「セレブリティ」

 "Celebrity"

 (1999/08/29)


最近のウディ・アレンをどう思う?

 ここんとこ何作かのウディ・アレンって好き?と聞かれたら、私はどう答えるか…正直ちょっとフクザツなものがありますね。いろいろな映画サイトの掲示板をながめても、映画マスコミでは相変わらず高く評価されているアレン作品について、映画ファンの審判はそれこそボロクソ。あのしゃべり方がムカつく、生理的にイヤ、理屈っぽくてダメ、主人公のキャラが肌に合わない、台詞が多すぎる…何かジャージャー・ビンクスなみの罵倒されよう。まぁ、すべてみなさんのおっしゃる通りだとは思いますよ。で、こうして見ると、すべての非難はウディ・アレンその人のキャラクターに向けられているというのも、ワンマン映画であるアレン作品の特徴なんでしょうね。

 それとは対照的に、オシャレなアレン映画を好む人たちもいるにはいて、そんな人たちは恵比寿ガーデンプレイスあたりに出没してるらしい。

 でも、実はアレン作品はもう長いこと私の大好きな映画だったんです。それも、とても個人的な愛着というのかな。好きだったし、何だか人ごととは思えないところあったし。

 それがここ何年か、ちょっと変わってきちゃったんですよね。

 「ハンナとその姉妹」あたりからですか、彼の映画のオールスター・キャスティング化が始まったのは。最初は単純に映画ファンとして、私喜んでたんですけどね。しかし、そのうち映画そのものが少しづつ変貌してきたようで、実はここ最近のアレン作品は私あまり好きじゃないんです。

 「世界中がアイ・ラヴ・ユー」とか「地球は女で回ってる」…特に後者なんか、ふざけんなこの野郎!と久々に腹が立った。

 何だか形骸化しているオールスター・キャストも気に入らないし。まるで近年のロバート・アルトマン映画みたい。アルトマン作品もハリウッド・スターのステータス・シンボルになっているみたいで、みんな争うように出演してるけど、かつてのアルトマン作品の鋭さったら、あんなもんじゃなかったんだよ。今はそれをオールスターで誤魔化してる。かつての反逆児のなれの果てが、とっても見苦しいよね。

 じゃあ、何で私はかつてのアレン作品があんなに好きだったのだろう? そしてなぜ今ダメになったのだろう? それにはちょっとタイムマシンに乗る必要があるかも。

 

忘れじの「アニー・ホール」

 今を去ることン十年前の春、大学受験に失敗した私は、再び受験勉強に戻るまでの短い期間、映画鑑賞に没頭しようと片っ端から見まくっていました。「アニー・ホール」はそんな映画の中の一本だったのです。見るまでアレン作品についての知識はゼロ。いやホント。

 これ見たときの感動は今でも忘れられないんですよね。アレン演じる主人公は、まぁ自分をインテリだと思ってて事実インテリなのかもしれないけれど、自分を良く見せようとして、考えすぎて、自分でも自分のホンネがどこにあるのかわからなくなって。カッコつけているうち、大魚=アニー・ホール(ダイアン・キートン)を逃してしまう。このダメさかげん。でも、こんなところって誰にもありませんか?

 続く「マンハッタン」もそう。これに「スターダスト・メモリー」も加えて、このあたりのアレン作品は私にはホントしっくりする映画だったんですよね。それは自分でも身に覚えがあるバカさかげん、みっともなさ、ダメぶり。いいかっこしてるつもりで、ホントに大切なものを逃しちゃう哀れさ。そうねぇ、例えばニキータ・ミハルコフがかつてつくってた、チェーホフの原作ものにも通じるホロ苦い笑いと悲しさなのですよね。

 どうしてあんなこと言っちゃったんだ、やっちゃったんだと悔やんでも、ついまたやってしまう。今どき映画でも実生活でもキッパリ言ったりやったりするかっこいいい人が増えてますよね。誰もが悔いはありませんとか、ちゃんと納得してますとか言ってる。街を闊歩するキャリアウーマンなんて弱みも迷いもないみたい。彼女たちに限らず、みんな甘えてません、自立してます、自信あります、人が何と言っても関係ありません、世の中何でもわかっちゃってます、ヨロシク…みたいな顔して、まるでウンコもオシッコもしないかのように肩で風切って歩いてる。ついでにドンって思いっきり人にブチ当たっておいて謝りもしないが、完全無欠人間はそれでいいんでしょうかね? 自分の弱くて迷っててグシャッとした部分が全くないような顔をするってのは、いつも強気って顔しないとヘコまされてしまう欧米社会、中でもアメリカの影響なんでしょうか。しかし、私なんかどうしてもこう思っちゃうんですよね。世の中、そんなに単純なもんだろうか。人間、そんなにキッパリやれるもんなんだろうか…って。

 そんな中で単純強気アメリカンな国から来た、カッコつけつつ実は情けないウディ・アレンって存在は、私の複雑な気持ちを代弁してくれるみたいで、とてもうれしかったんですよね。みんな肩で風切って歩いてる訳じゃないんだって。

 結婚しようって言ってくる女を、ホントは愛しつつもカッコつけたいから「ウザいんだよね」とか言ってあしらったつもりが、いつの間にか女が離れていってしまうと、実は自分は取り返しのつかない失敗をしたと気づき、あわてて恥も外聞もなく追っかけてくんだけど後の祭り。

 ああ、オレって何てバカだったんだろう…。

 当時のアレン映画に流れていたお話ってこんなところで、だから共感を感じてたんですよ。

 でもその後、「巨匠」化したアレンはスターがこぞって出たがる映画の作り手、クリエイターのヒーローとなってしまう。画面じゃダメ男を演じてるつもりが、アレン映画は虚像と実像が紙一重のところがミソだから、だんだん雰囲気変わってきてしまう。後年のアレン好きな人は、あのセンスいいんだよねとか、オシャレだねとか、一切妥協しないのにハリウッドスターがひれ伏すとか、格好いいまんまの彼がいいんでしょうね。でも、オレはそこが気にくわなかった。偉くなったアレンなんてただの偽善者じゃん! 「地球は女で回ってる」なんて、いやぁオレ魅力的だからさ女が寄って来ちゃうんだよトラブルも多いしオレも自分勝手でいい加減だからさでもそこはそれ何とかなっちゃうんだよなアッハッハ…って、ふざけんじゃねえ!!

 そして今度は「セレブリティ」ときた。「有名人」だよね。しかも、絵に描いたように、今をときめくレオナルド・ディカプリオまで動員してスターがもうキラキラ。こりゃ単なるイヤミなんじゃないかい? それとも開き直ったか?

 

自身が「セレブリティ」と化したアレンは…

 見て驚いたのは、今回主役がアレンではなく、イギリスの若き天才ケネス・ブラナーを持ってきてること。この人も私大好きなんだけど、どうして好きかというと、他の人とちょっと違う理由かも。シェイクスピアを演らせれば「オリビエの再来」とまで言われる男なのに、のこのこハリウッドまで出かけてミーハーな仕事もする。ついでに自分のシェイクスピア映画にまでハリウッドスター連れてきて娯楽映画にしちゃう。この腰の軽さ! そこがいいんですよ。それが、ついにウディ・アレン映画ですか?

 そして、これはどこでも言われていることだけど、実に見事なブラナーのアレンぶり。アレンそのものの台詞回しで、これがイラつく。アレンのあの演技は、もうすでに一つのブランド化してるでしょ? だからあんなもんかで済むんだけど、ブラナーがこれやるとかなり苛立ちます(笑)。でも、これが徐々に効いてくる。

 安定した仕事、妻との生活なげうって、一念発起で脚本家や小説家としてのサクセス狙う中年男ブラナー、それなりに魅力的だから女も寄ってくるし、自分も有名人たちの中を泳ぎ回って虎視眈々。でも、これといった骨っぽさも度胸も実はないから、いつもトホホな結果に終わる。

 ブラナーがやるから耳障り、ブラナーがやるからみっともない。でも、それが狙いなんだよね。だから自分が主役を演らず、ブラナーに任せたんだろう。立派に見えない、勝利者に見えないってことは、この作品では重要だ。近年のアレンにできないことが、実はそれなんだよね。

 私もある程度の年齢になって、自分もこれじゃいけないとジタバタし始めたクチなんだけど、人にはそれなりにうまくいってる顔もしなくちゃいけないが、実はうまくなんていってない。トホホな状況なわけ。しかも、残り時間もだんだん見えてきて、どうやら最悪の事態を認めざるを得ない状況になってきた。

 どうも、自分の人生は失敗だったらしい。

 これを認めるのは苦しいよ。ホントにつらい。でも、どこかで真実と向き合わなくてはいけないんです。「セレブリティ」ラストのブラナーの心の叫びは、私には痛いほど伝わりました。

 そう。この作品のブラナーは滑稽だね。笑えるよ。何てみっともないんだろって思う。いいかっこして、自分に得な方向に一生懸命風向き読んで。自分の我を通して好きにやるって志はある意味間違ってはいないが、いつも目先しか見てないし、つまらぬスケベ根性も鎌首もたげてくるから、何一つモノにできずに終わる。でも、それってまさにオレの姿だ。

 そしてそれこそが、「アニー・ホール」以来、私を引きつけてやまないウディ・アレンの魅力なわけですよ。

 今回は、そんなアレンくささが戻ってきた快作。今日びの若いファンには不評でしょう。前からアレン嫌いな人はもっと嫌いなはず。だからいいんです!

 

 

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