーや周囲の話題性じゃなくて、純粋に映画の内容に肯定・否定の論議がわき起こる、言ってみれば健全な賛否両論映画(笑)。渋谷の新しい映画館のこけら落としの作品として上映され、何と現在までロングラン中。この不景気にまずはめでたいことですな。

 だが、私はどうもこの映画見に行く気にならなかった。この映画…というのは正確じゃないな。監督・主演を務めたヴィンセント・ギャロを見たくなかったというのが正しい。大体、ヴィンセント・ギャロって何者? この「バッファロー'66」が公開される前に、何人の映画ファンがギャロなんて知ってた?

 例えば今年ブレイクしたレイチェル・ワイズだって、「ハムナプトラ」があって「輝きの海」や「スカートのなんとか広げて」があって…と売れてく過程があった。サンドラ・ブロックだって「デモリションマン」があって、あの娘いいなと思ってたら「スピード」でブレイクした。「マトリックス」ででかく当てたウォシャウスキー兄弟だって、その前にシブめの「バウンド」があると聞けば、否定派だってうーむとうなづく。そういうもんかね? そういうもんだよ…と小津安二郎映画の笠智衆のセリフみたいな納得の過程があるわけ。

 ところが「バッファロー'66」は渋谷のパルコ・スペース・パート3改め、新生映画館シネクイントのオープニング作品として最初からセットされ、映画が公開される前に「あの」ヴィンセント・ギャロの作品扱いされていた。もうその時にはパルコの広告に使われることにもなっていただろうしね。この映画でブレイクしたというわけではない。まだ映画を誰も見ていないのに、「あのギャロ」扱いだった! それっておかしいんじゃないのか。パルコの奴が、誰か手垢のついてないタレントを大々的に売り出し、ウチはひと味違うって売り方しようと思いついて、白羽の矢が立ったのがギャロなんだろう。その商品としてのパッケージのされ方が、渋谷の街というウンザリするような場所柄と相まって、ギャロを胡散臭く見せていたのだ。だって、若い女の子がまるで何年も前からハリソン・フォードよりよく知ってるみたいな顔して、やっぱーアタシにぃーぴったしくるセンスってぇーギャロの映画とかだしぃーなんぞとホザきそうな雰囲気。ガメラはどうした! 渋谷を破壊し尽くしてくれたんじゃないのか!

 おまけにあのツラ! 男が同性の面構えをどうこう言えるわけでもないが、あのエメリッヒが監督したUS版「ゴジラ」も、ギャロならノーCG、ノー特殊メイク、ノー着ぐるみでいけるぜって感じ。それが、俺いい男だろ的に突っ張ってんだから始末に負えない。こいつバカなんじゃないかと思ったよマジで。

 で、そのバカなんじゃないか…というところがまさにギャロのギャロたる所以であると思わされたのが、この「バッファロー'66」。7月に公開になってから大好評ロングランとは聞いてたが、どうにも嫌な渋谷まで足を運んで、長い間待ったり並んだりしてまで見たい映画じゃなかったんだよね。でも、空いてきたとあって見ようかという気になった。好きと言う人とイヤと言う人、それぞれの言い分に決着つけたい気もあったしね。

 

開巻まもなくギャロの戯言にウンザリ

 寒々とした天気の下、ショボくれ男が刑務所から出所してくる。ヴィンセント・ギャロである。刑務所の前のバス停のベンチで待っている間、横になってしまうギャロ。その寝ているギャロの姿の映像の上に、小さな分割画面がボコボコいっぱい出てくる。それら小さな画面の中はギャロの刑務所生活のスナップの数々。無為に過ごした刑務所での歳月の長さを表現した画面構成…と言えば聞こえはいいが、早い話が主人公が何か考えるとマンガの吹き出しみたいにそのイメージが小さな画面となって、スクリーンに割り込んでくる感じ。今、挙げた場面だと、まるでエロ・ホームページ見ようとクリックしたら、小さな関係ないウィンドウがポコポコ次から次とデスクトップ上に開いてちっともお目当ての画像が見れないときを連想していただければ、スクリーンの様子がおわかりいただけると思いますよ。…いやいや私は知らないけど、友達に聞いた話です(笑)。まぁ、とにかくわかりいいって言やぁわかりいい表現。けどヤボっちいと言えば、まさにヤボですな。

 そのうちギャロは冷えたのか小便したくなって、刑務所のトイレを貸してくれと言いに行く。出たばかりの刑務所に入れてくれと言いに行くなんざ、この男のアホさかげんがにじみ出る。当然断られて、仕方なくバスに乗るギャロ。バスを降りてから必死に便所探すが、こういう時ってないもんですよね。苛立ちはつのる。この小便できないって描写が延々続いたあげく、ギャロはとあるダンス・スクールが居を構えるビルの便所にようやくシケこむ。ところがトイレの隣の便器で用を足してた男がナニをのぞいてると怒り、出るものも出なくなったとまた怒る。こいつおかしいんじゃねえか?

 苛立ちも最高潮に達してきたギャロは、通りがかりのダンス・スクールの生徒、クリスティーナ・リッチに毒づいたあげく、小銭をせびって(このセコさ!)実家に電話をかける。この内容がショボくて、現実の自分とは裏腹に、出世していい暮らしして女房もいるとか虚勢張って言ってるから悲しい。女房連れてこいと親がうるさいんで、つい「連れてきゃいいんだろ連れてきゃ!」と言ってはみたもののプランなし。ちょうどトイレから出てきたリッチをふんづかまえて(蛇足だけど、ついさっきまで自分のナニつまんだまま洗ってない手で!)ビルの外まで引きづりだす。凶器も持ってないし、貫禄のリッチと貧弱なギャロでは誘拐にならんだろうと思うんだが、なぜかギャロはリッチを拉致して、彼女の車で逃走することに成功。途中、オートマ車の運転の仕方がわからないとかわめき通しで、バカで非力なくせに何だかんだとでかい態度でものを言うギャロにもうウンザリ。見なきゃよかったと後悔で胸はいっぱい。

 で、もっとわかんないのがリッチ嬢。今までより以上のムチムチ度でケバいメイクと、ほとんどフリークス的な登場ぶりだが、この彼女ギャロになぜか誘拐され抵抗もせず言いなり。ギャロが外で立ち小便している間も車内で待っている。それほど気弱でおとなしそうなキャラでもないのに、女房のふりをして俺を立てろとか無茶な要求をしてくるギャロの言うとおりしようとする。まったくもってナニ考えてるかわかんないのだ。

 とにかく映画始まってまだ10分ぐらいしか経ってないのに馬鹿ギャロの戯言たっぷり聞かされて、正直ウンザリ。こんな奴を肯定的に描く映画だったらつき合いきれねえやと思った頃、クルマはギャロの実家に着く。リッチは聞いたこともない別の女の名前を名乗らされて、ギャロの女房の役。しかしここからが、実はこの映画の本当の狙いが明らかになってくる肝心かなめの部分なのである。

 

わかる人にはわかる、リアルな痛みの実感

 ギャロの実家のシーンは、全編の中でもひときわ緊張感走るくだりだ。私は経験ないけど、たぶん私が何かの間違いで結婚でもすることになり、婚約者の実家にでも挨拶に行ったらこんな感じの貧寒とした雰囲気だろうと思わせるいたたまれなさ、息苦しさ。テレビがついたまんまで、その音声がよけい冷え冷えとしたムードを助長する。あの「歓迎されてない」という感じ。

 親父がベン・ギャザラ、お袋がアンジェリカ・ヒューストンという見る人が見れば豪華キャストだが、このてめえ勝手で無神経な両親と冷え冷えとした家庭のリアルな描写が作品全体のトーンを決定づけてしまう。ギャロがいかにこの両親の下で傷づけられ歪んでいったかが、理屈ではなく納得させられてしまう。これを説明でクドクドやられたら、甘えるんじゃねえとギャロに反感しか持たないだろうけどね。でも、このいたたまれない緊張感って、私何度も経験しているような気がしたんだよな。普通の人たちならそんなに経験することもないんだろうけど、私はこの気詰まりする感じよく知っている。

 それは、幼稚園の頃よく遊んで親友だと思いこんでいた子の家に、小学校入学の直後に遊びに行ったとき。玄関に出てきたその子の顔が、私の顔を見て歪んだ。家の中に入ると、もう小学校で早くもできた友達が来てて、自分は来るべきではなかったと痛いほど思い知らされた。

 あるいは小学校のクラスメートの誕生日に呼ばれたとき。みんなプレゼントなんか持っていかないと言われて真に受けて、遊びに行ったらプレゼントなしは私一人だけ。ハメられたと気づいたときは遅かった。誕生パーティーの最中は早く帰ることばかり考えた。

 またはずっと下って、今をさかのぼること8年前。惚れた女が南半球の国へ行き、必ず訪ねてきてと再三の誘いに重い腰上げて出かければ、ひたすら気まずく、まるでなぶりもの扱いの一週間。後にも先にもこんなひどい目にあった記憶はない。

…そういった自分の人生の時々の感情が、わき起こるように沸々と胸の中に蘇ってきた。見ててつらい。ギャロも黙ってしまって、あのバカっぷりも陰を潜める。リッチが時々ギャロに言われた通りにヨイショしようとするんだけど、それもキジも鳴かずば撃たれまいに的な最悪のタイミングになっちゃって、よけいドツボ状態。頭抱えるギャロ、状況を把握してきたリッチ。

 両親に別れを告げ、家から出てくるや「余計なこと言いやがって」と、てめえが頼んだことも棚に上げてリッチをなじるギャロ。でも、すっかりリッチにはお見通し。本来ならここでお役御免のところを、別れがたくズルズルいっしょにいる二人。そんな中で、ボウリングだけが唯一の栄光だった過去(「ビッグ・リボウスキ」以来、情けないスポーツとくればボウリングと決まった感じですな。)や、アホな賭けに手を出して大借金こさえたため、ヤクザの罪をかぶってムショ入りしなけりゃならなかった顛末が明らかになっていく。ツキに見放され、負け続けた人生。そのくせ愛想のひとつも振りまけず、ますます嫌われる不器用ぶり。ますます私は胸のあたりがモヤモヤしてきた。

 ココアが飲みたいと言うリッチのためファミレスに入れば、昔クラスメートだった女が婚約者を連れて入ってくる。ギャロを見つけると、妙に挑発的に話しかけてくる女。あれ?この女の名前、さっき私が名乗らされた名前と同じだわ…とリッチ。ギャロの昔の初恋の人であろう、無神経な女を演じるのはロザンナ・アークェット。私は彼女のファンだったけど、最近は彼女ロクな役やんないから悲しい。でも彼女、俺と同い歳なんだよね(だから何なんだ)。

 苦痛といってもナタでザックリではなく、ノコギリでゆっくり引き裂かれるような痛み。あるいは、もの凄く熱い風呂に入っちゃって、ピクリとも身動きできない感じ。この作品に終始一貫して流れる傷みの実感。アークェットの人をバカにしたような言葉の端々に、ますます傷ついていくギャロ。もう耐えられない。ギャロはついにリッチを置き去りにして、ファミレスから出ていってしまう。でも、戻ってくる。…まだ、小便してなかったんだ!

 便所で小便をしたギャロは、わき上がる感情についに泣き出す。ここで私も認めたくないけど、自分の中に隠された感情…ずっと秘めて誰にも言わなかった感情を認めざるを得なくなる。なぜ、どうして俺をこんなひどい目に合わせるの? 俺、君に何も悪いことしてないのに。…泣いて自分のちっちゃさムキ出しにしたギャロは、リッチの前に戻って初めて自分の非を詫びる。

 モーテルに入った二人。リッチは当然愛し合う男女ならあたりまえのことを予想する。しかし、ギャロは戸惑うばかり。だいいち今までのリッチへの態度だって、何かヘンだ。愛されたことがないから、人を愛する仕方もわからない。やさしさを態度で示すことができない。こう言葉で書くと歯が浮くようなキザな感じに見えるでしょ? でも、これ本当なんだ。

 何で素直になれないの? 何度この言葉を聞いたかわからない。でも、その「素直」ってのが、そもそも私にはわからないんだ。それとも、他の奴らがやたらこれ見よがしにチャラチャラ人に「好意」を見せて、そのあげく一番最悪のタイミングで裏切ったり傷つけたりするあの流儀をマネろとでも言うのか? これから君が俺にしようとしている、その「好意」とやらのように…。何だかスクリーン見つめてて頭痛がしてきた。

 そのちっちゃい自分と対峙することでガス抜きでもしたかのように、アクが少し抜けたギャロ。しばしの安らぎの中にまどろむ二人。でも、ギャロには胸に秘めた、バカにはバカなりの落としまえのつけ方があったのだ。

 ギャロがムショ入りしなけりゃならなくなった元凶の、フットボールの賭け。その運命のスーパーボールの試合、ごひいきチームの勝利一歩手前で大チョンボした選手が、今この街でストリップ小屋を経営している。ウワサでは八百長だったとか諸説ふんぷんあるが、もうどうでもいい。俺の人生狂わせたあの男にキッチリ復讐してやるのだ! もうヤケクソ。

 シケた拳銃を胸元にしのばせ、止める女にゃ買物とウソをつく。止めてくれるなリッチちゃん。バカにはバカの意地がある。

 単身ストリップ小屋になぐり込んだギャロがどうなったかは、劇場かビデオでご自分の目でお確かめいただきたいですが、こんな映画にして意表をついた至福の瞬間がラストにはやってきます。

 

ギャロを憎んで映画を憎まず

 例えばこの映画が嫌いな人は、映画そのものとギャロを心底嫌うみたい。甘ったれんじゃねえ!というふうに思うその気持ちはわかる気もします。ギャロは終始てめえ勝手なバカだしね。

 それからクリスティーナ・リッチのキャラクターが、主人公にとって徹頭徹尾、都合のいい人物になってるのも評価別れるところ。あれだけ言いたい放題バカ放題の男つかまえて「あなたは優しすぎるのよ」とは、好意的に解釈するという域をとっくに越えたおめでたさ。それは折角のグループをおシャカにしてもクズ男のほうがいいらしいSPEEDの島袋みたいな、頭に血がのぼっちゃったようなのとは違う。ほとんど菩薩さまか観音さまのような、度を超した都合の良さなのだ。このあたりも、正直言ってドラマとしては弱いとこだろうし、嫌いな人には耐え難いとこなんだろうね。しかも、この映画はクリスティーナ・リッチ演じるヒロインなしには成立し得ない構造になっている。

 例の小さな分割画面を主人公の胸中のイメージとして多用する技法も、今回この映画に限っては有効に機能したが、本来はヤボでダサーいテクニック。正直言って、この映画ほとんどまぐれみたいな出来なんじゃないだろうか。

 でも私は、あのヒリつくような居たたまれない実家のシーンだけでも、この映画すぐれていると感じてしまう。…これはね、理屈じゃない。肌で知った実感だ。この映画の出来、ギャロのキャラクターに確かに疑問は残るが、理屈でなく生き物としての私の本能が、この映画に流れる感情がホンモノだと言っている。この映画を唾棄すべき作品と一言で片づけられる人は、とっても幸せな人なんだろうなと思うよ。そりゃ私だってそう生きてきたかった。

 だからギャロその人に才能があるのかどうかは、極めて疑問と私も思ってる。今回たまたま、の可能性高いよね。

 この映画のキャンペーン&パルコのプロモーションで来日したギャロは、どうも乱暴狼藉、無理難題で日本のスタッフを困らせ続けたらしい。やっぱ映画そのままのゲス男のキャラではないか。

 ヴィンセント・ギャロ、やっぱり映画はまぐれだな?

 

 

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