「マトリックス」

 "The Matrix"

 (1999/09/26)


なぜピンとこない

 この話題作の話をする前に、ちょっとまた私事を話させてください。えっ?また?…って、そう嫌な顔しなさんな。今回ばかりはこの映画と密接に結びついた話なんですから。

 いつもと違って結論から言ってしまうと、この映画なぜか私はイマイチだったんですね。でも、イマイチと言ってもその定義が難しいな。

 何でこんな変な書き出しで始まったかと言うと、先日ある映画専門の掲示板でちょいと「マトリックス」についてイマイチとのコメントを書き込んだところ、まぁドドッと反応ありまして、自分としてもあまり深く考えないで書き込んだコメントだったので、ちょっとビビッてしまった。それに、思いの外、自分のコメントがキツい印象を持ってしまったのも、気になった。

 そもそも、この映画ホメる人は絶賛に近い状態ですよね。例えに出しては悪いけど、私も自分が「エントラップメント」や「グロリア」に異論を吐いたのなら別に問題なかった。だけど、この作品かなりの人が相当に好印象以上のインパクトを受けた映画だとすれば、「俺はイマイチ」の一言でかたずけるのもどうか。

 いや、これが駄作でしょーもない作品と思えたのなら、それもよし!だったけど、そうでもない。面白くはあった。でも、ものすごいと人に言わせる映画としては、私のその程度の反応は合点がゆかない。しかも、見る前はかなりな作品ではないかとの予感を抱いて映画館に行ったのだ。

 だから…

 一体この映画のどこが私にはピンとこなかったのか?

…これは語る価値があるテーマではないかと思うんだよね、この映画を好きな人、そして好きでない人にとっても。

 

ホントに現実と虚構の葛藤がテーマか?

 長い前置き我慢してくれてありがとう。最終弁論に移ります。前に「マトリックス」について、スペイン映画「オープン・ユア・アイズ」と似たような題材ではないかとどこかで書いたところ、ある方に全然違うとこれまたお叱りの言葉を受けた。要は現実か虚構か、その境界がわからなくなって自分のアイデンティティがあいまいになっていくみたいなところがあるかと私は思ったわけですよ。

 で、見てみると、やっぱりそういう部分もあった。思った通りじゃん。お叱りを受けたのがなぜだかわからない(笑)。私はそのときそう思った。

 つまり主人公のキアヌ・リーブスくんが悪夢かと目覚めると、また夢で…みたいな描写が続いたあげく、これホントに現実なのかいみたいな感じになって…というとこが似ているというだけの話で、俺そんなに難しいこと言ってたわけじゃないんですよ。

 で、ローレンス・フィッシュバーンが出てきて、「マジで目覚めてみないか?」みたいなことを言って、キアヌが言われた通りにしたら、あら不思議! ツルッパゲ、まるハダカ、体中にケーブルつけられてる自分に気づく。自分じゃ大都会でバリバリ生きてる社会人のつもりが、実際には寒天みたいなドロドロの中に、水栽培されてるグラジオラスの球根状態で浸けられていたのだ。

 再びフィッシュバーンいわく、機械たちは人間を支配して栽培し、その生体エネルギーをいただいているのだよマトリックス。

 そう。そんな何もできない栽培されたままの人間たちに、「いい夢見させて」あげてるのをマトリックスというらしい。うんうん。これぞ悪夢のイメージ。だが、そうなんですよ、怖いですねーという感じに、このエピソードはさっさとかたずけられて、次へ行く。

 だから、ある意味では「マトリックス」は「オープン・ユア・アイズ」と似てるね…とか、「オープン・ユア・アイズ」の方が衝撃的だったという私の意見は、今思えば確かに的外れだ。だって、そんなアイデンティティの危機を描こうという気が、「マトリックス」の作者にはハナっからないんだもの。

 では、こんな「現実か虚構か」みたいな設定は無駄ではないかって? いや、そうじゃない。

 今まで映画で描かれなかったような、ユニークなアクションとビジュアル・イメージを見せるために、これが必要だったのです。

 

「マトリックス」ゲームのルール

 キアヌはフィッシュバーン率いる反乱ゲリラに加わり、ここでの戦い方を伝授されていく。つまり脳味噌をプラグでつないで、マトリックスの仮想の世界で戦うわけ。そこは仮想の世界だから、何でもあり。オール・オーケー。空も飛んじゃうし、弾丸もよけちゃう。なぜだか知らないけど、いきなりカンフーの大家にもなる。これがゲームのルールだ。

 考えてみれば、どんなに映画が夢の世界だと言っても、映画100年の歴史の原点は現実の再現にほかならない。…ということは、大なり小なり我々の世界の法則に従ったモノにしかならないという限界があるわけだ。そりゃーSFXだとかCGとか。いや、そんなものがない昔からさまざまなテクノロジーでありもしないものをつくろうとはした。でも、実際はそれはテクノロジーの問題ではなく、我々の頭の問題だ。我々の概念の外にあるものは、なかなか出てくるもんじゃないよね。

 「マトリックス」は何でもありルールを最初に提示したために、信じられないアクション映画となった。だって弾丸当たんないんだもん。そして、そんなルールを持ち出す裏付けとして、現実は虚構かもしれないというお話を出してきたわけだ。だから、何でもありアクションができる!となったら、もうそんなアイデンティティの危機なんてどうでもいいわけだよね。すると、意味ありげな設定をつくりながら、実はそれほど深い話じゃないというところに私は引っかかってたのかな? キアヌはすぐに悩まなくなる。そして冒険だ!

 飛ぶ飛ぶ。新橋の屋上ビアガーデンの金髪ベリーダンサーみたいなかっこで弾丸はよける。ビルの1階フロアで弾丸雨あられと降り注ぐ中、一発も当たらずにクルクル宙返りのキアヌ。

 うん。かっこいい。美しい。今まで見たことのないアクションだ。確かにこれをやるためだったら、現実がどうしたこうしたなんて理屈はどうでもいいでしょ。

 おかしいなぁ、俺は「マトリックス」批判をしようとしてるのに。ケナせないじゃない。なぜだ。ならば、なぜ私は「マトリックス」にノレなかったのだ?

 

キアヌは何を考えている?

 救世主ではないか(なぜかはわからないけど)と見なされて仲間に引き入れられたキアヌは、俺は違うとか何とかダダこねながら、いつの間にか神業的な活躍を連発する。ダテにブッダは演ってない。最後、こりゃーオダブツかな?と思ったら、秘かにホレてた女の相棒がキスをして、あれれ甦ったぜ? 救世主は違う。バイアグラいらず!

 こう書いてきて、何となく私にはわかってきたな。どこが私のお気に召さなかったのか。何だかこれって「トップガン」に似てる。空軍で大して努力も苦労もしないのに成績抜群のトム・クルーズが、誰でも入れるってわけじゃないえり抜きトップガンに選ばれて、美人でナイスバディの年上後腐れナシの女教官も思いのまま。氷でエッチやりまくり。途中、事故で同僚が死んで悩んでるふりするけど自分は無傷。最後にライバルとも力を合わせて、にっくきソ連のミグを見事撃ち落としてビバ・アメリカ!イェーイ! 理屈はともかく戦闘機の飛び立つ姿があくまでスタイリッシュに美しくとらえられ、ケニー・ロギンスの「デンジャー・ゾーン」がガンガン流れる…。

 いや。作品のレベルはだいぶ違うよ。でも、なぜか底辺に流れるものに似ている部分があるのだ。ある種の調子良さと言うか…。

 シチュエーションやアクションの上での制約やハンディがすべてマトリックスによって取り除かれ、主人公の人間的限界すら「救世主」の名の下に取り除かれた物語で、サスペンスや驚きはどこから生まれ出てくるのだろう。それは、おそらくきわめてデリケートながら難攻不落の場所、人間の心の中、ヒューマン・ファクターの中にしかありえない。

 しかるに、この映画の中のキアヌはどうだ? ヒューマン・ファクターを感じさせた部分は、映画の最初の頃。フィシュバーンに携帯電話で「ビルの窓から外に出ろ」と言われてビビるところぐらいだ。あとは実際、何を考えているのかわからない。救世主と言われて困っているのか、内心そう思っているのか、元々人一倍正義感が強かったのか、そもそも栽培されている他の人間たちとどこが違ったのか、大体これからどうしたいと思っているのか、今の状況をどう思っているのか? 同僚の女にホレられているのを気づかず、予言者のオバサンに「ニブいわね」と言われるキアヌだが、これがホントなら同じくらい女心にニブい俺だって救世主だ(笑)。この前、あの女が何のつもりであんなこと言ってきたのか俺にはわからない。俺はホレられてるのか? 単なる誤解か? なぜ気づかない。

 でも俺は世界を救えないし、自分だって救われない。なぜ? ホワーイ?

 本来ならキアヌは、物語の最初に奇妙な事件に巻き込まれて驚き、今の世界が現実でないと聞いてとまどい、現実の世界に呼び戻されておそれおののき、反乱ゲリラの一員として鍛錬するうち自らの内なる力に目を見張ったはずだ。そのとき、初めて華麗なる映像美学も、猛烈なアクションも火のような熱さを持つはず。

 映画は映像だ、見た目があればいい…という意見もあるよね。おっしゃる通り。そういう映画も存在する。だが、この映画はそんなふうに見るにしては、すでに「意味」をベタベタ張り付けすぎている。何でもありアクションにしたときマトリックスを持ち出したあたりから、もうこの映画は「物語る」運命にあるのだ。

 「人間が描けてない」って批評は私の一番嫌いなものだ。何だかそう言ったら誠実な批評をやってるような気になるもんな。ハリウッドの映画やSF映画をケナすとき、毎度使われる陳腐な常套句。でも、今度ばかりは私も、その言葉の意味は違っても、それを言わずにいられない。なぜか?

 それは何て言ったってマトリックスだからだ。オール・マイティー・カードを切ったからだ。何もハンディがない設定をあえて作り出した勇気はたたえたい。それは何ら批判されることではない。だがそれならば、それを上回る葛藤を、危機を、モチベーションを、作品と主人公の上に掲げるべきではなかったか。凄いことをやれと言っているわけではない。ただ、キアヌが何を考えているのかだけでも、明快に見せるべきだったはずだ。

 なぜなら人間を上回るドラマティックなものは、この世にはないのだから。

 

 

 

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